坂本孝一「石わらの花」、渡会やよひ「夜の落ち葉」(「蒐」5、2016年03月31日発行)
坂本孝一「石わらの花」は、ことばが奇妙な感じでねじれている。
川と海が出合う浜。「風景」として思い浮かべるのは、そういうところだ。川と海は潮の満ち引きにあわせてまじりあう。「ゆずらないねんげつ」というのは、そういうことがつづいてきたということだろう。「繋いできた」にもそういう「年月」が重なる。「明日をおきながら」は、それは明日も変わらないということだろう。
いちばんひっかかる、というか、つまずくのは「明日をおきながら」の「おく」という動詞だ。「明日」というものは人が「おく」かどうかとは関係なしにやってくる。つながってくる。しかし、これを「おく」と意識しなおす。自分を「明日」の方向へ向かわせる。「明日の自分」を想定し、その「明日」へ向かって動く。「おく」という動詞自体は動かないのだけれど、「明日」があるから「前の方へ」という「動き」がそこにある。動詞が、普通の辞書に書いてある意味とは違った意味を背負わされている。この意味をきちんと定義するのはむずかしいが、なんとなく「肉体」が反応して、感じ取ってしまう。「明日をおく」は「明日へ繋ぐ」という動詞へと変化していくが、その変化を促すものとして「明日」がある。「明日」という名詞は、「明日になる」という「動詞」として存在するのかもしれない。
「明日」が「明日になる」だったら、「過去=積み上げた年月」というのは、「動詞」として言い直すとどうなるだろうか。「そなわる」かなあ。「過去の時間がそなわる/過去をそなえる/過去をかかえもつ」かなあ。それは「内側」を「つくる」ということかもしれない。人間の「内側/内部/精神をつくる」。それが「過去」という「名詞」の「動詞的活用(?)」というものかもしれない。
この二連目の四行を読みながら、私の「肉体」は「泣く」とか「浸食(する/される)」「無い/失う」「慣れる」ということばに反応する。「肉体」は無意識のうちにそういうことばを「肉体の内側」でつなぎとめて、そこに「過去」をつくりだす。長い時間(過去)のなかで、何かを失くし、失くすことにも慣れてしまった。けれど、失くしたことを思い出してしまうと、やはり哀しくなる。思いが乱れ、慌ただしく動く。「泣きたい」気持は、「山肌」さえも啼かせてしまう。一種の共感。
よくわからないが、そういう「わからないけれど、わかる」という感じのことがらが、交錯して動く「動詞」といっしょに「肉体」のなかに入ってくる。
「むかう」「受け取らない」。「意志」はやはり名詞だが「意志する=肉体を動かす」という「動詞」になると思う。「むかう」「受け取らない」という形で「肉体」を動かす。そのとき、そこから「肉体」ではないものが「こぼれる」。ことばにならない「意志」が、ことばにならないままこぼれる。「受け取らない」ことによって、何かを「失った/こぼした」。そういうものがある。
「肉体」も「ことば」も「意志」も、みな不完全である。何かを理想の形で実現できない。そのときに、「肉体」のなかに何かが残される。その残されたものを、粘り強くつなぎとめようとすることばの運動がここにあると感じる。
雨に打たれること、雨にぬれることを、受け身ではなく「雨を拾う」という能動の形で言うとき、そこには一連目の「明日をおく」の「おく」に似た「意志」が感じられる。その「意志」は、「耳」を「拡げ」、「火のはじまり」を「嗅ぐ」という不思議な「動詞/肉体の動かし方」になってあらわれる。「嗅ぐ」なのに「鼻」ではなく「耳」。これは「耳」も「鼻」も「肉体」として連続しているように、「嗅覚(嗅ぐ)」も「肉体の内部」のどこかで「聴覚(聞く/耳)」とつながっているということを語っている。
「肉体」をまだ「聴覚/嗅覚」に「分節する以前の状態」で動かしていることが、なんとなく感じられる。「未分節」の状況での動きなので、これを「ことば」で説明しなおすのは難しい。ただ、そういうものを感じる。ここから「肉体」そのものの存在が強い手触りとして伝わってくる。
坂本が書いていることに共感するまでには、もっともっと時間をかけて私自身の「肉体」を動かさなければならない。動かして、それで共感できるかどうか、それはわからないが、「肉体を動かして、ことばを読め」と誘ってくる詩である。
*
