宇佐美孝二「博物誌」(「アルケー」12、2016年04月01日発行)
宇佐美孝二「博物誌」は昆虫のことを書いている。
何だかおかしい。蛾が「わたし(宇佐美)」を意識しているかどうか、判断はむずかしい。犬くらいになると、犬がどう考えているかわかるような気もするが、蛾が何を考えているか、わからないなあ。
これは、まあ、
というくらいの方が「正確」かもしれない。蛾が宇佐美を意識していると、宇佐美が意識している。最後の「意識」は「想像する」くらいの意味。「妄想」かもしれない。「妄想」というのは、ありえないことを思うこと、考えること。そのありえないことを書くのに、「意識する」という、いわば「冷静」な、「知的」なことばで言っているから「おかしい」。奇妙。
けれど、この「おかしい」が、きっと詩なのである。
「妄想」も「意識」もそんなに差はないのかも。何かを思い、考えるという人間の「同じ」動きなのである。ただし「妄想」あるいは「想像」にすぎないものを「意識」と書いてしまうと、「意識」の真理性/客観性(?)というものが揺さぶられる感じがする。
そんなことを「意識する」ということばで書くなよ、という感じ。
「意識」ってなんだっけ? 「意識する」ということは、どういうことだっけ? どういうことを「思い/考える」とき「意識する」というんだっけ? 昔の思い出が「肉体」のなかから動いている感じがする。
「意識」を「意識」という対象として「意識する」。それを詩にもどって読み直すと、
ということになるかもしれない
これって、何かに似ていない?
「我思う、ゆえに我あり」に似ているなあ。
「我弁当を食べる、ゆえに我あり」でもいいのだろうけれど、そう書かずに「蛾がわたしを意識していると私は意識する、ゆえにわたしはある/私は存在する」と言っているような気がする。
ほんとうに、そうかな?
「我意識する、ゆえに我あり」というのはそのまま信じていいのかなあ。「ある(存在する)」のは「我」なのかなあ、「意識」なのかなあ。区別がつかない。宇佐美は「我あり」とは書いていないだけに、私のことばはぐらぐらする。
よくわからない。二連目で、この「意識する」ということが、また妙な形でずれる。
「ずれる」と書いたのは……。
「わたしはすでに何年も前からいない感覚で」という一行が原因。
「我意識する、ゆえに我あり」という感じで世界と向き合っていたはずなのに(私は、そう思って読んでいたのだが)、ここに突然「何年も前からいない感覚」ということばが出てくる。
「不在」の感覚。不在なのに、その「不在」の感覚が「ある」という妙な矛盾。「不在」が「ある」というのは、どうしてわかる? どうやって証明できる?
そういうギリシャ哲学のはじまりのようなことと同時に、別なことも思い浮かぶ。
「何年も」の「何年」をどうとらえるかはむずかしいが、私は瞬間的に五年、十年という感じではなく、何万年と思ってしまった。「わたしもいなかった頃」ということばが影響している。もしかすると「人間」そのものがまだ存在しなかったころ、という意味かもしれない。
それが「不在感」を強くする。「不在感」を「事実」にかえる。何万年いも前に「わたし(宇佐美)」は存在しないということは客観的(?)な「事実」。「いま」ここに宇佐美がいるのだから何万年も前に宇佐美は存在しない。
ここから、「我意識する、ゆえに我あり」とは、人間の勝手な思い込み。「人間」が存在する前から「世界」は存在している。世界が存在して、そのあとで「我」が存在する。
でも、そうすると「我意識する、ゆえに我あり」は間違い?
そうでもないかもしれない。
一連目の最後に補ったのと似たことばをここに補うことができる。
「意識する」と「我」ではなく、「我」を含む「世界」がそこにあらわれてくる。「我」だけが優先的にあらわれるのではなく、「我」と「世界」が同時にあらわれてくる。切りはなせない形であらわれてくるように思える。
そしてそこには「我」ではない「だれか」が「いる/ある/存在する」と「意識する」ことができる。さらに、その「だれか」は「わたし(宇佐美)」が意識するのと同じことを意識したと仮定することもできる。
その「意識」が「継承」されて、「いま」までつづいている。
いや、遠い昔に誰かが蛾のことを意識したと意識する瞬間に、それが「事実」として、「いま」「ここ」にあらわれてくる。
あるいは「わたし」が「いない/ない」がゆえに、「わたし」を超えるものが存在した、と「妄想/想像/意識」する。その「妄想/想像/意識」が、ことばとして引き継がれ、いま「世界」としてあらわれる。
「我意識する、ゆえに世界あり/世界がうまれる/世界があらわれる」という「哲学」がここにあるように思える。
宇佐美孝二「博物誌」は昆虫のことを書いている。
八月
無人駅の待合室で
ほかにだれも降りる人がいなくて
ひとりで弁当を広げていると
緑色をした蛾が
こちらを向くことなく意識しているのを
わたしも意識をしている
何だかおかしい。蛾が「わたし(宇佐美)」を意識しているかどうか、判断はむずかしい。犬くらいになると、犬がどう考えているかわかるような気もするが、蛾が何を考えているか、わからないなあ。
これは、まあ、
こちらを向くことなく意識している「だろう」と
わたし「は」意識している
というくらいの方が「正確」かもしれない。蛾が宇佐美を意識していると、宇佐美が意識している。最後の「意識」は「想像する」くらいの意味。「妄想」かもしれない。「妄想」というのは、ありえないことを思うこと、考えること。そのありえないことを書くのに、「意識する」という、いわば「冷静」な、「知的」なことばで言っているから「おかしい」。奇妙。
けれど、この「おかしい」が、きっと詩なのである。
「妄想」も「意識」もそんなに差はないのかも。何かを思い、考えるという人間の「同じ」動きなのである。ただし「妄想」あるいは「想像」にすぎないものを「意識」と書いてしまうと、「意識」の真理性/客観性(?)というものが揺さぶられる感じがする。
そんなことを「意識する」ということばで書くなよ、という感じ。
「意識」ってなんだっけ? 「意識する」ということは、どういうことだっけ? どういうことを「思い/考える」とき「意識する」というんだっけ? 昔の思い出が「肉体」のなかから動いている感じがする。
「意識」を「意識」という対象として「意識する」。それを詩にもどって読み直すと、
こちらを向くことなく意識している「だろう」と
わたし「は」意識している
「ことを、私は意識する」
ということになるかもしれない
これって、何かに似ていない?
