伊藤浩子「約束の途上」(「現代詩手帖」2017年07月号)
私は哲学書とか思想書とかいうものを読まない。だからこれから書くことは「無知」が原因の「誤読」ということになるのだろうけれど、書いておきたい。
私には伊藤浩子の書いていることが、さっぱりわからない。
というより、伊藤浩子の書いていることがベンヤミンやその他の哲学者(?)思想家(?)と、どういう関係にあるのかわからない。なぜベンヤミンを引用する? それがわからない。
「現代詩手帖」には鹿島徹との対談があって、そこで伊藤はベンヤミンとの「出会い」を書いているけれど、これも何が書いてあるか、私にはわからなかった。伊藤が鹿島の訳でベンヤミンを読んだということだけしかわからなかった。
どんなふうに、わからないか。「約束の途上」を読むことで書いてみたい。
ベンヤミンの「歴史の概念について テーゼⅡ」(鹿島訳)から次の部分が引用されている。
「歴史の概念について テーゼⅡ」全体を私は知らない。だから、この部だけから何が書いてあるのか、私なりに読むと……。
書き出しの「過去」とは「過去の出来事」ということだろう。
出来事にはさまざまな要素がある。「時/場所/人/もの」が絡み合っている。「出来事」には「出来事」の「意味」があるが、出来事の構成要素の「時」「場所」「人」「もの」にもそれぞれ「意味の領域」というものがある。つまり、他の「時」「場所」「人」「もの」との関係性があり、関係がつくりだす「意味」というものがある。そのすべてが「出来事」の「意味」として明確に語られることは少ない。ことばというのは常に「一部」しか語ることができない。「出来事」にはつねに語り残された「意味の領域」がある。
出来事を構成する「時/場所/人/もの」は、絡み合っているのだけれど、同時にその絡み合い「意味づけ」された「限定」から解き放たれ、再考察されることを待っている。「意味」の問い直し、「歴史」の問い直しといってもいい。それが「時」「場所」「人」「もの」の「個別の意味領域」のあり方として「インデックス」され(印づけられ)ている。もっとも、これは最初から「インデックス」されているというよりも、「いま」から振り返ったときに「インデックス」されているように感じられるということだろう。その感じたものを手がかりに、それぞれの「意味領域」を点検し、それまでの「意味」を解体し、もういちど「意味づけ」しなおす。そうしなければならない「瞬間」がやってくる。それが「いま」ということだろう。
で、最初に書かれていた「過去(の出来事)」は、「過去の人びとを包んでいた空気」と言いなおされている。「空気」と書かれているが、それは「過去」に存在したものすべて、つまり「時/場所/人/もの」などである。
人は誰でも大事なことは言いなおすものである。
「過去の人びとを包んでいた空気」を手がかりに、私は冒頭に書かれていた「過去」をそう読み直した。
「過去の出来事」を構成する「時/場所/人/もの」の、「出来事」を語るときに省略された「意味の領域」、「時の意味の領域」「場の意味の領域」「人の意味の領域」「ものの意味の領域」にある「ひそやかな目印(気になることがら)=インデックスとしてうかびあがるもの」が、「いま」私たちにそっと触れていないだろうか。それを感じ取り、さぐってみる。そうして歴史を見直してみるということをベンヤミンは語っているように考えられる。
このとき「インデックス」というのは、たとえば、その「過去(の出来事)」の周辺で書かれた詩、文学、音楽、芝居、さらには新聞記事などである。「過去(の出来事)」を描写するときにつかわれた具体的なことば、そのひとつひとつの「ことばの意味の領域」が、規制の「過去(の出来事)の意味」を揺さぶるのである。
こういうことは、ベンヤミンに限らず、あらゆる人がやっている。歴史家に限らず、哲学者に限らず、日々の報道でも同じ。卑近な例で言えば、森友学園、加計学園と安倍の関係をめぐる報道などもそうだろう。決定までの背後に何が、どう動いていたか。それぞれの「資料」が語る「意味の領域」が、「いま」を揺さぶる。
ベンヤミンが語っていることを、そんなふうに「誤読」した上で、伊藤の詩を読んでいく。
