詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木志郎康「とっかかりは見つけてみれば夢の残り」

2016-04-22 11:06:04 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木志郎康「とっかかりは見つけてみれば夢の残り」(「モーアシビ」31、2016年04月15日発行)

 鈴木志郎康「とっかかりは見つけてみれば夢の残り」は詩を書こうとする詩。

とっかかり
とっかかり
とっかかり
詩を書くとっかかりって
それを求めて、
とん、
とん。

 書きたいことがあって、それを書く。という具合には、なかかなかならない。書かなければ、書きたい、という気持ちがあるけれど、書きはじめられない。
 「とっかかり」を三回繰り返している。それをさらに「詩を書くとっかかりって」ともう一度言い直し、「それを求めて」とまた言い直す。「とっかかり」ということばのなかには「求める」という「述語(動詞)」が無意識の形で含まれているので、そう感じてしまう。
 で、読み返すと。
 何にも書いていないなあ。「意味」は書いていないなあ、と感じる。でも、何かが書いてある。「意味」ではなく、「リズム」が書いている。繰り返してしまう「リズム」。ひとは何かをすぐにやれるわけではない。何かをするまでには「時間」がかかる。その「時間」をととのえている。その「呼吸」が「わかる」。この「わかる」は、あ、こういう具合に、同じことばを繰り返して、次のことばが出てくるのを待っていたことがあるなあ、と自分の「経験」を思い出してしまう、ということ。私の「肉体」は、こんな具合に同じことばを繰り返しながら、何かを探したことを覚えている。
 私が今書いている文章も、ほとんどが「繰り返し」。「繰り返し」ていると、繰り返しのなかに、何かが少しずつ、ずれて動いている。「隙間」のようなものができて、そこから別のことばが動いている。
 「それを求めて」の「求める」という「動詞」は、そうしたものだ。先に「とっかかり」ということばには「求める」という動詞が無意識に含まれていると書いたが、「とっかかり」のあとにことばをつづけようとすると、「求める」とか「探す」ということばがどこからともなくあらわれてくる。「とっかかり」ということばといっしょに、そういう動詞をつかったことが思い出され、それが表に出てくるのだ。
 無意識の、したがって「必然」の動詞が動いて、そこから、ことばが新しくなる。

とん、
とん。

 何なのだろう。「意味」はわからないね。わからないけれど、あ、いままでと、ことばが違ってきた。違ったことばが突然あらわれた、ということは「わかる」。私に「意味」が「わからない」のは、「とん、とん。」が鈴木の「肉体」に深く絡みついていて、鈴木の「肉体」のなかに、まだほとんどをうもれさせたままだからだ。
 こういうとき、私は「意味」を求めない。そのままにしておく。

とっかかり
みつけましたよ。
夜中にトイレの便器に座って、
この世にひとり、
取り残されたなって、
不図、
思っちまったってこと、
それで、どうしたって
こともない。
とん、
とん。

 「とっかかり/みつけましたよ。」は一連目の繰り返し。繰り返しだけれど、切断と飛躍がある。「求めて」が「見つけた」にかわっている。その「変わり/変化」を明確にするために「とっかかり」ということばが繰り返されている。「同じことば」があるから「違い」が明確になる。「求める」と「見つける」が明確になる。
 その「みつけた」ことが、「夜中にトイレの便器に座って、/この世にひとり、/取り残されたなって、/不図、/思っちまったってこと、」というのは、鈴木が書いているように「それで、どうした」と問われると困るようなこと、返事のしようがないこと、どうでもいいようなことなのだが。
 だから(というのは変なのだが)、私が、あ、おもしろいと思ったのは、ここでも「意味」ではない。つまり「内容」ではない。トイレで「この世にひとり取り残されたな」と思うのは、老人の、つまらない思いつきである。そんなものに「意味」などない。あるかもしれないが、私は「ない」と言ってしまう。それよりも「不図、」ということばがおもしろからい。
 何かを思うのは、たいてい「ふと」である。意図しないときに、「ふと」思う。「とっかかり」が「求める」とか「探す」という動詞を無意識的にひきつれて動くように、「ふと」は「思う」という動詞を無意識的にひっぱり出している。「肉体」の奥から。鈴木の「無意識」から。
 鈴木の詩のことばは、「プアプア」の印象が強いせいか、「正しい日本語」というよりも、「破壊的な日本語」というイメージをどこかでひきずってしまうが、とても「粘着的」なのだと思う。「暴走」などしない。「暴走」しようにも、「日本語の粘着力」にからみつかれ、もがく、という感じで読んだ方がいいのだと私は思っている。鈴木のことばの「粘着力」は、「とっかかり/求める」「不図、/思う」という動詞の無意識の動きにくっきりと出ている。
 この二連目の、最後にも「とん、/とん。」が繰り返される。
 それはトイレのドアを叩く音のようでもあるが、まあ、意識の「切断」を促すリズムなのだと私は思っている。トイレの最中に「とん、とん。」とやられると、ちょっと気分がとぎれる。そういう「とぎれ」を暗示している、と読むと、これは「深読み」を通り越してひどい「誤読」になるかもしれないけれど。
 三連目。