渡会やよひ「夜の落ち葉」はプラタナス、ホオノキについて書いたあと、三連目で次のように変化する。
「肉体」が「踏みしだく」という動詞で一瞬あらわれるが、渡会にとって「肉体」は「動詞」であるよりも「名詞」である。「四肢であり皮膚であり爪である」のなかで繰り返される「ある」が渡辺にとっての「肉体」であり、それは、私の「感覚の意見」では「動かない」。渡辺にとって「動詞」の「主語」はきっと「タマシイ」である。「精神」である。「記憶」「意味」というような「精神」が「主語」になる。「肉体」は「動詞」の「主語」にはならない。「ある」も「ある」というよりは「四肢である」と「認定する(認識する)」、「皮膚である」と「認定する(認識する)」、「爪である」と「認定する(認識する)」である。
「在ることに撞着する」も、そのことを語っている。「撞着する」のは「精神/タマシイ」である。「肉体」はすでに「落ち葉」となって散っている。「撞着する」ことをやめている。
別なことばで言い直せば、渡会は「精神世界」を描いていることになる。
この一行に「肉体」ということばを補うと、そのことがよくわかる。
落ち葉を「肉体」の「死」と受けとめ、そこから始まる「精神世界」を描いている。「記憶」は「精神/タマシイ」である。
次の、
は
ということである。「声/肉体」が一瞬出てくるが、これは「主語」にはならない。「皺を寄せるのか」と考えているのは「肉体」ではなく「精神/タマシイ」である。
「精神/タマシイ」が「主語」となって「動詞」を動かしているので、そのことばには、坂本の作品に濃密に漂う「不透明感」がない。渡会のことばは「透明感」のとなかを動いていくことになる。
坂本孝一「石わらの花」は、ことばが奇妙な感じでねじれている。
波が積み上げ川水が崩す瀬戸ぎわ
ゆずらないねんげつに明日をおきながら
繋いできた石ににたひとに浜風のくぼみ
川と海が出合う浜。「風景」として思い浮かべるのは、そういうところだ。川と海は潮の満ち引きにあわせてまじりあう。「ゆずらないねんげつ」というのは、そういうことがつづいてきたということだろう。「繋いできた」にもそういう「年月」が重なる。「明日をおきながら」は、それは明日も変わらないということだろう。
いちばんひっかかる、というか、つまずくのは「明日をおきながら」の「おく」という動詞だ。「明日」というものは人が「おく」かどうかとは関係なしにやってくる。つながってくる。しかし、これを「おく」と意識しなおす。自分を「明日」の方向へ向かわせる。「明日の自分」を想定し、その「明日」へ向かって動く。「おく」という動詞自体は動かないのだけれど、「明日」があるから「前の方へ」という「動き」がそこにある。動詞が、普通の辞書に書いてある意味とは違った意味を背負わされている。この意味をきちんと定義するのはむずかしいが、なんとなく「肉体」が反応して、感じ取ってしまう。「明日をおく」は「明日へ繋ぐ」という動詞へと変化していくが、その変化を促すものとして「明日」がある。「明日」という名詞は、「明日になる」という「動詞」として存在するのかもしれない。
ひとの泣くまえからそなわって啼く山肌
浅い浸食がまわりを明るくさせ無いことを慣れさせる
静けさが闇の内側を慌ただしくわたり
爪の底を深く割る
「明日」が「明日になる」だったら、「過去=積み上げた年月」というのは、「動詞」として言い直すとどうなるだろうか。「そなわる」かなあ。「過去の時間がそなわる/過去をそなえる/過去をかかえもつ」かなあ。それは「内側」を「つくる」ということかもしれない。人間の「内側/内部/精神をつくる」。それが「過去」という「名詞」の「動詞的活用(?)」というものかもしれない。
この二連目の四行を読みながら、私の「肉体」は「泣く」とか「浸食(する/される)」「無い/失う」「慣れる」ということばに反応する。「肉体」は無意識のうちにそういうことばを「肉体の内側」でつなぎとめて、そこに「過去」をつくりだす。長い時間(過去)のなかで、何かを失くし、失くすことにも慣れてしまった。けれど、失くしたことを思い出してしまうと、やはり哀しくなる。思いが乱れ、慌ただしく動く。「泣きたい」気持は、「山肌」さえも啼かせてしまう。一種の共感。
よくわからないが、そういう「わからないけれど、わかる」という感じのことがらが、交錯して動く「動詞」といっしょに「肉体」のなかに入ってくる。
