詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「日本国憲法改正草案」を読む

2016-04-11 12:22:46 | 自民党憲法改正草案を読む
「日本国憲法改正草案」を読む


日本国憲法改正草案 自由民主党 平成二十四年四月二十七日(決定)という文書が次のURLに掲載されている。
http://editorium.jp/blog/wp-content/uploads/2013/08/kenpo _jimin-souan.pdf#search='kenpo2013+%5B%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%A8%5D+editorium.jp'

 これを読んでみた。全部に触れる余裕はないので、いちばん短い形で語れる部分を取り上げる。
 私は詩を(あるいは小説や短歌、俳句などの文学を)読むとき、「動詞」を中心にして読む。何が書いてあるかを「動詞」は裏切らない。「名詞」(概念)は何が書いてあるのか、ことばの「豪華さ」にごまかされて、よくわからないことがある。時には「難解だから正しい(自分の知らないことが書いてあるから正しい=自分を新しい知の世界へ導いてくれるから正しい)」と思い込まされることがある。そのことばをつかって何かを語ると、あたかもそのことばを最初につかった人と同じ「知」にたどりついたかのような錯覚に陥ることがある。私はこの概念を知っている、だから「正しい」と錯覚してしまうことがある。
 でも、「動詞」なら、そういうことはない。「動詞」はだれもが同じように「肉体」を動かして「実行」している。そこに「肉体」があるから、ごまかしようがない。自分はそういう行動をできない、となれば、それに従うわけにはいかない。
 たとえば知らない土地(外国)の知らないひとの集まり。コップに透明な液体が入っている。のどが乾いている。飲みたい。でも、飲んで大丈夫かどうかわからない。尋ねたいが、ことばもわからない。けれど誰かが、それを飲んでみせてくれれば、大丈夫。それは、飲める。「肉体」が「飲む」という「動詞」を実行する。それから起きることを「動詞」は裏切らない。

 で、「動詞」を読む。「動詞」「動詞」には「主語」が必要だから「主語」を補って読む。そうすると、そこに書かれていることがよくわかる。
 
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。(現行憲法)
第十九条 思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 「侵してはならない」を「保証する」と「改定」している。どちらも国民の「思想及び良心の自由」を守っているように見える。
 しかし、違う。
 「犯してはならない」は「禁止」である。「犯すことを禁止する」である。「ならない」というのは「犯す」という「動詞」に説明をくわえたものであり、さっと読むとそこに「動詞」が含まれていないように思えるが、そうではない。「禁止する」という「動詞」が存在している。
 これに「主語」を補うと、

思想及び良心の自由は、「国家権力は」これを侵してはならない(これを犯すことを禁止する)。

 になる。
 「自民党草案」は「これを」ということばを削除している。日本語の文体として「うるさい」感じがするからだろう。しかし、私が主語を補ったように書いてみると、「思想及び良心の自由は」「国家権力は」と「主語」が二つになってみえてしまう。だから、最初の「思想及び良心の自由は」というのは「主語」ではなくて、「主題」(動詞をともなって動かない)であることを明確にするために、「これを」と「目的語」のようにして言い直しているのである。
 憲法は、国家権力に対する禁止事項をまとめたものである。主権は国民にあり、その主権を国家権力は侵害してはならない。そういう禁止事項で成り立っている。国民の「義務」を示したものではない。「教育、労働、納税」は国民の「義務」だが、その三つがなければ国家が成り立たないからである。それ以外は国民の義務などない。


思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 というのは、

思想及び良心の自由は、「国家権力は」(これを)保証する。

 ということである。このときの「保証する」は国の「権利」とも読むことができるし、「義務/責任」とも読むことができる。国に「保証する義務がある」なら、それで国民の思想、良心の自由は守られたように、見える。
 でも、私は、疑う。
 他の条項につかわれている「保障する」ではなく「保証する」と書いていることにも疑問があるのだが……。「保障する」は「砦を築いて守ること、問題が起きないようにすること、守る」という感じがするが、「保証する」では「うけあう」という感じがする。
 そのことは少し脇においておいて……。「思想、良心」にもことばを補ってみる。