「忘れされらた夢」は「過去(の出来事)」に対応する。「名のない路」は「インデックス」である。「夢」の「意味の領域」から締め出されたさまざまな存在の「意味の領域」を結びつけるとき(語りはじめる今)、そこから別の「時間」が見える。それは「過去」であると同時に「未来」を「黙示する」。これは、「歴史の法則」である。
「夢(出来事)」を構成するさまざまな存在を、隠されていた「意味の領域」を明るみに出しながら結びつける。これを「出会い損ねた人との再会」と言いなおしているように読むことができる。「歴史」の「脱構築/再構築」ということになる。「幾多の姉たちの声」とは「幾多の構成要素の語られなかった意味領域」と読むことができる。(誤読することができる。)
「あえかな、」というのは「声」にひきかえして修飾することばであり、ベンヤミンの「ひそやかな」に通じることばかもしれない。
この「あえかな、」という一行までは、ベンヤミンの哲学(?)を伊藤が言いなおしたもの(換骨奪胎したもの)と読むことができる。
ところが。
連というのか、章というのかわからないが、次の部分では、ベンヤミンの哲学があとかたもなくなる。
「過去(の出来事)=忘れさられた夢」は「祖父の弟の秘密(出来事)」として語られる。そこには何か新しい「意味」をもとめているものがある。「過去」から解放されて「今」を揺り動かそうとするものがある。
そういうことを語ろうとしている。そう語ろうとしていると「誤読」するとき、ベンヤミンとも、一連目(第一章)とも重なる。
だが。
この一行に私は完全につまずく。
「過去」から「今」へ視点を動かし、「今」を起点にベンヤミンを継承しようとしている「意図」はわかる。わかるけれど、ここで私は思わずものを投げつけたくなる。
問題は「過去(の出来事)」が抱え込んでいる「語られなかった意味の領域」。まず、それに目を向けるのが先だろう。
だいたい、全く知らなかったことを「唐突」に言われて、「どうして、今なの?」と問いかける人間がいるだろうか。たとえ「今、思い出した」と相手が言ったとしても。「いま、何て言った? それ何のこと?」と思うのがふつうだろう。いきなり「どうして、今思い出したの?」などと聞く神経がわからない。
ベンヤミンが省略した「今」ということば、伊藤が補った「今」を強調したくて、そうなったのだろうが、こういう「補足」の仕方も、私にはさっぱりわからない。
ベンヤミンが、
と書くとき、それは
という意味である。伊藤が補わなくても、わかりきっている。ベンヤミンが「今」を省略したのは、「今」こそがベンヤミンのキーワードだからだろう。彼の「肉体(思想)」にしっかり染みついている。書いていないのは、彼いつでも「いま」何をするかということを問題にしているからではないのか。「いま」こそが彼のテーマであるとわかりきっているから、「いま」ということばを書かない。ベンヤミンは「歴史」の研究家ではなく「現在の思想家」ではないのか。
伊藤の詩はこのあと、もう一連(一章)ある。
それは引用しなくても想像できると思う。「過去(の出来事)」である。それが「物語」として語られる。そこに語られる「時/場所/ひと/もの」は「新しい意味の領域」のなかに解放されるのではなく、知り尽くされた(語り尽くされた)「物語(通俗的意味)」へと収斂していく。
なぜ、伊藤はベンヤミンを引用しながら、こういう詩を書いたのか。
私はベンヤミンを伊藤が引用しているものしか読んでいないが、これでは、ベンヤミンの思想を裏切っているではないか、と思ってしまう。
ベンヤミンというのは、「いま」を「語り尽くされた意味の物語」でとらえる哲学者とは、私には思えない。だから、伊藤の書いていることはわからないとしか言いようがない。
私は哲学書とか思想書とかいうものを読まない。だからこれから書くことは「無知」が原因の「誤読」ということになるのだろうけれど、書いておきたい。
私には伊藤浩子の書いていることが、さっぱりわからない。
というより、伊藤浩子の書いていることがベンヤミンやその他の哲学者(?)思想家(?)と、どういう関係にあるのかわからない。なぜベンヤミンを引用する? それがわからない。
「現代詩手帖」には鹿島徹との対談があって、そこで伊藤はベンヤミンとの「出会い」を書いているけれど、これも何が書いてあるか、私にはわからなかった。伊藤が鹿島の訳でベンヤミンを読んだということだけしかわからなかった。
