詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トム・マッカーシー監督「スポットライト 世紀のスクープ」(★★★★)

2016-04-17 21:33:20 | 映画
トム・マッカーシー監督「スポットライト 世紀のスクープ」(★★★★)

監督 トム・マッカーシー 出演 マーク・ラファロ、マイケル・キートン、レイチェル・マクアダムス

 マーク・ラファロを除いて、誰も演技しない、というと語弊があるかもしれない。マーク・ラファロはポケットに手を突っ込んで、前かがみになり、下から相手を見つめるようにしてインタビューするという、ちょっと「癖」を出しているが、これは彼が演じている「記者」をコピーしているのかもしれない。ほかの役者たちは、そういう「特徴的」な肉体の動かし方をしない。まるで誰が演じているのかわからない感じで動いている。
 で、それが、とっても効果的。
 新聞記者であるマーク・ラファロたちは、神父による幼児虐待事件を追っている。被害者をインタビューし、関係する弁護士をインタビューし、加害者だった元神父にもインタビューする。そうして少しずつ「実態」に迫っていくのだが、「実態」と記者は実は無関係。記者が前面に出てしまえば、「実態」がわからなくなる。そういうことを心得ていて、全員が演技することをぐっと抑えている。被害者や弁護士に、「事実」を語らせる。「ことば」で語らせると同時に、「肉体(演技)」で語らせる。彼らの困惑と動揺を引き出す。その揺らぎが明確に浮き彫りになるように、マーク・ラファロたちは「演技」しないのである。
 特に被害者が語る「事実」が、華やかなものでもなく、どちらかといえば隠しておきたいことがら、忘れてしまいたいことがらなので、その「語り」はどうしても抑え目になる。抑え目だけれど、それがくっきりと見えないといけない。だからこそ、マーク・ラファロたちは、まるでそこにいないかのように、姿を消す演技をしている。あるのは「語りにくい事実」だけ。「語りにくさ」のなかにある「事実」、「語りにくさ」こそが「事実」であるということを、全員で支えている。
 とはいっても映画なので、マーク・ラファロたちも「演技」する。しかし、そのクライマックス(見せどころ)の演技というが、なんと「神父目録(名簿?)」の本をひたすらめくり、そこに「休職」と書かれている人物を抜き出すという、とても地味なもの。みんな定規を持って、左の名前、右端の「休職」という項目を抜き書きする。短いシーンなのだけれど、「スクープ」に取り組むチーム全員が同じことを、様々な場所で繰り広げる。省略してもよさそうだが、省略せずに一生懸命やっている。「演技」ではなく、本気で調べている感じだなあ。同じ肉体の動きが、気持ちをさらに「ひとつ」にまとめあげる。強固にする。
 これが、ほんとうにいい。
 「真実の追求」なんて言ってしまうとかっこよすぎて、うさんくさい。名簿から「休職」という項目をもつ神父を抜き書きしているとき、彼らは「真実」など追っていない。単なる「事実」を追っている。それも「肉体」で追いかけ、「肉体」で共有している。そこにあるのは「事実」だけ。
 「肉体」で「事実」をつかんだあと、それを「ことば」で「真実」に昇華させる。
 うーん、うなってしまうなあ。
 それにしても、アメリカの新聞記者はすごい。「事実」をひたすら追いつづける。その「持続力」がすばらしい。映画の途中に、9・11のテロ事件も挿入されるが、それは時代のエピソード。大事件があっても、追いかけている「事件」を手放さない。このしつこさ(?)がおもしろい。警察などの「発表」に頼らず、しつこく「事実」を発掘する。人に直接会って、しかも何度もしつこく会って、ことばを聞き出し、そのことばの向こう側にある「事実」をひっぱり出す。「守秘義務」のある弁護士にさえ、しつこく迫っていく。「言えない」ことは「言えない」と言わせることで、その「言えない」の奥に「事実」が隠れていることをつかみとる。最後には、そのしつこさで「事実」を隠しているひとのこころまで動かしてしまう。「事実」を明らかにすることで、自分の生まれ育ったボストンの街に貢献したいんだ、と。かっこいいなあ。
 「事件」を追う新聞記者と、現在日本で起きている「安倍政権」べったりのジャーナリズムを比較しても、それは比較にならないと思いながらも、日本のジャーナリズムに、こういう「気迫」はあるかな、と思わずため息の出る映画でもある。マーク・ラファロたちは単に神父の犯罪を明るみに出すのではなく、教会の組織的な犯罪を暴く。いわば、組織に立ち向かう。こういう「気迫」はいまの日本のジャーナリズムにはない。「組織」を批判すると「つぶされる」と弱腰になっている。かなしいね。あ、だんだん映画の感想ではなくなってしまう……。
                   (天神東宝スクリーン5、2016年04月17日)




