夏木久の俳句、中島行矢の短歌(「福岡市文学賞受賞記念作品集」2016年03月19日発行)
夏木久の俳句は音がおもしろい。
「ガンダムが」は五音か。「六方ふめば」七音か。「文字(ひらがな)」で書けば五文字、七文字になるかもしれないが、私の感覚では四音、六音である。「ん」や「っ」は音には含まれない。含むとしても「半音」の感覚かなあ。
音が短い分だけ、スピードが出る。これが「現代的」。何と言えばいいのか、音のひとつひとつを「味わう」という感じとは違う。「一音の響き」を肉体のなかに拡げる感じではない。むしろ「音」のぶつかりあい、衝突の瞬間に輝く「和音」のようなものを感じさせる。その「和音」はぱっとあらわれて、ぱっと消えていく。そこが「現代的」。
「濁音」が効果的なのかもしれない。
「ああこれが」の「が」の音が、とても「現代的」。私は古い人間なので助詞の「が」は「鼻濁音」で読んでしまうが、夏木は違うだろう。破裂の濁音だろう。「肉体」の内部へ吸収されていく「音」がなく、全部、「肉体」の外へ出る。「ああ」という音の解放が「が」で頂点に達する。「これ」という「あ」を含まない音を経たあとで「が」のなかの「あ」を破裂される。
ここも文字では五音だが「ああ」の重複があるために「四・五音」くらいの印象だが、それがいっそう「が」を輝くしく炸裂させているかもしれない。
「作用反作用」と同じ音がつづくところ、さらに「ん」の音「う」の音を含む部分が「音」そのものの数え方を難しくさせている。短くさせている。それがおもしろい。
全体を「あ」の音が貫いているのも、おもしろい。特に「炬燵」が効果的だなあと思う。「こたつ」の「た」のなかの「あ」。破裂する子音にはさまれているのだが、その窮屈感が「が」の強い輝きと響きあっている。凝縮された「あ」の力が輝いている。
ついでに書いておくと、「炬燵/こたつ」の読み方。「つ」の音は、普通のひとはどう読むだろうか。夏木はどう読むだろうか。私は「つ」のなかの「う」の音は声にしない。子音しか発音しない。そういうことも、「こたつ」の「た」の「あ」を強調する。
この句でも濁音が効果的だ。「円」は「えん」と読ませるのだと思うが、その「ん」の無音の効果は、もう何度書いたこと。促音、撥音、拗音などは、どこか「半端」な感じがする。それが濁音の半端とぶつかりながら、不思議な音楽になる。
「ん」「っ」「う」は他の音よりちょっと短い感じ。「濁音」は「が」の「濁点」が追加されている分だけちょっと長い感じ。その「半分短い+半分長い」感じのバランスがおもしろいのかなあ。
この句では、それとは別に「輪護謨」がおもしろいなあ。「わごむ」と読ませるのかな? 「わごむ」と私は読んだが、あえて漢字に即してひらがなかすれば「わごも」になる。「む」ではなく「も」。でも、この「も」「む」は、「炬燵(こたつ)」の「つ」と同じで子音は発音されない。発音されてもほとんど聞こえない。子音が発音されないことで「も」「む」は同じ音になる。
昔、「うま」を「んま」と書いたのに似ているかも。「うま」の「う」はほとんと発音されないから「ん」と聞き間違える耳のいいひとがいたのだ、昔は。「意味」からことばをとらえるのではなく、「音」を直接文字にしてしまう耳のいいひとが昔はいたのだと思う。「意味」という「情報」でことばを整理せずに、音のままことばをつかみとるひとがいたのだ。
夏木の肉体のなかには、そういう音が生きているのだろう。
*
中島行矢の短歌は、リズムが古典的である。「読みごたえ」がある。私は俳句も短歌も(他の文学作品も)、声に出して読むわけではない。黙読派なのだが、中島の短歌を読むと、ひとつひとつの音が音を主張しているのを感じる。「声」となって空間に広がっていく、広がりながら自己主張していると言うか、存在を告げている。ことばのうねりも、その自己主張を支えている。
「口」ということばが重複している。昔なら、こういう重複は避けたかもしれない。けれど、いまは忙しい時代なので、逆に反復することで「音」をはっきり存在させるしかないのかもしれない。反復することで「うねり」の輝きが見えるのである。
この「風」も同じ。
この「蛸」も同じ。いや、同じ以上か。「蛸といふ蛸」がとてもいい。多くの蛸という意味、複数の蛸というよりも、これは反復だな。「蛸」という名詞がただ反復されているのではなく、「壷に嵌まる」という動詞そのものが反復されている。
最初に紹介した「口」も単なる名詞ではなく、「口をあける」という動詞、肉体を含んでいる。「風」も「風が吹く」の「吹く」を含んでいる。つまり、いつも動詞として肉体を刺戟している。その刺戟(肉体感覚)が音を押し広げている。ゆったりさせているのだろう。
「蛸」にもどると。
「につぽん」ではじまり「モーリタニア」で終わる。その蛸は、「壷に嵌まる」という動詞で結びつく。かけ離れたものが「ひとつの動詞」でつながる。ここに、「いのち」の不思議さも、私は感じる。「いのち」と書いてしまうのは、「動詞」は人間を理解するだけではなく、生きているものすべてを理解するときの「通路」のように感じるからでもある。
夏木久の俳句は音がおもしろい。
ガンダムが六方ふめばはなふぶき