どんなふうに、わからないか。「約束の途上」を読むことで書いてみたい。
ベンヤミンの「歴史の概念について テーゼⅡ」(鹿島訳)から次の部分が引用されている。
過去にはひそやかな牽引(インデックス)が付され、解き放たれるようにと指示されているのである。過去の人びとを包んでいた空気のそよぎが、わたしたち自身にそっと触れているのではないだろうか。
「歴史の概念について テーゼⅡ」全体を私は知らない。だから、この部だけから何が書いてあるのか、私なりに読むと……。
書き出しの「過去」とは「過去の出来事」ということだろう。
出来事にはさまざまな要素がある。「時/場所/人/もの」が絡み合っている。「出来事」には「出来事」の「意味」があるが、出来事の構成要素の「時」「場所」「人」「もの」にもそれぞれ「意味の領域」というものがある。つまり、他の「時」「場所」「人」「もの」との関係性があり、関係がつくりだす「意味」というものがある。そのすべてが「出来事」の「意味」として明確に語られることは少ない。ことばというのは常に「一部」しか語ることができない。「出来事」にはつねに語り残された「意味の領域」がある。
出来事を構成する「時/場所/人/もの」は、絡み合っているのだけれど、同時にその絡み合い「意味づけ」された「限定」から解き放たれ、再考察されることを待っている。「意味」の問い直し、「歴史」の問い直しといってもいい。それが「時」「場所」「人」「もの」の「個別の意味領域」のあり方として「インデックス」され(印づけられ)ている。もっとも、これは最初から「インデックス」されているというよりも、「いま」から振り返ったときに「インデックス」されているように感じられるということだろう。その感じたものを手がかりに、それぞれの「意味領域」を点検し、それまでの「意味」を解体し、もういちど「意味づけ」しなおす。そうしなければならない「瞬間」がやってくる。それが「いま」ということだろう。
で、最初に書かれていた「過去(の出来事)」は、「過去の人びとを包んでいた空気」と言いなおされている。「空気」と書かれているが、それは「過去」に存在したものすべて、つまり「時/場所/人/もの」などである。
人は誰でも大事なことは言いなおすものである。
「過去の人びとを包んでいた空気」を手がかりに、私は冒頭に書かれていた「過去」をそう読み直した。
「過去の出来事」を構成する「時/場所/人/もの」の、「出来事」を語るときに省略された「意味の領域」、「時の意味の領域」「場の意味の領域」「人の意味の領域」「ものの意味の領域」にある「ひそやかな目印(気になることがら)=インデックスとしてうかびあがるもの」が、「いま」私たちにそっと触れていないだろうか。それを感じ取り、さぐってみる。そうして歴史を見直してみるということをベンヤミンは語っているように考えられる。
このとき「インデックス」というのは、たとえば、その「過去(の出来事)」の周辺で書かれた詩、文学、音楽、芝居、さらには新聞記事などである。「過去(の出来事)」を描写するときにつかわれた具体的なことば、そのひとつひとつの「ことばの意味の領域」が、規制の「過去(の出来事)の意味」を揺さぶるのである。
こういうことは、ベンヤミンに限らず、あらゆる人がやっている。歴史家に限らず、哲学者に限らず、日々の報道でも同じ。卑近な例で言えば、森友学園、加計学園と安倍の関係をめぐる報道などもそうだろう。決定までの背後に何が、どう動いていたか。それぞれの「資料」が語る「意味の領域」が、「いま」を揺さぶる。
ベンヤミンが語っていることを、そんなふうに「誤読」した上で、伊藤の詩を読んでいく。
忘れさられた夢が やっと
語りはじめた今につうじている
名のない路をここに記そう
星座をひらいた夜々をおりこみ
未来さえ黙示する
出会い損ねたひととの再会を
幾多の姉たちの声を導に
未だもとめつづけている
あえかな、
(やがてこの声も
(妹たちの砧骨に触れる予兆に
「忘れされらた夢」は「過去(の出来事)」に対応する。「名のない路」は「インデックス」である。「夢」の「意味の領域」から締め出されたさまざまな存在の「意味の領域」を結びつけるとき(語りはじめる今)、そこから別の「時間」が見える。それは「過去」であると同時に「未来」を「黙示する」。これは、「歴史の法則」である。
