野村喜和夫『デジャヴュ街道』(思潮社、2017年06月30日発行)
野村喜和夫『デジャヴュ街道』について、私は何を書くことができるだろうか。
読みやすいか、読みにくいか。私には、読みやすい。なぜか。ことばにリズムがある。ただし、これは私と野村の年齢が近いから感じることなのかもしれない。どの年代にも、その年代が育ったときのリズムというものがある。それが共通しているから読みやすいと感じるだけなのかもしれない。
こう書くとき、私は、最近の若い世代のことばのリズムと対比している。私は若い世代のことばのリズムにまったくついていけないときがある。読んでいてつまずく。
でも、その野村の「リズム」のなかにも、いやなものがある。いやだけれど「わかる」ものがある。そのことについて書こうと思う。
「平滑ロード」の書き出し。
「いまにも」はまだ我慢できる。でも「あわれ」「いやはての」には、私は我慢ができない。音が上滑りになる。音が「ことば」にたどりつく前に、音のまま消えてしまう。リズムだけが残る。
どんなことばにも「意味領域」というものがある。たとえば「あわれ」ということば。私は三好達治の詩「甃のうへ」を思い出してしまう。
あとは忘れたが、こういう詩だったと思う。それは教科書に載っていた。
「あわれ/あはれ」のほんとう(あるいは辞書に書かれている)の意味は私は知らないが、「あはれ」が「花びら」や「をみなご」と結びつく形で「意味」をつくっていることを思い出す。そしてそれは「ながれ(る)」という動詞とも結びついている。「花びら」「をみなご」「ながれる」を「同じ」と感じさせるものがある。その「同じ」を私は「意味領域」と呼んでいる。そういうものが「あわれ」ということばといっしょに動く。これは、私や野村の世代に、たぶん、共通していると思う。
そして、それは「黙読」のことばとして知っているのではなく、「耳」で聞いたものとして知っている。
国語の時間に「甃のうへ」を読んだ記憶がある。級友が声に出して読むのを聞いた(聞かされた)記憶がある。「あはれ」の「意味」なんかいちいち考えない。ただ「音」として聞き、それが「肉体」の奥に残っていて、「あはれ/あわれ」ということばを聞くたびに揺れ動く。「意味」にならない前に、なんとなく「こんな感じ」の「感じ」のままに動く。
それがそのまま、野村の詩を読んでいるときにも起きる。
「いやはての」というのは具体的には思い出せないが、「いちばん果」というときとは違った一種の「時代」の匂いがある。いまの若い人が「いやはて」というのを実際に聞いて知っているかどうか、私は知らないが、私たちの世代は、どこかで聞いている。テレビの時代劇とか。
「意味」が特定されないまま、「音」として流れていく。
いわば、これは「枕詞」に近い。「枕詞」にはきちんと「意味」があるだろうけれど、そのことばの「語源」もあるだろうけれど、だんだんこの「枕詞」は特定のことばを引き出すための「音」という感じになってしまう。「あしびきの」は「山」を呼び出すための「音」。言い換えると「リズム」。その「リズム」が次のことばを呼び出す。呼び出してしまえば「枕詞」は消えていく。--とは言えないかもしれないけれど。
まあ、なんとなく、そんな感じ。
「いまにも」は「……する」、「あわれ」は「馬/牛(家畜)」、「いやはて」は「骸骨」の、「枕詞」。そして、「枕詞」であるかぎりは、そこに「意味領域」がある。
こう言いなおせばいいのかもしれない。
で。
ここから私は、とんでもなく飛躍する。逸脱するのだが。
この私が書いた「意味領域」というのは、一種の「概念」をあらわしている。「もの」というよりも「意識」というものを代弁している。
野村は『哲学の骨、詩の肉』でランボーの「Je est un autre 」とネルヴァルの「Je suis l'autre 」について書いていた。そこに書かれていることは、私には理解できないことがらだったが……。野村の書いていることを通して私が考えたのは「不定冠詞」と「定冠詞」の違いである。
端折って言うと。
「定冠詞」をつけてことばをつかうとき、そのあとに出てくる「名詞」も「もの」ではなく、むしろ「概念/観念」である、というのが私の理解である。日本語には「不定冠詞」「定冠詞」というものがないから、「もの」と「概念/観念」がごちゃごちゃになるが、きっと「定冠詞」「不定冠詞」をつかいわける国語の人は、このあたりが明確に区別されると思う。
「定冠詞」がないかわりに、それでは日本語はどうやって「もの」をある種の「概念/観念(意味領域)」と結びつける。
「枕詞」がそういう働きをすると思う。
また、指示詞「その、この、あの」もそういう働きをすると思う。その指示詞を、私は
の、「その」に感じる。
