詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木芳子「泣けるたくあん」

2016-04-12 08:16:48 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木芳子「泣けるたくあん」(「きょうは詩人」33、2016年04月08日発行)

 鈴木芳子「泣けるたくあん」の、一連目の後半。 

女友達のダンナが
自分が漬けたという
たくあん一本を持ってきてくれる
うちの若いもんは食べないとぼやきながら

 何でもないようなことばなのだが「うちの若いもんは食べないとぼやきながら」という言い方が気になった。友達のダンナのことばをそのまま書き写したものなのだろうけれど、そこに、何か友達のダンナの「肉体」がふわっと浮いて見える。

いままで見たことのない
奇妙なたくあんである
まず細い 直径が二センチ余り
黒ずんでいて
どこかの国の大王様の髭のよう

これは一筋縄ではいかないと
千切りにして食べてみる
固い固い ひたすら固い
甘くもなく しょっぱくもない

味がないというものは
噛んでいるうちに だんだん
味がにじみでてくる
これはきっと飽きがこないだろう
でも固すぎてそうは食べられない

 たくあんを食べたときの感想が淡々と書いてある。「味がないというものは」から「これはきっと飽きがこないだろう」までの四行は、「意味」が明確。それはそのまま友達のダンナの生き方(思想)とも通じるのだろうなあ、と思って読んでいると。
 次の二連が、突然、飛躍する。

女友達は脳出血で
病院のベッドに横たわったまま
三年目を迎えている
最近少し目が開けるようになった

彼女がこのたくあんを見たら
かすかに開いた眼(まなこ)から
きっと涙を流すだろう

 これも、まあ「意味」なのだが。
 「意味」ではないものが、ふっと、ここによみがえってくる感じがする。一連目の「うちの若いもんは」ということばが、「意味」を「意味」ではなく「現実の手触り」のようなものにする。
 そうか「うちの若いもんは食べない」が、女友達は食べたのだ。
 もしかすると、それはダンナが漬けたものを食べたのではなく、女友達がダンナに食べさせたものなのだ。ダンナは、鈴木と同じように、「ひたすら固い/甘くもなく しょっぱくもない」と苦情を言ったかもしれない。しかし、食べさせられつづけて、「噛んでいるうちに だんだん/味がにじみでてくる」ということを知ったのだ。
 いまダンナは、そういうことを思い出しながら、妻がつくってくれたたくあんをつくってみたのだ。やっとできた。それは「うちの若いもんは食べない」。けれど、妻は食べるだろう。そして、もしかしたら、妻の女友達(鈴木)も食べるかもしれない。代わりに食べてくれるかもしれない。鈴木が食べれば、それは妻が食べることにもなる。そんな思いがあって、たくあんを持ってきたのだろう。
 あ、こんなことは書いていないか。しかし、書いていないから私は「誤読」する。勝手に読む。
 最後、「きっと涙を流すだろう」は、単なる想像ではない。鈴木が実際に涙を流したしたのだ。女友達の代わりに、涙を流したのだ。いや、「かわり」ではなく、そのとき鈴木は友達になって涙を流している。


*

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