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鍋山ふみえ「どこかで振り子が」、降戸輝「古の鳥」

2016-04-17 13:09:30 | 現代詩講座
鍋山ふみえ「どこかで振り子が」、降戸輝「古の鳥」(「現代詩講座@リードカフェ」2016年13日)

どこかで振り子が   鍋山ふみえ

どこかで振り子がゆれている

昼間 空気の波動がゆるく伝わってくる

時は規則正しく動いているはず

くだものが熟れて 熱を帯びる

ひかりが発色して立ちのぼる 逆さ立ちの虹

瞬間 そのまえの瞬間 と遡っていけば くだものたちの

かたちを失くす直前の最期のすがたに辿りつける

ぼと ぼと 落下して地面のうえでくずれる

皮が破れつぶれても かたちを失っても 

熟した色は最後まで残るはずだ

わたしのまぶたの奥の残存物 

地下に吸い込まれてなくなったかつて果物だったかたち 

葉っぱ 昆虫 果実

腐葉土を腑分けしていけば 途中でそれらが見つかるだろう

はじめの頃 葉っぱは木の枝に 昆虫は羽化前で 果実は青く硬い種子 

振り子がすれすれに掠っていく 天空を 

遠いところで音がする 

草叢で しゃらしゃらしゃらしゃ 

近くの虫が鳴く 

背後でしきりに落ちる三角錐の小さな草の実 

露の降りはじめ

振り子がゆれている 

 書き出しの「どこかで振り子が揺れている」の「どこか」が、クセモノである。「ここ」ではない。つまり、直接振り子を目撃しているわけではない。そこから始まることばの運動は「描写」を装いながら、「描写」ではない。「現実」があって、それを「ことば」で再現しているのではない。
 こうしたところを、どうとらえる。しかし、そういうことは何もいわず、ただ受講者の感想を聞いてみた。

<受講者1>振り子は動く。波動も動く。その動きが果物が熟れていくことと繋がる。
      時間が動いて、果物が熟れる。
      上昇する、落下する、さらに地下に動いている。
      「天空を」からあとがとても美しい。
<受講者2>振り子は時間を司るイメージ。
      スローモーションや映画で言う早送りのような、自在な変化がある。
      そういうものが組み合わされ、時間が映像のように浮かぶ。
      後半、人間が出て来ない。何か崇高な感じがする。
<受講者3>劇の一幕を見ている感じ。
      振り子が揺れている間の時間。そこにいろんなことがあらわれる。
      時間が流れていく間に、果物が熟れて崩れ、地下に入っていく。
      そこに昆虫が入ってくるところがおもしろい。
      最後の方の「しゃらしゃらしゃらしゃ」は虫の声。
      普通の虫と違っているところがおもしろい。
<受講者4>振り子は時間をあらわしている。
      時間は順接というか、順番に前に進んでゆく。もどらない。けれど
      この詩では逆接というのか、「遡っていけば」と逆の動きも見える。
      果物が熟れる(実る)は順接、それが崩れるというのも順接だが、
      形を失うというのは、喪失感があって順接とは言い切れない。
      形を失いながらも何かが残る。そういう交錯、循環がある。
<受講者5>振り子は、算数で習った「振り幅」を思い出させる。

