詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』

2016-04-27 12:30:23 | 詩集
最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア、2014年05月17日発行)

 最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』には縦書きの詩と横書きの詩が混在している。私のブログでは、どちらも横書き表示、紙媒体(限定4部)では縦書きにしか表示できないので、原文は書籍で確かめてください。

 「星」という作品のなかほどから後半にかけて。

きみが大切って気持ちにどれぐらいの意味があるんだろう
好き 終わったあとでその気持ちだけ残ったら きっと夕日に吸収されて
地球の上をまわるだろう
ときどき私やきみという存在が無駄で あいだの気持ちだけが本当に世界に必
要だったものなんじゃないかと思うよ 土が空気を吸っている 町から少し離
れた川べりで きみのあの日の言葉がいまも、ころがって、水をなでている

 「気持ち」ということばが出てくる。
 この詩の書き出しは「好きと嫌いと優しいかっこいいと素敵とまたねで出来上がった私たちに」。「好きと嫌いと優しいかっこいいと素敵とまたね」を要約(?)したことばが「気持ち」ということになるかな。
 この詩に限らず、この詩集全体に、そういうことばがしきりと出てくるのだが。
 その「気持ち」はこの作品のなかだけでいうと、

あいだの気持ちだけが本当に世界に必要だったものなんじゃないか

 という形で出てくる。「あいだ」というのは「私やきみという存在のあいだ」である。そうすると、ちょっとややこしくなるが、「あいだ」は「存在」ではない、ことになる。「存在」が「存在しない」ところが「あいだ」。「存在しない」から「無」と読み替えてもいいかな?
 しかし、もし、その「無」に「気持ち」が存在してしまうと、それでは「あいだ」はどうなってしまうのか。
 「無」のまま?
 それとも「存在」の「私やきみ」とは違う何か?

 ちょっと読み返してみる。「気持ち」は、どう、つかわれているか。

きみが大切って気持ちにどれぐらいの意味があるんだろう。

 「気持ち」は「意味」と同義になるのだろうか。「意味がある」が同義になるのか。
 そうだとすると、「世界に必要だった」ものというのは「意味」になるかもしれない。「私やきみ」ではなく、「存在」ではなく、「意味」が必要だった。
 この「意味」の反対(対極)にあるものは「無駄」ということになるのかな? 「私やきみ」は「存在」であり、「無駄」である。「無駄」であるから「必要はない」。必要なのは「意味」だということになる。

 「意味」というのは、どういう形で存在しうるのかな?
 「私やきみ」を否定して存在する。「私やきみ」を超越して存在する。
 これを考えることは、ちょっと難しい。

 でも。
 ここで「意味」をもう一度「気持ち」と言い直して見るとどうだろう。
 「気持ち」は「私やきみ」を否定して存在する。「私やきみ」を超越して存在する。「私やきみ」を裏切って存在する。「気持ち」は「私やきみ」を否定する。超越する。裏切る。
 これは、意外と、ありうるのでは。
 あるいは、ありうるではなく、「気持ち」は「私やきみ」を否定し、超越し、裏切るという形が、いちばん「なまなましい」のではないだろうか。
 「好き」なのに、「好き」なはずなのに、「嫌い」になってしまう。「嫌い」と言ったくせに「好き」になってしまう。別れたくないのに別れてしまう。別れたいのに別れられない。
 この「矛盾」が「気持ち」。

 そうすると「矛盾」が「意味」になってしまう。
 「矛盾」はまた「無駄」とも言い換えうる。「矛盾したことをしていては、時間の無駄」。どっちかに決めて進まないことには「意味がない」「意味」は「矛盾」しないもの、「論理」であること。

 何か、おかしいね。
 どこで間違えたのかな?

 まったく逆に考えてみることもできるかもしれない。「私やきみ」が「存在」しているのではなく、「あいだ」だけが「存在」と呼べるたしかなものであって、そのほかは、つかみどころのない「不確かなもの」。
 あらゆるものは「不確か」なのだが、それが「あいだ」という「場」で「確かなもの」に変化しながら、瞬間瞬間にあらわれてくる。「好き」とか「嫌い」とかいう「気持ち」が「あいだ」にあらわれてきて、その「気持ち」といっしょに「私やきみ」が「存在する」。「好き/嫌い」が「私やきみ」に「なる」。「私/きみ」を生み出す。存在させる。そうとも読み直すことができる。
 「私/きみ」を「生み出す」という「運動」だけがある。「あいだ」に存在するのは、その「運動」だけである。「生み出す」は「生まれ出る」。「生まれ出る」には「生まれ出る場」が必要。「生み出し」を邪魔しない「場」、「無」としての「場」が必要。それが「あいだ」。