「我思う、ゆえに我あり」に似ているなあ。
「我弁当を食べる、ゆえに我あり」でもいいのだろうけれど、そう書かずに「蛾がわたしを意識していると私は意識する、ゆえにわたしはある/私は存在する」と言っているような気がする。
ほんとうに、そうかな?
「我意識する、ゆえに我あり」というのはそのまま信じていいのかなあ。「ある(存在する)」のは「我」なのかなあ、「意識」なのかなあ。区別がつかない。宇佐美は「我あり」とは書いていないだけに、私のことばはぐらぐらする。
よくわからない。二連目で、この「意識する」ということが、また妙な形でずれる。
白黒のまだらの蛾は
翅だけが散乱している部屋で
地面にへばり付き
ケラが足元に寄ってきて
じっとしている
ハチは硝子を通過しようと
翅を騒がせ
くろい蛾がひくい天井のほうで俯いていたり
わたしはすでに何年も前からいない感覚で
これらをとらえる
わたしもいなかった頃のことを
だれかがやはりとらえていたのかしら
「ずれる」と書いたのは……。
「わたしはすでに何年も前からいない感覚で」という一行が原因。
「我意識する、ゆえに我あり」という感じで世界と向き合っていたはずなのに(私は、そう思って読んでいたのだが)、ここに突然「何年も前からいない感覚」ということばが出てくる。
「不在」の感覚。不在なのに、その「不在」の感覚が「ある」という妙な矛盾。「不在」が「ある」というのは、どうしてわかる? どうやって証明できる?
そういうギリシャ哲学のはじまりのようなことと同時に、別なことも思い浮かぶ。
「何年も」の「何年」をどうとらえるかはむずかしいが、私は瞬間的に五年、十年という感じではなく、何万年と思ってしまった。「わたしもいなかった頃」ということばが影響している。もしかすると「人間」そのものがまだ存在しなかったころ、という意味かもしれない。
それが「不在感」を強くする。「不在感」を「事実」にかえる。何万年いも前に「わたし(宇佐美)」は存在しないということは客観的(?)な「事実」。「いま」ここに宇佐美がいるのだから何万年も前に宇佐美は存在しない。
ここから、「我意識する、ゆえに我あり」とは、人間の勝手な思い込み。「人間」が存在する前から「世界」は存在している。世界が存在して、そのあとで「我」が存在する。
でも、そうすると「我意識する、ゆえに我あり」は間違い?
そうでもないかもしれない。
わたしもいなかった頃のことを
だれかがやはりとらえていたのかしら
「と、私は意識する」
一連目の最後に補ったのと似たことばをここに補うことができる。
「意識する」と「我」ではなく、「我」を含む「世界」がそこにあらわれてくる。「我」だけが優先的にあらわれるのではなく、「我」と「世界」が同時にあらわれてくる。切りはなせない形であらわれてくるように思える。
そしてそこには「我」ではない「だれか」が「いる/ある/存在する」と「意識する」ことができる。さらに、その「だれか」は「わたし(宇佐美)」が意識するのと同じことを意識したと仮定することもできる。
その「意識」が「継承」されて、「いま」までつづいている。
いや、遠い昔に誰かが蛾のことを意識したと意識する瞬間に、それが「事実」として、「いま」「ここ」にあらわれてくる。
我意識する、ゆえに世界は生まれる
あるいは「わたし」が「いない/ない」がゆえに、「わたし」を超えるものが存在した、と「妄想/想像/意識」する。その「妄想/想像/意識」が、ことばとして引き継がれ、いま「世界」としてあらわれる。
「我意識する、ゆえに世界あり/世界がうまれる/世界があらわれる」という「哲学」がここにあるように思える。
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