詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督「レヴェナント 蘇えりし者」(★★)

2016-04-24 22:54:12 | 映画
監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 アメリカの自然と光 レオナルド・ディカプリオ

 「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」から一転、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは人口の光(舞台)から屋外(自然)へとカメラを移し、そこで長回しをしている。
 冒頭、水が流れている。この水が、しかし、どこへ流れているのかよくわからない。手前(観客席)に向かって流れているのか、左へ流れているのか、奥へ流れているのか。見方によって水の流れは変わるし、自然は広いから、方向を「どこ」と決めてみたって始まらないのかもしれないが。その水の流れだけでさえも、光はさまざまに揺れ動く。変化が、激しくて、なおかつどこまでも連続しているので、目の悪い私は、その動きを見ているだけで酔ったように気持ち悪くなる。
 あ、困った。
 冬の山岳地帯なので、色は少ない。もっぱら「灰色」のグラデーションの変化がつづく。現実にはもっと暗い色なのだと思うけれど、映画になるように、いくらか明るくなっているかもしれない。それでも、暗い。暗い光の変化が、この映画の「主役」といっていいくらいだが。
 あ、困った。目が悪い私は、ほんとうに疲れてしまった。
 日本の都会では見ることのできない「本物の雪の色」の変化、山の空気(空気に含まれる水分の濃淡)、それがつくり出す遠近感は美しいし、下から見え出る樹木の美しさ(日本の木々のようにねじ曲がっていない)にうっとりしてしまうし、空の変化にも思わず感嘆の声を上げそうになるが。
 あ、困った。
 こんな「本物」の自然のなかでは、人間のやっていることはたかが知れている。人間のドラマが描かれているはずなのに、ぜんぜん、人間に目が行かないのである。レオナルド・ディカプリオは念願のアカデミー賞(主演男優賞)を受賞しているが、「演技」に対してというよりも、まるで「功労賞」のようなものだね。ここでやっているのは「演技」ではない。
 だいたい「演技」というのは「嘘」であり、その「嘘」の魅力は「真似したい」という欲望を刺戟するかどうかである。
 たとえば「ゴッドファザー」のマーロン・ブランド。口に綿をつめこんで、何やらあいまいな発音でしゃべり、手をゆっくり動かす。猫の背中をなでる。その姿が、漆黒の暗闇のなかでかすかに浮かぶ。そういうシーンで、家でやってみたくなるでしょ? あるいは「セッション」の教授。「リズム/テンポ」を厳しく数えながら、「遅い」「速い」とかなんとかわめきながら平手打ちをバシッバシッ。かっこいいよなあ。
 女優で言えば、そうだなあ。「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーン。「印象的な都市は?」と記者に質問されて「どの都市も……」といつもどおり言おうとして「ローマ」と言い直す瞬間とか、スクーターに乗ってはしゃぐシーンとか、椅子をふりまわすシーンとか。
 子役だって、そう。「木靴の樹」のミネクの「水のなかには生き物がいっぱいいるよ」と父親に話すシーン、一生懸命「L」の文字を書くシーン。「みつばちのささやき」のアナが浮浪者に「ほら」と林檎を差し出すシーン、朝の食卓で父親が懐中時計のオルゴールを鳴らしたとき、はっと顔をあげるシーン。
 そういうのって、やってみたいよなあ。自分で真似して、そのとき役者のなかで動いていた感情を体験しなおす。ストーリーのなかに入り込む。それがないと「演技賞」とは言えない。
 この映画で、ディカプリオのどの「演技」を真似したい? 死にかけて、生き延びて、匍匐前進するところ? 馬のはらわたを取り出して、そのなかで寒さからのがれるシーン? 咽の傷を焼いてふさぐシーン? うーん、真似したい気持ちになれないなあ。瀕死の状態だったのに、食べ物もなく、冷たい川のなかにも飛び込んで、こんな具合に生き延びられるわけがないなあ、嘘だなあ。「映画」とはいえ、あまりにも嘘っぽい。
 本当の話、らしいけれど。(どこかで、ちょっと聞いたことだけれど。)
 だいたい明るさと軽さ、あるいは透明感がディカプリオの「本質」なのに、こんな暗い映画は、どうも似合わない。これは私の偏見かもしれないが、「ブラッド・ダイアモンド」あたりから、ディカプリオは「演技」をしすぎて、つまらない。
 アメリカの山岳地帯の冬の空気と光を知りたいひとは見てください。
 あ、一か所、銃を撃ったあと、その音の影響で雪崩が起きるシーンがあって、ここはすごいね。それをそのまま撮っている。遠くではあるんだけれど、その雪崩に動じずに演技も撮影もつづいているシーンは、「わっ、リアル」と叫んでしまういそうだった。
                        (天神東宝5、2016年04月24日)





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小池昌代編著『恋愛詩集』

2016-04-24 09:17:28 | 詩集
小池昌代編著『恋愛詩集』(NHK出版新書、2016年03月10日発行)

