林嗣夫『林嗣夫詩集』(新・日本現代詩文庫134 )(土曜美術出版販売発行)
林嗣夫『林嗣夫詩集』に『四万十川』の全篇が収録されている。集落の「墓移し」を書いている。「三、豊おじはひょっとしたら」は、こう始まる。
集落全員で作業をしている。昔の思い出がいろいろまじってくる。こういうとき、「口語」というのは強い。ことばをととのえるのが「肉体」だからである。「欲望」だからである。
「一緒になっちょる」というのは単に隣り合わせにいる、そばにいる、ということではない。一緒に暮らす、つまりセックスもするということだ。これは同時に、生きていたときだって「春おばのところへ行っちょりやせんやろうか」ということでもある。夜這いに出掛けている。こっそりセックスをしている。
それが「事実」かどうかわからないが、いまとなっては「事実」になってしまう。「事実」はとりつくろってもはじまらない。あるがままにしておくしかない。
一方で、こういうこともある。祖父の遺骨がなかなか見つからない。やっと頭蓋骨が見つかる。
遺骨を前にして、「過去」がぱっと浮かんでくる。
そのあと、
最初は遠慮している。配慮している。死をうやまっている。けれど、違う気持ちもまじってくる。生きているときはできなかったことをしている。うらみ、つらみをぶっつけ始める。
それは父にしかわからないことなのだけれど。
林にもわかってしまう。
父の苦しみ、悲しみがわかってしまう。祖父のために苦労した。それを林は肉体で覚えている。もしかすると林自身も苦労したかもしれない。祖父なんか大嫌いと思ったことがあったかもしれない。
「これでもか これでもか」というのは父の思いであると同時に林の思いでもある。私と私以外のものの「思い」が重なり合う。つながってしまう。それが「家族」というものであり、また小さな「集落」の「生き方」でもある。
そこではすべてが「共存」する。許される。
遺骨をたたき割らないといけない悲しみ、遺骨までたたき割ってしまいたい怒り、苦しみ、怒りを発散する喜び。ことばにしてしまうと、そのすべてが違ったものになってしまうが、入り乱れる思いが「ひとつ」の肉体のなかで動くように、「ひとつ」の暮らしのなかで、そこに生きる人の欲望も論理もからみついて動く。それが「集落」であり、「家族」である。そして、それはそのまま「肉体」なのだ。切り離すと、「いのち」がなくなる。死んでしまう。
だからこそ「墓移し」をするだろう。「死者」をふくめて「肉体」なのである。「ひとつ」なのである。
いまは「ひとつ」の家族でも、ここに書かれている「関係」を生きることがむずかしくなっている。
林の詩には、その土地の「口語(話しことば)」と「書きことば(標準語)」がまじっている。「口語」が「口語」としての自然な力を持っていた最後の時代かもしれない、ということも少し考えた。
いま、林の詩のように「口語」をいきいきと響かせながら「集落」の最後を詩として書き残すことはむずかしいかもしれないとも感じた。
*
私は、ふと、加計学園問題をめぐる安倍の「閉会中審査」での答弁を思うのである。
安倍は加計理事長とは「おごったり、おごられたり」の関係にあると言った。(正確には、そういうことばではないが。)これは、ふいに口をついて出たことばであり、「ほんとう」のことである。
一方で、加計学園が獣医学部を新設することを計画していたということを「一月二十日まで知らなかった」と言った。これは意識化されたことば、「嘘」である。嘘を「論理的」に説明するために、安倍は四苦八苦している。あらゆる「仲間」を動員して「記憶にない」と言わせている。「口語」を封印して、「嘘」の整合性をでっちあげようとしている。「嘘」の完成を画策している。
「ほんとう」への返り方を知らない。
林は、知っている。林の描いている父親をはじめ、「集落」の人間はみんな「ほんとう」への返り方を知っている。
これを安倍の答弁にあてはめれば、
ということになるかも。
こういうのが「口語」の納得の仕方。
「おごったり、おごられたりする」と言ってしまった以上、全部「口語」でいわない限り、誰も納得はしない。
一緒に暮らしていない人の「口裏あわせ」は、どんどん亀裂がひろがる。論理的に語ろうとすればするほど嘘が大きくなる。論理の嘘を、ひとは許さない。
林嗣夫『林嗣夫詩集』に『四万十川』の全篇が収録されている。集落の「墓移し」を書いている。「三、豊おじはひょっとしたら」は、こう始まる。
こっちの春おばのところへ行っちょりやせんやろうか
生きちょる時にはようけんかもしよったけんど
ほんとうは仲が良かったがぜ
墓の下で一緒になっちょるかもしれん はは
集落全員で作業をしている。昔の思い出がいろいろまじってくる。こういうとき、「口語」というのは強い。ことばをととのえるのが「肉体」だからである。「欲望」だからである。
「一緒になっちょる」というのは単に隣り合わせにいる、そばにいる、ということではない。一緒に暮らす、つまりセックスもするということだ。これは同時に、生きていたときだって「春おばのところへ行っちょりやせんやろうか」ということでもある。夜這いに出掛けている。こっそりセックスをしている。
それが「事実」かどうかわからないが、いまとなっては「事実」になってしまう。「事実」はとりつくろってもはじまらない。あるがままにしておくしかない。
一方で、こういうこともある。祖父の遺骨がなかなか見つからない。やっと頭蓋骨が見つかる。
筏流しを請け負って失敗し 多くの借財をかかえ込み
酒やら何やらで家族を泣かせ……
いまはひとすくいの空洞である
遺骨を前にして、「過去」がぱっと浮かんでくる。
そのあと、
さあ これじゃあ壺に入らんねえ 割るか
父がくわを取り
手ごころを加えるように降りおろす
ぽこん!