この作品(詩行)では、「その」は「馬」「牛」「哺乳類」「骸骨」のすべてをひっつかんで「その首」という形で動いている。「定冠詞+首」なのである。言い換えると、「不定冠詞+首」=「初めて見る首(何の首かわからない首)」ではない。意識が絡みついている。
この「無意識の定冠詞」としての「その」のつかい方。
これが、また、私たちの世代の特徴であるとも思う。「その」を「定冠詞」として巧みに活用する詩人に荒川洋治がいる。具体的に引用できないが、荒川の書くことばには「定冠詞」の意識がしみこんだ「指示詞」がふんだんに登場してくる。それが「意味」(概念/観念)を非常になめらかに動かしている。
たぶん外国語(英語)教育が「義務教育」に定着したという、あるいは「翻訳文体」を「翻訳文体」と意識せずに教えられた世代なのだと思う。無意識に「定冠詞」をどうつかうかということを身につけた世代なのだと思う。
あ、書いていることがどんどん脱線するが。
この「その=定冠詞」(概念をひきつれてくることば/意味領域に書いた人の思いがからんでいることば)という点から、先に引用した三好達治の詩を振り返ってみる。
ここには「その」がない。あえて補えば、
である。英訳(仏訳)がどうなるかわからないが、きっと1行目の「花びら」は不定冠詞、2行目の「をみなご」も不定冠詞。しかし2行目の「花びら」は定冠詞、3行目の「をみなご」は定冠詞つきになる。「詩」は、また違うかもしれないが、意味をとるために「散文」でかけばきっとそうなる。
だから、もし、三好達治が「平滑ロード」を書いたとしたら、
には「その」とは書かない。そう思う。「文体」が違うのである。
あ、また脱線してしまったか。
最初に戻る。
野村の詩は、私にはとても読みやすく感じる。それは「リズム」が読みやすいからであり、その「リズム」というのはきっと年齢が近いということが影響しているんだろうなあと思う。それぞれの「ことば」がもっている「意味領域」に重なる部分が多い。「意味領域」を重ね合わせるときの、無意識の「方法(文体)」が近い。「観念/概念」の動かし方に「世代の流行(?)」のようなものがある、ということかもしれない。
と、テキトウなことを書いて、おしまい。
野村喜和夫『デジャヴュ街道』について、私は何を書くことができるだろうか。
読みやすいか、読みにくいか。私には、読みやすい。なぜか。ことばにリズムがある。ただし、これは私と野村の年齢が近いから感じることなのかもしれない。どの年代にも、その年代が育ったときのリズムというものがある。それが共通しているから読みやすいと感じるだけなのかもしれない。
こう書くとき、私は、最近の若い世代のことばのリズムと対比している。私は若い世代のことばのリズムにまったくついていけないときがある。読んでいてつまずく。
でも、その野村の「リズム」のなかにも、いやなものがある。いやだけれど「わかる」ものがある。そのことについて書こうと思う。
「平滑ロード」の書き出し。
骨のカントー、
肉のカントー、
いまにも疾駆する姿勢で、
あわれ、馬でも牛でもない、
いやはての哺乳類の骸骨の、
その首から上が、
西北西へそこを出ようとしている、
「いまにも」はまだ我慢できる。でも「あわれ」「いやはての」には、私は我慢ができない。音が上滑りになる。音が「ことば」にたどりつく前に、音のまま消えてしまう。リズムだけが残る。
どんなことばにも「意味領域」というものがある。たとえば「あわれ」ということば。私は三好達治の詩「甃のうへ」を思い出してしまう。
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
あとは忘れたが、こういう詩だったと思う。それは教科書に載っていた。
「あわれ/あはれ」のほんとう(あるいは辞書に書かれている)の意味は私は知らないが、「あはれ」が「花びら」や「をみなご」と結びつく形で「意味」をつくっていることを思い出す。そしてそれは「ながれ(る)」という動詞とも結びついている。「花びら」「をみなご」「ながれる」を「同じ」と感じさせるものがある。その「同じ」を私は「意味領域」と呼んでいる。そういうものが「あわれ」ということばといっしょに動く。これは、私や野村の世代に、たぶん、共通していると思う。
そして、それは「黙読」のことばとして知っているのではなく、「耳」で聞いたものとして知っている。
国語の時間に「甃のうへ」を読んだ記憶がある。級友が声に出して読むのを聞いた(聞かされた)記憶がある。「あはれ」の「意味」なんかいちいち考えない。ただ「音」として聞き、それが「肉体」の奥に残っていて、「あはれ/あわれ」ということばを聞くたびに揺れ動く。「意味」にならない前に、なんとなく「こんな感じ」の「感じ」のままに動く。
それがそのまま、野村の詩を読んでいるときにも起きる。