「ガンダムが」は五音か。「六方ふめば」七音か。「文字(ひらがな)」で書けば五文字、七文字になるかもしれないが、私の感覚では四音、六音である。「ん」や「っ」は音には含まれない。含むとしても「半音」の感覚かなあ。
音が短い分だけ、スピードが出る。これが「現代的」。何と言えばいいのか、音のひとつひとつを「味わう」という感じとは違う。「一音の響き」を肉体のなかに拡げる感じではない。むしろ「音」のぶつかりあい、衝突の瞬間に輝く「和音」のようなものを感じさせる。その「和音」はぱっとあらわれて、ぱっと消えていく。そこが「現代的」。
「濁音」が効果的なのかもしれない。
ああこれが炬燵の作用反作用
「ああこれが」の「が」の音が、とても「現代的」。私は古い人間なので助詞の「が」は「鼻濁音」で読んでしまうが、夏木は違うだろう。破裂の濁音だろう。「肉体」の内部へ吸収されていく「音」がなく、全部、「肉体」の外へ出る。「ああ」という音の解放が「が」で頂点に達する。「これ」という「あ」を含まない音を経たあとで「が」のなかの「あ」を破裂される。
ここも文字では五音だが「ああ」の重複があるために「四・五音」くらいの印象だが、それがいっそう「が」を輝くしく炸裂させているかもしれない。
「作用反作用」と同じ音がつづくところ、さらに「ん」の音「う」の音を含む部分が「音」そのものの数え方を難しくさせている。短くさせている。それがおもしろい。
全体を「あ」の音が貫いているのも、おもしろい。特に「炬燵」が効果的だなあと思う。「こたつ」の「た」のなかの「あ」。破裂する子音にはさまれているのだが、その窮屈感が「が」の強い輝きと響きあっている。凝縮された「あ」の力が輝いている。
ついでに書いておくと、「炬燵/こたつ」の読み方。「つ」の音は、普通のひとはどう読むだろうか。夏木はどう読むだろうか。私は「つ」のなかの「う」の音は声にしない。子音しか発音しない。そういうことも、「こたつ」の「た」の「あ」を強調する。
小春日を輪護謨の円のゆるさほど
この句でも濁音が効果的だ。「円」は「えん」と読ませるのだと思うが、その「ん」の無音の効果は、もう何度書いたこと。促音、撥音、拗音などは、どこか「半端」な感じがする。それが濁音の半端とぶつかりながら、不思議な音楽になる。
「ん」「っ」「う」は他の音よりちょっと短い感じ。「濁音」は「が」の「濁点」が追加されている分だけちょっと長い感じ。その「半分短い+半分長い」感じのバランスがおもしろいのかなあ。
この句では、それとは別に「輪護謨」がおもしろいなあ。「わごむ」と読ませるのかな? 「わごむ」と私は読んだが、あえて漢字に即してひらがなかすれば「わごも」になる。「む」ではなく「も」。でも、この「も」「む」は、「炬燵(こたつ)」の「つ」と同じで子音は発音されない。発音されてもほとんど聞こえない。子音が発音されないことで「も」「む」は同じ音になる。
昔、「うま」を「んま」と書いたのに似ているかも。「うま」の「う」はほとんと発音されないから「ん」と聞き間違える耳のいいひとがいたのだ、昔は。「意味」からことばをとらえるのではなく、「音」を直接文字にしてしまう耳のいいひとが昔はいたのだと思う。「意味」という「情報」でことばを整理せずに、音のままことばをつかみとるひとがいたのだ。
夏木の肉体のなかには、そういう音が生きているのだろう。
*
中島行矢の短歌は、リズムが古典的である。「読みごたえ」がある。私は俳句も短歌も(他の文学作品も)、声に出して読むわけではない。黙読派なのだが、中島の短歌を読むと、ひとつひとつの音が音を主張しているのを感じる。「声」となって空間に広がっていく、広がりながら自己主張していると言うか、存在を告げている。ことばのうねりも、その自己主張を支えている。
あんぐりと口あけながら口中に雪ふらしめしとほき日のこと
「口」ということばが重複している。昔なら、こういう重複は避けたかもしれない。けれど、いまは忙しい時代なので、逆に反復することで「音」をはっきり存在させるしかないのかもしれない。反復することで「うねり」の輝きが見えるのである。
ひとつだけまづ放たれし野辺の火の風吹けば風に隊列をくむ
この「風」も同じ。
につぽんの壷に嵌りし蛸といふ蛸はかなしゑモーリタニアの蛸
この「蛸」も同じ。いや、同じ以上か。「蛸といふ蛸」がとてもいい。多くの蛸という意味、複数の蛸というよりも、これは反復だな。「蛸」という名詞がただ反復されているのではなく、「壷に嵌まる」という動詞そのものが反復されている。
最初に紹介した「口」も単なる名詞ではなく、「口をあける」という動詞、肉体を含んでいる。「風」も「風が吹く」の「吹く」を含んでいる。つまり、いつも動詞として肉体を刺戟している。その刺戟(肉体感覚)が音を押し広げている。ゆったりさせているのだろう。
「蛸」にもどると。
「につぽん」ではじまり「モーリタニア」で終わる。その蛸は、「壷に嵌まる」という動詞で結びつく。かけ離れたものが「ひとつの動詞」でつながる。ここに、「いのち」の不思議さも、私は感じる。「いのち」と書いてしまうのは、「動詞」は人間を理解するだけではなく、生きているものすべてを理解するときの「通路」のように感じるからでもある。
歌集 モーリタニアの蛸 (ポトナム叢書) | |
中島 行矢 | |
本阿弥書店 |