とっかかり
とっかかり
とっかかりは、
夢の残り、
私は若くて放送局員、
畑の中の斜めがかった土の道を、
窮屈なボロタクシーで、
地方の放送局に帰ろうとしている、
タクシーに乗る前に、
ビル裏で、
足を掛けて、
よいしょって、
登って入ったトイレが、
トラックに積まれたコンテナの改造トイレで、
汚くて、
運転席に女がいて、
おしっこが出なくて困っちゃてた。
とん、
とん。

 「夜中のトイレ」から「若い時代」の「トイレ」の思い出に呼び出される。
 このときも「とっかかり」が繰り返されている。リズムをととのえると、リズムに刺戟されて何かが動き出すのだ。トイレの近くの、「運転席に女がいて、/おしっこが出なくて」という生理反応がくすぐったくて、とてもおもしろいが。
 それよりも。

夢の残り

 タイトルにも出てくることばだが、ここで「夢の残り」ということばが出てくるのはなぜ? 「夢の残り」って何?
 詩を読み進んできて思うのは、夜中にトイレに入って、ふと「ひとり」を感じた。そのとき、昔、汚いトイレで、しかも近くに女がいるのでしっこが出なくて困った、ということを思い出したという「時系列」になるのだが。
 もしかすると、違うのかもしれない。
 二連目の

不図、

 このことばの「奥(内部)」に三連目全体が入っているのかもしれない。
 「不図、」若い時代の、あのトイレのことを思い出した。その瞬間、「この世にひとり、/取り残された」と感じたのかもしれない。
 「時系列」が逆というより、そこには「時系列」がない。
 「一瞬」のうちに「過去(思い出/トラックのトイレ)」と「現在(夜中のトイレ)」が出合い、それぞれに刺戟しあうかたちで鮮明になる。
 もしかすると、あの汚いトイレで、鈴木は、老人になって夜中にひとりでトイレに入り、「この世にひとり、/取り残された」と思ったかもしれない。そんな姿が、デジャビュのようによぎったかもしれない。
 若い時代の思い出が「夢の残り」なのか、若い時代の「夢の残り」がいまの現実なのか。
 どちらにも読むことができる。
 ではなく、そのどちらの読み方もしなくてはならないのだと思う。「意味」を限定するのではなく、「意味」を限定せず、むしろ「意味」を解放する。ことばがととのえられる前のところにもどる。そういうことが、この詩を読むときには大切な気がする。
 「とっかかり」、「とん、/とん。」ということばを繰り返し繰り返し、鈴木はリズムをつくりことばを先へ動かしているが、その動きを逆にたどるようにして、リズムの奥にあるものへと帰りながらことばを読む。
 そうすると、

とっかかり
とっかかり
ああ、
ただ、わけも無く、
泣きたいちゃあ。
とん、
とん。

とっかかり
とっかかり
春先の日向だなあ。
春先の日向だよ。
とん、
とん。

 「わけも無く」に出合う。
 「わけ」は「意味」でもあるだろう。「意味も無く」。そこに「泣きたい」という感情が動いている。「泣きたい」というのは「欲望」、「泣きたい」のに「泣けない」。ここにも「決められない」というか「限定」を拒むものがある。
 「無限定」。
 「わけも無く」は「わけ」が「ない」と読むと同時に、「ない」ことが「わけ」なのだと読む必要がある。そう読むと、「わけも無く」は「無」そのものが「存在」の「理由」になる。
 この「無」そのものが「存在理由」は、最終連の、

春先の日向だなあ。
春先の日向だよ。

 の自問自答のような「繰り返し」のなかに結晶する。
 「夢の残り」は「無」。「無の境地」。
 とっかかりは、とっかかりではなく「結論」のようなものかもしれないなあ。
どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた
鈴木 志郎康
書肆山田
コメント (1)
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