甘里君香『ロンリーアマテラス』(思潮社、2017年04月30日発行)
甘里君香『ロンリーアマテラス』には母と子の姿が書かれている詩が何篇かある。読みながら、甘里は母なのだろうか、子なのだろうか、と思う。
「食べるのは嫌いなの」
最初の「おかあさん」は甘里の母と読むことができる。幼いときの思い出を書いているのだと読むことができる。もちろんそこに書かれている「お母さん」が甘里で、それを子どもの視点から詩と読むこともできる。自分を対象化することで、「いま」から自分を救い出そうとしていると読むこともできる。
どちらであってもいいと思う。言い換えると、ここでは、私は甘里と母なのか、子なのかと悩んでいない。
ああ、どっちかなあ、と考えてしまったのは……。
この「痩せっぽちで」である。おかあさんを修飾しているのか、私を修飾しているのか。「おかあさんは痩せっぽち」なのか。「痩せっぽちで猫背」なのが私のなのか。
たぶん後者なのだが(後半に、はっきりそう書かれている)、私は「おかあさんは痩せっぽち」と読みたい。どこかで、そう「誤読」したいと思ってしまう。
それは、その次の連。
これを、だれのことばと思って読むかに影響してくる。ふつうは子どもの声だと思って読むのだろう。おかあさんが「たくさん食べなさい」と言っている。でも「私は、食べるのは嫌いなの」と口答えしている。
しかし、私はどうしても、これを母のことばとして読んでしまう。
そのときは、四連目と五連目の間に、こんなことばが入るだろう。
母親が子どものために節約に節約を重ねてごはんをつくってくれる。それは小さな皿に載っている。一人前だ。子どもは思わず、「おかあさんは食べないの?」と聞く。母親は、「おかあさんはね、食べるのは嫌いなの(いまは食べたくないの)」と答えてしまう。そう答えないと、子どもが食べないから。
子どもには、それがわかっている。
そしてわかっているから、今度は、こどもが「食べない、食べるのは嫌いなの」と言ってしまう。
母と子が、互いに相手のことを思い、強情になっている。
これはだれの台詞、この母は甘里なのか、子どもが甘里なのか、という「問い」は、そういうとき「邪魔」である。区別はできない。二人は交互にいれかわる。お互いにお互いの気持ちがわかる。「現実」がわかる。わかって、どうしようもなく、我を張ってしまう。「二人で食べようね」にはならない。料理が足りないとわかっているから。お金がないとわかっているから。
途中を省略する。最後の方は、こうなっている。
食べたくないわけではない。食べたい。だけど「食べるのは嫌いなの」と言ってしまう。そう言わないとすまないような状況に追い込むおかあさんが嫌い。いっしょに食べないおかあさんが嫌い。貧乏が嫌い。
でも、それだけではないのだ。そんな理由で強情を張っているわけではない。
最終連の「知ってる?/ほんとうは」は、直前のことばを繰り返しているのではない。そのあとには語られない(書かれない)ことばがある。
好きなのに、好きといえない。好きをどう伝えていいかわからない。「おかあさん、食べて」と言えば、おかあさんは叱る。だから、「食べるのは/嫌いなの」と言ってしまう。私が食べなければ、おかあさんが食べるだろう。
子どもは子どもで、精一杯考えて、そんなことばを口にする。
このとき、そのことばを聞いた母はすべてがわかる。母は母であって、同時に子どもの気持ちになっている。
この詩のなかでは、母と子どもが、完全に「ひとつ」になっている。母には子どものことがわかるし、子どもには母のことがわかる。わかるから、どうしようもなく、互いに我を張る。
そこに、愛がある。
ここに書かれているおかあさんが甘里なのか、子どもが甘里なのか。区別してもはじまらない。区別しないで、両方と思って読んでみたい。
行の展開の仕方(改行の仕方)も、とても気持ちがいい。音が自然で美しい。ワープロで書いているというよりも、「声」で書いている。「声」を確かめながら、自分で自分の「声」を聞きながら書いている。
助詞「が」「を」が行頭にきている。「きいろいお金が」「いつもの豚こまを」の方が「文法」的には正しいのかもしれないが、そういう正しさよりも、ことば(もの)を確かめながら、確かめたあと、ことばを動かすという感じが切実でとてもいい。切実さがそのまま「音楽」になっている。
甘里君香『ロンリーアマテラス』には母と子の姿が書かれている詩が何篇かある。読みながら、甘里は母なのだろうか、子なのだろうか、と思う。
「食べるのは嫌いなの」
ほらもう
これしかないの
おかあさんは
おこったような顔で
お財布をひらく
白いお金
茶色いお金
きいろいお金
が底の方に
重なっている
いつものもやしと
いつもの豚こま
を買って
黙ったまま
おうちに帰る
おかあさんは
痩せっぽちで
猫背の私に