 わからないね。

 わからないけれど、わかることがある。
 「私/きみ」「気持ち」は衝突しながら「無駄」や「無」になったり、「存在」になったり「大切」になったり「意味」になったりする。
 それは「ひとつ」に断定できない。「意味がある」と言ってしまうこともできない。「無駄である」と言ってしまうこともできない。

きみのあの日の言葉がいまも、ころがって、水をなでている

 ここに書かれている「いまも」が重要かもしれない。「あの日」は「過去」。「過去」であるものが「いまも」存在する。存在するとき、それは「過去」ではない。「いま」である。「ころがって、水をなでている」というのは「比喩」だが、その比喩は「現在形」で語られる。「過去」は「いま」、ここに呼び出されている。あるいは、「生み出されている」。「生まれている」。
 こういう言い方は「矛盾」してしまうが、その「矛盾」を受け入れる「場」が「世界」なのだろう。
 ことばは、いつでも、何かを「生み出す」。「生まれ出る場」が詩かもしれない。

 あ、何を書いているか、わからないね。

 詩集のタイトルとなっていることばを含んだ詩「青色の詩」を読んでみる。巻頭の作品。そこへ、もどってみる。

都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。

 最初の二行がとても刺激的だ。
 「都会を」と書かれているが、「都会」は代替可能な「比喩」だろう。「誰か」でもいいし、猫でも、河でもいいかもしれない。「好きになる」というのは「生きている」から。つまり「気持ち」が動くのは「生きている」から。しかし、「気持ちが動く」ことを最果ては「自殺したようなもの」という。
 なぜだろう。
 「気持ち」は「私」を裏切って動くからだ。「好きになった」の「なった」が問題。それまでは「好きではなかった」。つまり「好き」という「気持ち」が生まれてきてしまった。それは、「好き」という「気持ち」が、生まれた瞬間から「主導権」をにぎって「私」を動かしていく。「好き」という気持ちが生まれるまえの、それまでの「私」はそれに翻弄される。もうついていくしかない。それまでの「私」は何もできずに、つまり死人になって、新しい「私」に引きずり回される。
 「塗った爪の色」というのは、「いままでとは違った爪の色」。「新しい爪の色になった」と読み替えると「好きになった」と重なる。「新しい気持ち/好きになったときの好きという気持ち」。それは「生まれてきてしまった」。だから「体の内側に探してもみつかりやしない」。もう体の「外側」を動いている。
 そうなのだ。「気持ち」は「体の内側」にあるのではない。「体の外側」、「私やきみ」の「内側」にあるのではなく、「私やきみ」の「あいだ」にある。「あいだ」を動いている。そして、その動きが「世界」を集めてくるのである。まわりに「必要」なものをあつめて「世界」にしてしまうのだ。
 「好きになった」「気持ちを生み出した」その瞬間、最果ては「世界」の秘密に触れたのだ。「あいだ」が「世界」だと知ったのだ。
 その「あいだ」とは、どんなものだろう。
 最果は詩人の直観で瞬間的につかみ取る。

夜空はいつでも最高密度の青色だ。

 「夜空」の「青色」が「あいだ」を象徴するものである。いや、「夜空」や「青色」は「あいだ」を明らかにするための「比喩」であって、「あいだ」とは「最高密度」のことである。「あいだ」というのは、そこに何もないから「あいだ」なのだが、それが「密度」として生まれてくる。「気持ち」が「最高密度」になったとき「世界」は最果と一体になる。「最高密度」に最果は「ほんとう」を感じるということだ。
 「あいだ」は、この詩ではもう一度言い直される。「間」という漢字で書かれているが……。

きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
きみはきっと世界を嫌いでいい。
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。

 ここでの「間」は「夜空」とは違って「空間」ではなく「時間」である。
 「かわいそう」「愛さない」「嫌い」「恋愛」ということばが衝突している。「気持ち」の衝突によって、「間」はどんどん広がる。「一体感」がない。
 しかし、そうとも言えない。
 愛する誰かといっしょにいる、一体感がある、という形で「世界」はあらわれてこないが、それでもそこに「きみ」はいて、その「きみ」の気持ちは「最高密度」でぶつかりあい、「間」を広げる。広がっていくときの、その「最高密度」こそが「世界」なのだから、それが「愛」ではなく、「嫌い」であってもいい。「嫌い」のなかに「最高密度」があるなら、それはそれで「最高密度」の「一体」なのだ。
 「気持ち」が生まれ、それが動いていく。「気持ち」の動きが「時間」をつくっていく。濃密にしていく。その濃密のなかを生きている。

夜空はいつでも最高密度の青色だ
最果 タヒ
リトル・モア
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