鈍い音がして頭蓋骨はつぶれるように割れた
あの 祖父という不思議な世界はどこにもない
骨の内側に
湿ったわたぼこなのようなものだけをこびりつかせて
これでもか これでもか というように
父は何回もくわをたたきつける
最初は遠慮している。配慮している。死をうやまっている。けれど、違う気持ちもまじってくる。生きているときはできなかったことをしている。うらみ、つらみをぶっつけ始める。
それは父にしかわからないことなのだけれど。
林にもわかってしまう。
父の苦しみ、悲しみがわかってしまう。祖父のために苦労した。それを林は肉体で覚えている。もしかすると林自身も苦労したかもしれない。祖父なんか大嫌いと思ったことがあったかもしれない。
「これでもか これでもか」というのは父の思いであると同時に林の思いでもある。私と私以外のものの「思い」が重なり合う。つながってしまう。それが「家族」というものであり、また小さな「集落」の「生き方」でもある。
そこではすべてが「共存」する。許される。
遺骨をたたき割らないといけない悲しみ、遺骨までたたき割ってしまいたい怒り、苦しみ、怒りを発散する喜び。ことばにしてしまうと、そのすべてが違ったものになってしまうが、入り乱れる思いが「ひとつ」の肉体のなかで動くように、「ひとつ」の暮らしのなかで、そこに生きる人の欲望も論理もからみついて動く。それが「集落」であり、「家族」である。そして、それはそのまま「肉体」なのだ。切り離すと、「いのち」がなくなる。死んでしまう。
だからこそ「墓移し」をするだろう。「死者」をふくめて「肉体」なのである。「ひとつ」なのである。
いまは「ひとつ」の家族でも、ここに書かれている「関係」を生きることがむずかしくなっている。
林の詩には、その土地の「口語(話しことば)」と「書きことば(標準語)」がまじっている。「口語」が「口語」としての自然な力を持っていた最後の時代かもしれない、ということも少し考えた。
いま、林の詩のように「口語」をいきいきと響かせながら「集落」の最後を詩として書き残すことはむずかしいかもしれないとも感じた。
*
私は、ふと、加計学園問題をめぐる安倍の「閉会中審査」での答弁を思うのである。
安倍は加計理事長とは「おごったり、おごられたり」の関係にあると言った。(正確には、そういうことばではないが。)これは、ふいに口をついて出たことばであり、「ほんとう」のことである。
一方で、加計学園が獣医学部を新設することを計画していたということを「一月二十日まで知らなかった」と言った。これは意識化されたことば、「嘘」である。嘘を「論理的」に説明するために、安倍は四苦八苦している。あらゆる「仲間」を動員して「記憶にない」と言わせている。「口語」を封印して、「嘘」の整合性をでっちあげようとしている。「嘘」の完成を画策している。
「ほんとう」への返り方を知らない。
林は、知っている。林の描いている父親をはじめ、「集落」の人間はみんな「ほんとう」への返り方を知っている。
こっちの春おばのところへ行っちょりやせんやろうか
生きちょる時にはようけんかしよったけんど
ほんとうは仲が良かったがぜ
墓の下で一緒になっちょるかもしれん はは
これを安倍の答弁にあてはめれば、
ゴルフ代も食事代も全部おごらせて
あのときは偉そうなに「認可」はまかけておけといっていたが
ほんとうは加計に利用された
いまごろ 必死になって獣医学部の話はしたことがないと言ってくれ と
加計に頭を下げて頼み込んでいるかもしれん ははは
ということになるかも。
こういうのが「口語」の納得の仕方。
「おごったり、おごられたりする」と言ってしまった以上、全部「口語」でいわない限り、誰も納得はしない。
一緒に暮らしていない人の「口裏あわせ」は、どんどん亀裂がひろがる。論理的に語ろうとすればするほど嘘が大きくなる。論理の嘘を、ひとは許さない。
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