『まど・みちお詩集』(谷川俊太郎編)(岩波書店、2017年06月16日発行)
まど・みちおの詩は知っている。しかし、私は読んだことがなかった。
読みながら思ったことは、他の人は、この詩集をどうよむのだろうか、ということ。
たとえば、有名な「ぞうさん」。
最初の「ぞうさん/ぞうさん」というのは誰のことばなのだろう。動物園で象を見た子どもの声なのか。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は、問いかけられた象の子どものことばだろうか。
しかし、私は、一度もそう感じたことがない。
私は、これを「子守歌」のように感じてしまう。
母親の象が、子どもの象を寝かせつけながら歌を歌う。「おはながながい」のが「ぞう」の特徴なんだよ、と教えている。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は「ほら、みてごらん、かあさんの鼻も長いでしょ? あなたと同じだよ」と言い聞かせている感じ。自分を愛することを教えていると言えばいいのかなあ。
これは、ふつうはやはり動物園に来た子どもが問いかけているように読むのかもしれない。あるいは子どもをつれてきた母親が、子どもの象に問いかけているとも読むことができる。
でも、私はここでも母親象が、子象に語りかけているような気がする。
子象は、まだ話せない。だからかわりに母親が語る。「あのね/かあさんがすきなのよ」と言うとき、その母親象は「あのね/あなたのことがいちばん好きなのよ」と言っている感じ。
どちらも重要(?)なのは、子象がまだ語ることができないということ。ことばを聞くだけということ。母親は子どもに、ことばを教えている。あるいはものの見方を教えている。そういう「気持ち」はないかもしれないけれど、まあ、本能として、教えている。それは、子どもにこんなふうに育ってほしいという「こころ」を語りかけるという感じかなあ。
かあさんも、あなたも、同じ。同じように鼻が長い。だから「親子」。そして、同じであることが「好き」。「好き」ということは言わなくてもわかることだけれど、「好き」と言った方がうれしいよ。楽しくなるよ、と語りかけている。「好き」と言われたことがない子どもは「好き」と言うことができないかもしれない。「好き」と言われつづけた子どもは、きっと「好き」ということばを自然に語る。
そんなことを願いながら、「子守歌」のように歌っている。
何と言えばいいのか、よくわからないが、まどは「対象」(象)を書きながら、対象書いていない。
「対象」になっている。
私が「子ぞう」になってしまうから、そういうことを感じるのかもしれない。まどの詩には、私を「書かれた対象」にしてしまう不思議な力がある。
*
谷川俊太郎は解説というのだろうか、あとがき風の文章「なんでもないこと」のなかで、
と書いている。「言葉以前の<存在>をとらえようとする」というのは谷川についてもあてはまるから、谷川はここでは谷川自身のことも語っていることになる。
で、その「言葉以前」にこだわっていうと。
「言葉以前の<存在>」というのは、「象」が「象」になる前の存在。象の親子がいる。その「親子」の感じのなかで、まどが象になって生まれてくる。そこに描かれているのは「象」であるけれど、「象」ではなく「愛」。「愛」をくぐって「象」になって生まれてくる。
キリンでも、ゴリラでも、犬でもいい。
ほら、まだことばを知らない(話せない)子どもの象にむかって「ぞうさん/ぞうさん」と母親が語りかけている(歌っている)と、だんだん「子ぞう」が「子ぞう」としてあらわれてくる。それって、自分が「子ぞう」になるようで、楽しくない?
