詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柿沼徹「犬」「雲」

2017-07-12 09:10:09 | 詩(雑誌・同人誌)
柿沼徹「犬」「雲」(「生き事」12、2017年夏発行)

 柿沼徹「犬」を読みながら、あっ、ここが「現代詩」の欠点だなあ、と思うところにぶつかった。私もついつい書いてしまうのだけれど。

部屋の隅で
ねそべっている犬の
眠そうな目が
こちらを見ている

そうか、おまえは犬、
犬だったよな

ようやくネクタイをしめていると
雨が降っている
庭の枯草
壁面の一部が濡れ始めている

 一連、二連目いいなあ。ワープロ以前のような一行の短さと呼吸もいいし、「犬、/犬だったよな」の「犬」の繰り返しもいい。繰り返した瞬間、「犬」を見ている柿沼の「肉体」が見える。
 でも、そのあとの

ようやくネクタイをしめていると

 これが、なんともいえず「現代詩」。ここに出てくる「ネクタイ」というのは、いまはやりのことばで言えば「換喩」。サラリーマンとか、管理される労働者(そして、そういう人間の悲哀)を言い換えたもの。
 で。
 こんなことが「わかってしまう」ことばが、「現代詩」をつまらなくさせている。
 「ネクタイ」にはさまざまな「意味」がある。でも、「現代詩」のなかでは「管理される労働者」という「意味」の比喩になり、それは「しめる」という人間を窮屈にさせる動詞といっしょになって動くという「定型」ができあがってしまっている。(「ネクタイをゆるめる」はまた別の「意味」になるが、これも「定型」である。)
 これが「快晴」ではなく「雨」ということばと結びついて「憂鬱」を「意味」にする。さらに「枯草」という名詞と結びつき「疲労」とか「盛りのすぎた」という「意味」を引き寄せる。「濡れ始める」という動詞も、まあ、それに通じるし、「壁面」の「壁」さえ「乗り越えられない障礙」という「意味」になりたがる。意味が「領域」としてひろがって世界になる。
 あとは、もう読まなくてもいい。
 詩のほんとうの仕事は、こういう「意味(の領域)」から「もの」そのものを奪い返すこと、「ことば」を「無意味」にすることなんだけれど、「現代詩」の「意味の連絡網」はなかなかしつこくて、詩人を自由にはしてくれない。

 「雲」は「犬」とは違う。一連目は、こうである。

この古いビルの階段を
のぼりつめて扉を開けると
高い曇りの一日が射してくる
今日までの身体
ここに来たことがあるという記憶の
そのなかの出来事のようにぼんやり立つと
雲がまぶしい

 「古い」ビル、「今日までの身体」、「記憶」は「犬」に通じる「管理される人間」の「憂鬱/悲哀」の「意味」を呼び寄せるが、

高い曇りの一日が射してくる

 この「一日」がちょっと違う。はっとする。「日」ではなく「一日」。うーん。「量」が「どすん」と響いてくる。

ここに来たことがあるという記憶の
そのなかの出来事のようにぼんやり立つと

 という、わかるけれどわかりにくい、あるいはわかりにくいけれどわかる感じの、ことばのぎごちない感じが「肉体」を刺戟する。もっとわかりやすい、自然な言い方があるのかもしれないが、それがみつからない。でも、このことは言いたいという「欲望」のようなものを感じる。(「立つ」という動詞が、私の「肉体」を内部から動かす。)
 「意味」ではなく、この「言いたい」という「肉体」と結びついた欲望が詩なんだろうなあ。
 そして、そのあと

雲がまぶしい

 これがいいなあ。
 「雲」は「太陽」と違って、ふつうは「まぶしくない」。
 でも、柿沼は「太陽はまぶしい」「太陽をさえぎる雲はまぶしくない(むしろ暗い)」という「意味」を引き剥がして、「雲」を「まぶしい」という形容詞で生まれ変わらせる。
 あ、詩というのは、こういうことだったんだなあと気づく。
 「雲」がいままでの「意味」とは違ってきた。「雲」が新しい世界の「扉を開けた」。だから、二連目からは、少し違った世界が展開する。

朝昼晩の裏側
清掃会社に勤めていたSさんが
ざまあみろ、おまえたち、ざまあみろ、
仕事をしながら呻いている
屋上の貯水タンクの中に何があるか、
ネズミ、蛾、蠅、ゴキブリ、
おまえたち水道の水を飲んでいるんだろ

 見方によっては、この「怒り」の発散も「現代詩の定型」のひとつではあるけれど、「雲がまぶしい」ということばが「定型」を洗い流している。「怒りがまぶしい」という感じを誘い出している。
 「まぶしい」という形容詞も、何か新しいものになっている感じがする。

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