波にむかう浜昼顔の受け取らない意志のこぼれ
肉厚の葉を地上に浮かせ雨を拾い
低地で拡げた耳は
火のはじまりを密かにかぎわけている
「むかう」「受け取らない」。「意志」はやはり名詞だが「意志する=肉体を動かす」という「動詞」になると思う。「むかう」「受け取らない」という形で「肉体」を動かす。そのとき、そこから「肉体」ではないものが「こぼれる」。ことばにならない「意志」が、ことばにならないままこぼれる。「受け取らない」ことによって、何かを「失った/こぼした」。そういうものがある。
「肉体」も「ことば」も「意志」も、みな不完全である。何かを理想の形で実現できない。そのときに、「肉体」のなかに何かが残される。その残されたものを、粘り強くつなぎとめようとすることばの運動がここにあると感じる。
雨に打たれること、雨にぬれることを、受け身ではなく「雨を拾う」という能動の形で言うとき、そこには一連目の「明日をおく」の「おく」に似た「意志」が感じられる。その「意志」は、「耳」を「拡げ」、「火のはじまり」を「嗅ぐ」という不思議な「動詞/肉体の動かし方」になってあらわれる。「嗅ぐ」なのに「鼻」ではなく「耳」。これは「耳」も「鼻」も「肉体」として連続しているように、「嗅覚(嗅ぐ)」も「肉体の内部」のどこかで「聴覚(聞く/耳)」とつながっているということを語っている。
「肉体」をまだ「聴覚/嗅覚」に「分節する以前の状態」で動かしていることが、なんとなく感じられる。「未分節」の状況での動きなので、これを「ことば」で説明しなおすのは難しい。ただ、そういうものを感じる。ここから「肉体」そのものの存在が強い手触りとして伝わってくる。
坂本が書いていることに共感するまでには、もっともっと時間をかけて私自身の「肉体」を動かさなければならない。動かして、それで共感できるかどうか、それはわからないが、「肉体を動かして、ことばを読め」と誘ってくる詩である。
*
渡会やよひ「夜の落ち葉」はプラタナス、ホオノキについて書いたあと、三連目で次のように変化する。
夜の落ち葉、プラタナス、
夜の落ち葉、ホオノキ、
そして
無数の落ち葉を踏みしだいて
夜を歩く一枚の落ち葉、つまりワタクシ、
いまだに落ちつづけ
在ることに撞着する
四肢であり皮膚であり爪である
夕空に焦がれる眼であり
寂寥をさがすタマシイである
<消滅するとき記憶はどこに飛び去るのだろう
<意味から剥がれて声は無辺に皺を寄せるのか
「肉体」が「踏みしだく」という動詞で一瞬あらわれるが、渡会にとって「肉体」は「動詞」であるよりも「名詞」である。「四肢であり皮膚であり爪である」のなかで繰り返される「ある」が渡辺にとっての「肉体」であり、それは、私の「感覚の意見」では「動かない」。渡辺にとって「動詞」の「主語」はきっと「タマシイ」である。「精神」である。「記憶」「意味」というような「精神」が「主語」になる。「肉体」は「動詞」の「主語」にはならない。「ある」も「ある」というよりは「四肢である」と「認定する(認識する)」、「皮膚である」と「認定する(認識する)」、「爪である」と「認定する(認識する)」である。
「在ることに撞着する」も、そのことを語っている。「撞着する」のは「精神/タマシイ」である。「肉体」はすでに「落ち葉」となって散っている。「撞着する」ことをやめている。
別なことばで言い直せば、渡会は「精神世界」を描いていることになる。
<消滅するとき記憶はどこに飛び去るのだろう
この一行に「肉体」ということばを補うと、そのことがよくわかる。
<「肉体が」消滅するとき記憶はどこに飛び去るのだろう
落ち葉を「肉体」の「死」と受けとめ、そこから始まる「精神世界」を描いている。「記憶」は「精神/タマシイ」である。
次の、
<意味から剥がれて声は無辺に皺を寄せるのか
は
<意味「という精神の動き/タマシイの動き」から剥がれて声「という肉体に属するもの」は無辺に皺を寄せるのか
ということである。「声/肉体」が一瞬出てくるが、これは「主語」にはならない。「皺を寄せるのか」と考えているのは「肉体」ではなく「精神/タマシイ」である。
「精神/タマシイ」が「主語」となって「動詞」を動かしているので、そのことばには、坂本の作品に濃密に漂う「不透明感」がない。渡会のことばは「透明感」のとなかを動いていくことになる。
途上 | |
渡会 やよひ | |
思潮社 |