あ、自分もこうやってことばを覚えたのかもしれないなあ、とうれしくなる。
「言葉以前の<存在>」というのは、正確にはあてはまらないのだけれど。
「言葉以前の<愛>」と言ってしまうと、母親の方には<愛>は最初からあるから違うのかもしれないけれど。でも子ども(子象)の方には、たぶん<愛>はまだない。生きる本能、欲望があるだけだろうと思う。その本能の形を整えるのが<愛>。
<愛>ということばをつかわず、<愛>を伝える。「言葉以前の<愛の存在>」を伝えるというと、なんだかややこしくなるんだけれど。
あ、ちょっと書きすぎたかもしれない。
「ぞうさん」に引き返して言うと、母親が子どもにむかって「大好き」と言い、子どもは「大好き」ということばを聞きながら人間(子ぞう)として生まれてくる。こういう生き方は誰もがしていること、「なんでもないこと」なんだけれど、とても大事。こういう「なんでもない大事なこと」が「思想」だと思う。
まど・みちおの詩は知っている。しかし、私は読んだことがなかった。
読みながら思ったことは、他の人は、この詩集をどうよむのだろうか、ということ。
たとえば、有名な「ぞうさん」。
ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ
最初の「ぞうさん/ぞうさん」というのは誰のことばなのだろう。動物園で象を見た子どもの声なのか。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は、問いかけられた象の子どものことばだろうか。
しかし、私は、一度もそう感じたことがない。
私は、これを「子守歌」のように感じてしまう。
母親の象が、子どもの象を寝かせつけながら歌を歌う。「おはながながい」のが「ぞう」の特徴なんだよ、と教えている。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は「ほら、みてごらん、かあさんの鼻も長いでしょ? あなたと同じだよ」と言い聞かせている感じ。自分を愛することを教えていると言えばいいのかなあ。
ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ
これは、ふつうはやはり動物園に来た子どもが問いかけているように読むのかもしれない。あるいは子どもをつれてきた母親が、子どもの象に問いかけているとも読むことができる。
でも、私はここでも母親象が、子象に語りかけているような気がする。
子象は、まだ話せない。だからかわりに母親が語る。「あのね/かあさんがすきなのよ」と言うとき、その母親象は「あのね/あなたのことがいちばん好きなのよ」と言っている感じ。
どちらも重要(?)なのは、子象がまだ語ることができないということ。ことばを聞くだけということ。母親は子どもに、ことばを教えている。あるいはものの見方を教えている。そういう「気持ち」はないかもしれないけれど、まあ、本能として、教えている。それは、子どもにこんなふうに育ってほしいという「こころ」を語りかけるという感じかなあ。
かあさんも、あなたも、同じ。同じように鼻が長い。だから「親子」。そして、同じであることが「好き」。「好き」ということは言わなくてもわかることだけれど、「好き」と言った方がうれしいよ。楽しくなるよ、と語りかけている。「好き」と言われたことがない子どもは「好き」と言うことができないかもしれない。「好き」と言われつづけた子どもは、きっと「好き」ということばを自然に語る。
そんなことを願いながら、「子守歌」のように歌っている。
何と言えばいいのか、よくわからないが、まどは「対象」(象)を書きながら、対象書いていない。
「対象」になっている。
私が「子ぞう」になってしまうから、そういうことを感じるのかもしれない。まどの詩には、私を「書かれた対象」にしてしまう不思議な力がある。
*
谷川俊太郎は解説というのだろうか、あとがき風の文章「なんでもないこと」のなかで、
言葉以前の<存在>をとらえようとするまどさん ( 347ページ)
と書いている。「言葉以前の<存在>をとらえようとする」というのは谷川についてもあてはまるから、谷川はここでは谷川自身のことも語っていることになる。
で、その「言葉以前」にこだわっていうと。
「言葉以前の<存在>」というのは、「象」が「象」になる前の存在。象の親子がいる。その「親子」の感じのなかで、まどが象になって生まれてくる。そこに描かれているのは「象」であるけれど、「象」ではなく「愛」。「愛」をくぐって「象」になって生まれてくる。
キリンでも、ゴリラでも、犬でもいい。
ほら、まだことばを知らない(話せない)子どもの象にむかって「ぞうさん/ぞうさん」と母親が語りかけている(歌っている)と、だんだん「子ぞう」が「子ぞう」としてあらわれてくる。それって、自分が「子ぞう」になるようで、楽しくない?
あ、自分もこうやってことばを覚えたのかもしれないなあ、とうれしくなる。
「言葉以前の<存在>」というのは、正確にはあてはまらないのだけれど。
「言葉以前の<愛>」と言ってしまうと、母親の方には<愛>は最初からあるから違うのかもしれないけれど。でも子ども(子象)の方には、たぶん<愛>はまだない。生きる本能、欲望があるだけだろうと思う。その本能の形を整えるのが<愛>。
<愛>ということばをつかわず、<愛>を伝える。「言葉以前の<愛の存在>」を伝えるというと、なんだかややこしくなるんだけれど。
あ、ちょっと書きすぎたかもしれない。
「ぞうさん」に引き返して言うと、母親が子どもにむかって「大好き」と言い、子どもは「大好き」ということばを聞きながら人間(子ぞう)として生まれてくる。こういう生き方は誰もがしていること、「なんでもないこと」なんだけれど、とても大事。こういう「なんでもない大事なこと」が「思想」だと思う。
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