「夢(出来事)」を構成するさまざまな存在を、隠されていた「意味の領域」を明るみに出しながら結びつける。これを「出会い損ねた人との再会」と言いなおしているように読むことができる。「歴史」の「脱構築/再構築」ということになる。「幾多の姉たちの声」とは「幾多の構成要素の語られなかった意味領域」と読むことができる。(誤読することができる。)
「あえかな、」というのは「声」にひきかえして修飾することばであり、ベンヤミンの「ひそやかな」に通じることばかもしれない。
この「あえかな、」という一行までは、ベンヤミンの哲学(?)を伊藤が言いなおしたもの(換骨奪胎したもの)と読むことができる。
ところが。
連というのか、章というのかわからないが、次の部分では、ベンヤミンの哲学があとかたもなくなる。
そういえば、と女の言葉はいつだって唐突だった。(略)
「母方の祖父の弟ね、些か風変りで、でも母も私も大好きだった。戦後、数年
間収容所にいて、帰国してから二度結婚して、二度離婚した。三年前に亡く
なったんだけれど、その人から、ある人に渡して欲しいと、託されたものが
あったの。彼もずっと忘れていたらしいんだけれど。今、思い出した」
「どうして、今なの?」、男の声は眠気のせいでくぐもっていた。
「分からない、あなたの青褪めた横顔を見ていたらふいに思い出したの」
「過去(の出来事)=忘れさられた夢」は「祖父の弟の秘密(出来事)」として語られる。そこには何か新しい「意味」をもとめているものがある。「過去」から解放されて「今」を揺り動かそうとするものがある。
そういうことを語ろうとしている。そう語ろうとしていると「誤読」するとき、ベンヤミンとも、一連目(第一章)とも重なる。
だが。
「どうして、今なの?」、男の声は眠気のせいでくぐもっていた。
この一行に私は完全につまずく。
「過去」から「今」へ視点を動かし、「今」を起点にベンヤミンを継承しようとしている「意図」はわかる。わかるけれど、ここで私は思わずものを投げつけたくなる。
問題は「過去(の出来事)」が抱え込んでいる「語られなかった意味の領域」。まず、それに目を向けるのが先だろう。
だいたい、全く知らなかったことを「唐突」に言われて、「どうして、今なの?」と問いかける人間がいるだろうか。たとえ「今、思い出した」と相手が言ったとしても。「いま、何て言った? それ何のこと?」と思うのがふつうだろう。いきなり「どうして、今思い出したの?」などと聞く神経がわからない。
ベンヤミンが省略した「今」ということば、伊藤が補った「今」を強調したくて、そうなったのだろうが、こういう「補足」の仕方も、私にはさっぱりわからない。
ベンヤミンが、
過去の人びとを包んでいた空気のそよぎが、わたしたち自身にそっと触れているのではないだろうか。
と書くとき、それは
過去の人びとを包んでいた空気のそよぎが、「今」わたしたち自身にそっと触れているのではないだろうか。
という意味である。伊藤が補わなくても、わかりきっている。ベンヤミンが「今」を省略したのは、「今」こそがベンヤミンのキーワードだからだろう。彼の「肉体(思想)」にしっかり染みついている。書いていないのは、彼いつでも「いま」何をするかということを問題にしているからではないのか。「いま」こそが彼のテーマであるとわかりきっているから、「いま」ということばを書かない。ベンヤミンは「歴史」の研究家ではなく「現在の思想家」ではないのか。
伊藤の詩はこのあと、もう一連(一章)ある。
それは引用しなくても想像できると思う。「過去(の出来事)」である。それが「物語」として語られる。そこに語られる「時/場所/ひと/もの」は「新しい意味の領域」のなかに解放されるのではなく、知り尽くされた(語り尽くされた)「物語(通俗的意味)」へと収斂していく。
なぜ、伊藤はベンヤミンを引用しながら、こういう詩を書いたのか。
私はベンヤミンを伊藤が引用しているものしか読んでいないが、これでは、ベンヤミンの思想を裏切っているではないか、と思ってしまう。
ベンヤミンというのは、「いま」を「語り尽くされた意味の物語」でとらえる哲学者とは、私には思えない。だから、伊藤の書いていることはわからないとしか言いようがない。
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