 「時は規則正しく動いているはず」という行があるせいか、あるいは「時」ということばが出てくるせいか、受講者の感想は、「振り子」から「時間」へ一気に飛躍した。「瞬間」「最後」「途中」ということばも「時間」を連想させるのかもしれない。この「時間」がただ進んでゆくだけではなく、一方で逆方向に流れているという指摘が受講生からあった。そして、それは振り子の往復運動と関連している。
 うーん。
 私はちょっと困ってしまった。
 受講者の感想を聞きながら、いきなり「抽象/意味」が動いている感じがしたからだ。確かに「時間」がテーマになっているかもしれない。しかし、時間の象徴である「振り子」はどこかにあるのであって、「いま/ここ」にはない。見えていない。その「見えない」ものを「見ている」、あるいは「見えない」ものに支配されている感じがしたからだ。
 「時間」がテーマであるにしても、それが「テーマ」である、あるいはそこに「意味」があるとしても、それを発見する前に、何かにつまずいて、それから自分を組み立てなおすということが、私は大事だと考えている。作者の書いた「意味」を発見する前に、まず自分を発見するということがないと、私は作者に出合った感じがしない。まあ、これは私の感じ方であって、読み方はひとそれぞれなのだから、どうのこうのとはいえない。だから、よけいに困ったなあ、と感じた。
 受講者は、この詩のどの行が気に入ったのだろう。

<受講者1>「しゃらしゃらしゃらしゃ」。音が楽しい。音楽みたい。
<受講者2>「振り子がすれすれに掠っていく 天空を」の「天空を」がいい。
<受講者3>「ひかりが発色して立ちのぼる 逆さ立ちの虹」
<受講者4>「瞬間 そのまえの瞬間 と遡っていけば くだものたちの」
<受講者5>「地下に吸い込まれてなくなったかつて果物だったかたち」

 私自身は「はじめの頃 葉っぱは木の枝に 昆虫は羽化前で 果実は青く硬い種子」がさっぱりしていて思わず棒線を引いてしまったのだけれど……。
 作者は、どの行が気に入っているのだろうか。

<鍋  山>「くだものが熟れて 熱を帯びる」

 そうだなあ。一行一行が連になっていて、独立している。それぞれがイメージをしっかりもっている。ここから一行だけ取り出して、自分と作者の間にあるもの、あるけれどまだしっかりとつながっていない「道」を探すのはなかなか難しい。特に、いっしょに作品を読んでの共同作業は難しい。
 脱線するが、ここで「道」という「比喩」をつかうと、「道」という漢字が「意味/ことば」を指し示すことがあることが、なんとなく、わかる。
 で。
 作品全体の「意味」ではなくて、ふと、私は違うことをみんなに聞いてみたい気持になった。

<質  問>「腐葉土を腑分けしていけば 途中でそれらが見つかるだろう」の
      「それら」を別のことばでいうと何になる?
      文法上(?)は、前の行の「葉っぱ 昆虫 果実」だけれど、
      それ以外のことばで言ってみて。
<受講者1>色
<受講者2>色
<受講者3>形
<受講者4>形
<受講者5>? わからない。

 うーん。ちょっと不思議。最初、みんなは「時間」のことを語っていた。詩の感想には「時間」が関係していた。ところが、ここでは、その「時間」が消えて、もっぱらイメージが前面に出てきている。(それとも、時間もイメージなのかな?)

<質  問>いまいったことばを、もう一度違うことばで言い直してみて。
<受講者1>色=におい
<受講者2>色=腐りかけた果実
<受講者3>形=ひかり
<受講者4>形=時間の流れ

 ちょっと「時間」に近づいた。「匂い」は見えない。「匂い」は「果実が熟れる」ときの匂いか、あるいは「腐る」ときの匂いか。生まれる/死ぬという「時間」が動いている。「時間」も見えない。けれど、存在している。
 「腐りかける/変化する」。そこから「時間」が動いていることがわかる。「時間の流れ」とはいうのは、まあ、本題にもどった感じ……。
 「ひかり」は「もの」を存在させる絶対的な力。たぶん「ひかりが発色して立ちのぼる 逆さ立ちの虹」という一行の超越的な存在感が、意味を通り越して、「ひかり」と答えたひとのなかで結びついているのだと思う。
 こういうことを思うとき、何と言えばいいのか。
 「時間」が読んでいるひとのなかで動いている。「意味」ではなく、詩全体のなかをいったり来たりして、「時間」をつくっている。「時間」になっている。「振り子」の「比喩」に便乗して言えば「時間」が「共振」している感じが「わかる」。
 「それら」の「意味」は「葉っぱ 昆虫 果実」だけれど、それに対して果物の熟れる匂い、果物が腐るという変化、存在が放つひかりの全体的真実というものを、繰り返し体験する(肉体で覚える)ことが「時間」が存在するということを感じさせているのだと、なんとなく「わかる」。あ、この受講者は、「時間」を感じるのはこういうときなんだなあ、と「わかる」。感じられる。
 このとき「時間」は「1秒、1分、1時間、1日、1年」というような「単位」ではなく、つまり「計測単位」ではなく、生きている「実感」となって生まれてくる瞬間がわかる。「何時間が過ぎる」というぐあいに計測できる形で動いていく「時間」でないことがわかる。
 ここからもう一度最初の「感想」にもどって「時間とは何だろう」と語り合うと、この詩と受講者の関係はもっと緊密になり、楽しくなるのだけれど、それこそ時間が足りずにそういうことを語り合えなかったのが残念。