「国民の」思想及び良心の自由は、「国家権力は」(これを)保証する。

 自民党案は、ほんとうにそう書き換えられるか。

「国家権力が認めた」思想及び良心の自由は、「国家権力は」(これを)保証する。

 ということにならないか。
 これは逆に言い直してみるとわかりやすくなる。現行の憲法には

「国民の」思想及び良心の自由は、「国家権力は」これを侵してはならない。

という補足説明はできるが、

「国家権力が認めた」思想及び良心の自由は、「国家権力は」これを侵してはならない。

 という補足はできない。「認めているもの」を「侵す」ということはありえない。そんなことをすれば矛盾である。「認めている」ものは「侵す」の反対、「推奨する」になる。
 逆に言うと、「国家権力が認めた」ということばを補って矛盾しないのが自民党草案である。「保証する」はつまり「認める」ということなのだ。そして、「認めている」ことを「保証する」というのは、それを「推奨する」ということである。「認める」という形で「ある特定の思想」を「推奨する」、それ以外は「禁止する」という意図が隠されているのが自民党草案なのである。
 自民党草案は、

「国家権力が認めた」思想及び良心の自由は、「認める(=保証する、=うけあう)」。

 なのである。「認める」のは「容認できるものを受け入れる」ということである。「容認」の「認」が「認める」である。
 「保証する」(うけあう)というのは、「認める」ということが前提であり、認めないものは「保証しない」ということにならないか。
 さらに言い直すと、

「国家権力が容認できない」思想及び良心の自由は、保証しない(認めない)。

 へと変化していくものなのである。
 これでは「国家権力」に対する「禁止事項」ではなくなる。「国家権力」への「権利」の賦与になる。
 国家は、これこれの思想、良心は「推奨できる」。国家が認めた思想、良心なら、それを認め、受け入れる。それ以外のものは「禁止する」。そういうことになる。ここから国家権力の暴走が始まる。

 そして、これは、「自民党草案」よりも前に、既に「現実」になっている。
 たとえば、最近話題になった「待機児童」問題。「保育所落ちた、日本死ね」という女性のブログでの発言に対し、「匿名発言なので事実かどうかわからない」、つまり「事実」と認めない、「死ね」というような乱暴言い方は「認めない」。さらにはTPPがどのような経緯で締結されたか、その経過に対する質問は国家間の信頼を損ねる(国家機密に関する)からは質問することを「認めない」、安保関連法案を戦争法と呼ぶのは「認めない」、政府に反対する意見は「認めない」。説明などしない。質問そのものも「認めない」。
 TPPに対して安倍が反対と言ったという事実さえ「認めない」。
 自分にとって都合のいいものだけを「認める」。うけいれる。「うけあう」。都合のいいものだけを公開し、それを「認めろ」と国民に強要する。都合のいいものだけを前面にだし、「保証しあう」という形の国家統制が、すでに始まっている。

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レニー・アブラハムソン監督「ルーム」(★★)