「いやはての」というのは具体的には思い出せないが、「いちばん果」というときとは違った一種の「時代」の匂いがある。いまの若い人が「いやはて」というのを実際に聞いて知っているかどうか、私は知らないが、私たちの世代は、どこかで聞いている。テレビの時代劇とか。
「意味」が特定されないまま、「音」として流れていく。
いわば、これは「枕詞」に近い。「枕詞」にはきちんと「意味」があるだろうけれど、そのことばの「語源」もあるだろうけれど、だんだんこの「枕詞」は特定のことばを引き出すための「音」という感じになってしまう。「あしびきの」は「山」を呼び出すための「音」。言い換えると「リズム」。その「リズム」が次のことばを呼び出す。呼び出してしまえば「枕詞」は消えていく。--とは言えないかもしれないけれど。
まあ、なんとなく、そんな感じ。
「いまにも」は「……する」、「あわれ」は「馬/牛(家畜)」、「いやはて」は「骸骨」の、「枕詞」。そして、「枕詞」であるかぎりは、そこに「意味領域」がある。
こう言いなおせばいいのかもしれない。
で。
ここから私は、とんでもなく飛躍する。逸脱するのだが。
この私が書いた「意味領域」というのは、一種の「概念」をあらわしている。「もの」というよりも「意識」というものを代弁している。
野村は『哲学の骨、詩の肉』でランボーの「Je est un autre 」とネルヴァルの「Je suis l'autre 」について書いていた。そこに書かれていることは、私には理解できないことがらだったが……。野村の書いていることを通して私が考えたのは「不定冠詞」と「定冠詞」の違いである。
端折って言うと。
「定冠詞」をつけてことばをつかうとき、そのあとに出てくる「名詞」も「もの」ではなく、むしろ「概念/観念」である、というのが私の理解である。日本語には「不定冠詞」「定冠詞」というものがないから、「もの」と「概念/観念」がごちゃごちゃになるが、きっと「定冠詞」「不定冠詞」をつかいわける国語の人は、このあたりが明確に区別されると思う。
「定冠詞」がないかわりに、それでは日本語はどうやって「もの」をある種の「概念/観念(意味領域)」と結びつける。
「枕詞」がそういう働きをすると思う。
また、指示詞「その、この、あの」もそういう働きをすると思う。その指示詞を、私は
その首から上が、
の、「その」に感じる。
この作品(詩行)では、「その」は「馬」「牛」「哺乳類」「骸骨」のすべてをひっつかんで「その首」という形で動いている。「定冠詞+首」なのである。言い換えると、「不定冠詞+首」=「初めて見る首(何の首かわからない首)」ではない。意識が絡みついている。
この「無意識の定冠詞」としての「その」のつかい方。
これが、また、私たちの世代の特徴であるとも思う。「その」を「定冠詞」として巧みに活用する詩人に荒川洋治がいる。具体的に引用できないが、荒川の書くことばには「定冠詞」の意識がしみこんだ「指示詞」がふんだんに登場してくる。それが「意味」(概念/観念)を非常になめらかに動かしている。
たぶん外国語(英語)教育が「義務教育」に定着したという、あるいは「翻訳文体」を「翻訳文体」と意識せずに教えられた世代なのだと思う。無意識に「定冠詞」をどうつかうかということを身につけた世代なのだと思う。
あ、書いていることがどんどん脱線するが。
この「その=定冠詞」(概念をひきつれてくることば/意味領域に書いた人の思いがからんでいることば)という点から、先に引用した三好達治の詩を振り返ってみる。
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
ここには「その」がない。あえて補えば、
あはれ花びらながれ
をみなごに「その」花びらながれ
「その」をみなごしめやかに語らひあゆみ
である。英訳(仏訳)がどうなるかわからないが、きっと1行目の「花びら」は不定冠詞、2行目の「をみなご」も不定冠詞。しかし2行目の「花びら」は定冠詞、3行目の「をみなご」は定冠詞つきになる。「詩」は、また違うかもしれないが、意味をとるために「散文」でかけばきっとそうなる。
だから、もし、三好達治が「平滑ロード」を書いたとしたら、
その首から上が、
には「その」とは書かない。そう思う。「文体」が違うのである。
あ、また脱線してしまったか。
最初に戻る。
野村の詩は、私にはとても読みやすく感じる。それは「リズム」が読みやすいからであり、その「リズム」というのはきっと年齢が近いということが影響しているんだろうなあと思う。それぞれの「ことば」がもっている「意味領域」に重なる部分が多い。「意味領域」を重ね合わせるときの、無意識の「方法(文体)」が近い。「観念/概念」の動かし方に「世代の流行(?)」のようなものがある、ということかもしれない。
と、テキトウなことを書いて、おしまい。
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