たくさん
食べなさいっていう
食べるのは
嫌いなの
最初の「おかあさん」は甘里の母と読むことができる。幼いときの思い出を書いているのだと読むことができる。もちろんそこに書かれている「お母さん」が甘里で、それを子どもの視点から詩と読むこともできる。自分を対象化することで、「いま」から自分を救い出そうとしていると読むこともできる。
どちらであってもいいと思う。言い換えると、ここでは、私は甘里と母なのか、子なのかと悩んでいない。
ああ、どっちかなあ、と考えてしまったのは……。
おかあさんは
痩せっぽちで
猫背の私に
たくさん
食べなさいっていう
この「痩せっぽちで」である。おかあさんを修飾しているのか、私を修飾しているのか。「おかあさんは痩せっぽち」なのか。「痩せっぽちで猫背」なのが私のなのか。
たぶん後者なのだが(後半に、はっきりそう書かれている)、私は「おかあさんは痩せっぽち」と読みたい。どこかで、そう「誤読」したいと思ってしまう。
それは、その次の連。
食べるのは
嫌いなの
これを、だれのことばと思って読むかに影響してくる。ふつうは子どもの声だと思って読むのだろう。おかあさんが「たくさん食べなさい」と言っている。でも「私は、食べるのは嫌いなの」と口答えしている。
しかし、私はどうしても、これを母のことばとして読んでしまう。
そのときは、四連目と五連目の間に、こんなことばが入るだろう。
おかあさんは
食べないの?
母親が子どものために節約に節約を重ねてごはんをつくってくれる。それは小さな皿に載っている。一人前だ。子どもは思わず、「おかあさんは食べないの?」と聞く。母親は、「おかあさんはね、食べるのは嫌いなの(いまは食べたくないの)」と答えてしまう。そう答えないと、子どもが食べないから。
子どもには、それがわかっている。
そしてわかっているから、今度は、こどもが「食べない、食べるのは嫌いなの」と言ってしまう。
母と子が、互いに相手のことを思い、強情になっている。
これはだれの台詞、この母は甘里なのか、子どもが甘里なのか、という「問い」は、そういうとき「邪魔」である。区別はできない。二人は交互にいれかわる。お互いにお互いの気持ちがわかる。「現実」がわかる。わかって、どうしようもなく、我を張ってしまう。「二人で食べようね」にはならない。料理が足りないとわかっているから。お金がないとわかっているから。
途中を省略する。最後の方は、こうなっている。
おかあさんは
ほらもう
これしかないの
とお財布のなかの
白いお金と
茶色いお金と
きいろいお金を
見せる
食べるのは
嫌いなの
だけど
知ってる?
ほんとうは
おかあさんが
嫌いなの
知ってる?
ほんとうは
食べたくないわけではない。食べたい。だけど「食べるのは嫌いなの」と言ってしまう。そう言わないとすまないような状況に追い込むおかあさんが嫌い。いっしょに食べないおかあさんが嫌い。貧乏が嫌い。
でも、それだけではないのだ。そんな理由で強情を張っているわけではない。
最終連の「知ってる?/ほんとうは」は、直前のことばを繰り返しているのではない。そのあとには語られない(書かれない)ことばがある。
知ってる?
ほんとうは
おかあさんが
大好きなの
好きなのに、好きといえない。好きをどう伝えていいかわからない。「おかあさん、食べて」と言えば、おかあさんは叱る。だから、「食べるのは/嫌いなの」と言ってしまう。私が食べなければ、おかあさんが食べるだろう。
子どもは子どもで、精一杯考えて、そんなことばを口にする。
このとき、そのことばを聞いた母はすべてがわかる。母は母であって、同時に子どもの気持ちになっている。
この詩のなかでは、母と子どもが、完全に「ひとつ」になっている。母には子どものことがわかるし、子どもには母のことがわかる。わかるから、どうしようもなく、互いに我を張る。
そこに、愛がある。
ここに書かれているおかあさんが甘里なのか、子どもが甘里なのか。区別してもはじまらない。区別しないで、両方と思って読んでみたい。
行の展開の仕方(改行の仕方)も、とても気持ちがいい。音が自然で美しい。ワープロで書いているというよりも、「声」で書いている。「声」を確かめながら、自分で自分の「声」を聞きながら書いている。
白いお金
茶色いお金
きいろいお金
が底の方に
いつものもやしと
いつもの豚こま
を買って
助詞「が」「を」が行頭にきている。「きいろいお金が」「いつもの豚こまを」の方が「文法」的には正しいのかもしれないが、そういう正しさよりも、ことば(もの)を確かめながら、確かめたあと、ことばを動かすという感じが切実でとてもいい。切実さがそのまま「音楽」になっている。
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