2016-04-11 07:29:52 | 映画
監督 レニー・アブラハムソン 出演 ブリー・ラーソン、ジェイコブ・トレンブレイ

 架空のストーリーかと思っていたが。
 いや、映画なのだから架空ではあるのだが、描き方が架空ではない。現実的。ということは、こういう問題がアメリカでは日常的に起きているということだろうか。
 特にそれを感じたのが、ブリー・ラーソンがテレビのインタビューを受けるところ。このインタビューも、実は「金稼ぎ」(出演料が出る)というのが、なんともアメリカ的。「謝礼」というよりも「出演料」らしい。映画のなかで、「これから金がかかる。○○テレビだけ出演料を提示した」というような会話が出てくる。
 で、そのテレビのインタビューが、またすごい。「将来、子どもに父親のことをどう話すのか」と質問する。「父親はいない」「感情の問題ではなく、生物学的な問題としての質問だ」みなたいなやりとりがある。うーん。被害者への配慮なんて、ひとかけられない。どういう発言を引き出せば視聴者が興奮するかということしか考えていない。ブリー・ラーソンが涙ぐんでも平気。「視聴者は、感情を見たがっている」というようなことを平気で言うのである。
 まあ、こういう映画を見に行く私も、被害者の「感情」を見たいと思って見に行くわけだから、テレビのインタビューがすごい、なんて言っても始まらないのかもしれないが……。始まらないのだけれど、アメリカのテレビはすごい、と唸るのである。
 しかし。
 この映画は(あるいは原作の「小説」は)、いったい何を描きたかったのだろう。
 いくら母親が熱心に教育してきたとしても、子どもがあんなふうに知識/ことばを身につけるとは私には信じられない。映画なのだから、フィクションなのだから、ではすまされない。テレビと本、母親の歌を聞き、そこからことばを覚えられるだろうか。言い換えるとフィクションから、ことばを覚えられるだろうか。感情を生み出す(育てる)ことができるだろうか。視覚と聴覚だけで、ことばを覚えられるだろうか。「ルーム」には、いろいろなものがあり、椅子、ベッド、シンク(流し)などに子どもは触れるけれど、それでは情報がかぎられすぎている。触覚が働かない。現実の手触りが少なすぎる。言い換えると刺戟がなさすぎる。また、広がりが少なすぎる。距離感がない。空間感覚(肉体感覚)がないところでは、ことばは身に付かないのではないか。
 三重苦のヘレン・ケラーは、ことばを思い出す(ものにことばがあるということを思い出す)のは、井戸の水を手に受けたときである。「触覚」がことばを世界へと広げる。手で触りながら(同時に他者に触られながら)、様々な欲望が刺戟され、ことばとなる。「広がり」と「実物」が欠如した世界では、ことばは「不必要」になり、発達しないのではないか。「刺戟」に対する反応が、ことばなのではないか。「刺戟」を受け、それに対して何かしようとするとき、ことばが肉体のなかを駆け抜ける。具体的刺戟がないところでは、ことばは文法化されず、断片になってしまう。文法化して、誰かに伝える必要がないところでは、ことばは育たない。どんなに母親が意識的であっても、母親ひとりでは刺戟にならない。
 最初に保護された警官には口をきけても、次に会うおじいちゃん、おばあちゃんには口がきけないというも、状況としては不自然であり、ご都合主義的だ。
 母親のブリー・ラーソンの描き方も、なんとも奇妙である。とっさに息子の病気、死亡を思いつくくらいなら、内側に設定された番号キーなど七年も時間があるなら開けられそうである。だいたい同じ数字を押しつづけていれば、キーの色が変化してくる。それだけでも組み合わせは限定されるし、1から順番に組み合わせていけば七年もあれば開く数字に出会えそうである。被害者の家庭(両親)が裕福すぎる(?)のも、どうにも嘘くさくていけない。
 どうも、この映画は「現実」を描くというよりも、アメリカで頻発する誘拐事件とその解決後の向き合い方はどうあるべきか、ということを「啓発」するためにだけつくられている感じがする。そこが、どうにもうさんくさい。被害女性がどう苦しんでいるか、そのこころの内部まで入り込んで訴えるのではなく、被害女性に会ったとき、どういう向き合い方をすべきかという「手本」を描こうとしているとしか思えない。そういう「手本」が必要なくらい、アメリカでは誘拐が頻発しているということなのだろう。
 アメリカ映画は、人種的マイノリティーは既に描いた。性的マイノリティーも何度も映画化されている。「難病」マイノリティーも描いた。残されたのは「犯罪被害者」というマイノリティーである。そこに目を向けた映画である。マイノリティーを演じると、アカデミー賞では受賞しやすい。(「有名な個人」を描いた映画でも受賞しやすい。「有名人」というマイノリティーである。)「私たちはあなたを忘れてはいません。あなたたちの苦悩に寄り添います」というメッセージを賞を与えているという面があるかもしれない。ブリー・ラーソンの演技が「悪い」というわけではないが、マイノリティーを演じたために高く評価されている部分があるとも思う。
                       (2016年06月11日、天神東宝3)




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