 こういうことを話している過程で、「気になることばはなかった?」と質問したら、「腐葉土を腑分けしていけば」の「腑分け」が気になったという声が出た。「腑分け」だと動物を解体するイメージがある、というのである。これは、私にとって衝撃的だった。「腑分け」はたしかに語源的には「臓腑」を「分ける」から来ているのだろう。しかし、私はそういう感じで「腑分け」ということばをつかったことがない。見聞きするけれど、実際につかったという記憶もない。私は「選り分ける」か「分ける」「分類する」しかつかわないような気がする。
 私は実は「わたしのまぶたの奥の残存物」の「残存物」ということばが抽象的な感じがして、はげしくつまずいたのだが、

<受講者4>「残存物」の「存」は「生存」の「存」。生きている。
      残像ではない。

 という指摘があり、あ、なるほどと教えられた。
 ひとりで詩を読んでいたら、とても気がつかなかった。「生きている」ものの「時間」がこの詩を貫いているということになる。

 まとまりのないレポートになってしまったが、最後に、私が気に入ったと書いた行についての補足。「はじめの頃 葉っぱは木の枝に 昆虫は羽化前で 果実は青く硬い種子」を前の行をふくめて見つめなおすと、

地下に吸い込まれてなくなったかつたの果物だったかたち

葉っぱ 昆虫 果実

腐葉土を腑分けしていけば 途中でそれらが見つかるだろう

はじめの頃 葉っぱは木の枝に 昆虫は羽化前で 果実は青く硬い種子

 であり、それは「葉っぱ 昆虫 果実」を言い直したものだとわかる。「それら」は「腐葉土」になってしまっているのだから、「現実」的には腐ったものなのだが、想像力は「現実」を超えてしまう。「腐敗/死」をさらに分類していく。分類していくとは大きなものから小さなものへと細分化していく。微分していくということ。これは「現実/いま」から「過去」へと「原因/要素」を探していくことと似たところがある。
 「いま」は腐っている。けれど、「過去」、つまりそれがはじめて存在したことは違っている。「はじめの頃」は違った存在である。
 詩は、全体として「実る→腐敗する」という「順接」のイメージが描かれるが、ここにははっきり「遡った」イメージが書かれていて、それが「青く硬い種子」という清潔感あふれるものになっているがとても好きなのだ。
 それは熟れて落下してくさっていくというものと対比すると、何か形になる前、生まれる前のもののように感じられる。生まれようとするもの、「未生のもの」と言い換えることもできると思う。
 そしてそれは「果物」のような具体的なものだけではなく、「時間」もまた「生まれるまえの時間」があるのだという気持にさせられる。「時間」もまた「生まれる」、「生まれてくる」のである。
 「時間」はどうやって生まれてくるのか。この詩のなかでは「天空/遠いところ」で「生まれる/生み出される/始まる」と書いているのかもしれない。「どこか」とは「天空」のことだろうと私は思って読む。そこはきっと「青く硬い種子」という「比喩」がふさわしい場所なんだろうなあ、と思う。



 降戸輝「古の鳥」は「海に浮かんだ夕日に恋をした」鳥が主語の詩。鳥の恋は実らず、鳥は海に落ちる。

夜に翼が
波に沈んだ

 三連目に登場する「に」をつかった二行、その対比がおもしろい。                                         
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