 他人の書いた詩の批評、感想に驚くことがある。
 ヤニス・リッツオス「井戸のまわりで」(中井久夫訳)が『恋愛詩集』に含まれていることに、私はまず驚いたが……。

女が三人、壷を持って、湧井戸のまわりに腰を下ろしている。
大きな赤い葉っぱが、髪にも肩にも止まっている。
スズカケの樹の後ろに誰か隠れている。
石を投げた。壷が一つ壊れた。
水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が一面に輝いて我々の隠れているほうを見つめた。

 これが、リッツオスの詩。

なんて不思議な明るい詩か。こんな水、見たことない。見つめるこちらを見つめているなんて。疑うことを知らない「瞳」のようではあませんか。奇跡と呼ぶにはあまりに素朴でユーモラス。同時にわたしたちを深く驚かす、おごそかで綺麗な水。井戸のまわりで起こった「事件」。

 これが小池の感想。
 「見つめるこちらを見つめているなんて。」この「感想」が「恋愛」を語っている。「瞳」が「恋愛」を語っている。
 そうか。「壷」は「比喩」だったのか。

 季節は、秋だな。「大きな赤い葉っぱ」は「スズカケ」の枯れ葉だろう。その枯れ葉が女の髪、肩に落ちてきて、止まっている。スズカゲの後ろに「誰か」が隠れているのだが、このスズカケと井戸の距離、女たちとの距離は、そんなに遠くないだろう。どちらかというと、「手の届く」感じ。遠く離れていたらスズカケの葉は女の髪に降りかからない。
 隠れている「誰か」とは誰だろう。もちろん、男だろう。その誰かが石を投げた。壷にあたって、壊れた。
 これをどう読むかは、難しい。壷は、本物の壷か。比喩か。
 井戸があるのだから、水を入れる壷と見るのは自然。一方、石を投げて、その石で壷か壊れるのは、自然のようで、自然ではない。大きな石、力をこめて投げた石なら、そういうことは、当然起きる。けれど、誰か(男)がすぐそばのスズカケの木に隠れていて、そこから合図として石を投げるなら、その石は大きな石ではないだろう。力一杯投げつけるということもないだろう。
 夜の窓の下で、恋人が小石を二階の窓に投げる感じ。なるべく小さな音。しかし、気づいてもらえる音。そういう感じの投げ方、そういうときにふさわしい小石だろう。「割る」のが目的ではないのだから。
 ここでも同じだろう。
 そうすると「壷」は「壷」ではないのかもしれない。「壷」は「比喩」。「壷」と呼ばれているのは、三人の女のうちのひとりだろう。ひとりの体に小石があたる。はっと驚いて、小石の飛んできた方向をふりかえる。スズカケの方をふりかえる。そのふりかえった「瞳」が「水」になるのか。清らかな輝き。
 不思議なのは、最終行に出てくる「我々」。
 スズカケに隠れていたのは「ひとり」ではない。小石を投げた「誰か」は「ひとり」かもしれないが、そこには複数のひとがいる。
 なぜ、隠れていたのかな? なぜ、複数なのかな? ここにも「恋愛」の手がかりがあるかもしれない。
 男には思いを寄せる女がいる。その女は決まった時間に井戸に水を汲みにくる。それがひとりでくるのならいいけれど、たいてい複数(今回は三人)でくる。なかなか、ふたりきりで会えない。それがなやましい。そんなことを聞かされた友人が、「誰か」といっしょにやってきたのかもしれない。そして、ここから小石で合図をおくればいい、とそそのかしたのかもしれない。言われた通りに、思いを寄せる女の方に小石を投げる。見事に的中。そして、振り向く。その顔の、その「瞳」の美しさ。
 そそのかした男の方が、突然、恋をしたのかもしれない。えっ、こんなに美しいのか。「誰か(友人)」の「隠れているほうを見つめた」てはなく「我々の」と言ってしまっているところに、この詩のいちばんの「秘密」があるのかもしれない。
 書き出しの「女が三人」の「三人」も微妙だなあ。「我々」の人数は明確には書いてないが、女が「三」人、壷が「一つ」なら、我々は「二人」になるだろうなあ、と思う。そして、女は「三人」だけれど、恋愛の対象が「一人(一つの壷)」だとすると、男「二人」というは、「三人」にもどってしまう。いわゆる「三角関係」になりかねない。
 いや、女が「三人」、男が「二人」なら、そこからもっと複雑な変化も始まるかもしれないなあ。「水面が一面に輝いて」というのは、「一人」の女の瞳が輝いて、というよりも「六つの瞳(三人の女の瞳)」が輝いたということかもしれない。それは「いつもの男が、ほら、来てるわよ、見てるわよ」というからかい(女の友達へのからかい)、からかいという「団結」を一瞬、ほぐしたかもしれない。そんなことも感じさせる。

 私はリッツオスの詩を、小池の書いているよう「明るい」感じで読んだことがないので、とてもびっくりした。小池の「ユーモラス」のひとことで、リッツオスがシェークスピアの喜劇か、モーツァルトの音楽(オペラ)に一瞬にして変わるのを感じた。

恋愛詩集 (NHK出版新書 483)
小池昌代
NHK出版
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