監督 ホセ・ルイス・ゲリン 出演 ラファエレ・ピント、エマヌエラ・フォルゲッタ、ロサ・デロール・ムンス、ミレイア・イニエスタ、パトリシア・ヒル
ちょっとめんどうくさい映画である。何がめんどうかというと、ことばがめんどう。「意味」がありすぎる。ダンテの「神曲」をテーマに、インスピレーションを与える存在(ミューズ、女性)とインスピレーションを受け「芸術」をつくる存在(詩人、男)について語り合うのだが、現実の存在と芸術は相互に交渉し合うので、じっさいのことろ「境界線」を設定しにくい。その「境界線」の設定しにくい部分を、男(ラファエレ・ピント)と女性の学生が綱渡りしていく。それも「思っている」ことを懸命に「ことば」にしながら。「思っていること」がすべて「ことば」になるわけではないのだが、哲学が主題なので、「ことば」だけが「思っていること」になっていく。でも、その「ことば」(思っていること)のまわりには、どんどん「ことばにならない思い」も増えてくる。「ことば」によって「世界」が明晰になっていくのか、あるいは「ことば」によって「世界」が不透明になっていくのか……。
これが、スペイン語とイタリア語を混在したまま進んでゆく。さらにイタリアの方言まで侵入してくる。ことばが違えば、現実も違ってくる。そのことが、さらに映画の中の世界を混沌としたものにする。その混沌が、美しいという不思議な現象も起きるから、なおややこしい。
いろいろ特徴的な映像とシーンがあるが、興味深いのは主人公(教授)と妻との対話。教授の家にいるのだが、手前に妻、奥に夫。妻の手前に、「ガラス」がある。窓? しきり? 何かわからないが、カメラは二人を直接写さない。ガラスに何かが映って反射している。それが二人の映像を、透明だけれど不鮮明にする。
これは主人公と女性の生徒とのデート(?)でも頻繁に起きる。車のなかで対話している。それをフロントガラス越しに映し出す。フロントガラスには風景が映り込む。ときにはフロントガラスの反射のために二人の表情が見えない。
こうしたなかで、男(教授)は、まあ、いい加減なことをいいますねえ。ミューズから刺戟を受けて、そのつどかわっていく、新しい「芸術」のなかに突き進んでゆくと言えばかっこいいけれど、簡単に言うと女を自分のものにしたくて「ことば」をかえていくと言った方がいい。新しいスタイルのナンパ。言い寄ってくる(?)女の方も、まあ、男によって「ことば」をかえるんだけれどね。
で、こうしたことって、つまり「恋愛」って、結局「社交」というか、「都会」のものなんだなあ、と思わせておいて。
映画は一転、別なものも描く。イタリアのナントカカントカという島。そこへ主人公は女をつれて旅行に行く。フィールドワークというとかっこいいが、まあ、手短な浮気旅行。そこで、女は羊飼いにあう。教授とはぜんぜん違う男。これに引きつけられていく。ここが、なんとも美しい。
すべてが美しく輝いている。
羊飼いが3人で歌うコーラスがある。羊の声のよう。実際、羊の声をまねている部分もあるのだが。ハーモニーがそのまま「世界」になる。「ことば」ではなく「ことば以前の音」が「世界」を震わせる。このコーラスによって、女の耳が覚醒する。新しい女が生まれてくる。彼女自身の「肉体」のなかから、あるいは「肉体」のなかへ、という奇妙な言い方をした方が正しいかもしれない。
耳をすませば、まわりにはいろいろな音がある。小鳥の声だけではなく、木々の梢をわたる風の音も。男がその「音」の存在を知らせる。その、いままで聞いたことのない「音」そのものを「肉体」のなかにいれていくことで、女の「肉体」が官能に開いていく。実際にセックスが描かれるわけではないが、性交シーンよりもエロチックである。見上げる空の高みで揺れる木の葉は女の恥毛である。男の指は風になって、それを渡っていく。
ここでは羊飼いという「自然」が、都会の女の「ミューズ」になる。男女が逆転する。「自然の男(ことばをあやつらない男)」が女の「肉体」を詩そのものにかえる。「肉体」のなかの、耳の変化が、つぎつぎに他の器官につたわってゆき、その微妙な変化が美しさとなってひろがる。
その島の方言には「アモール(愛する)」ということばがないと男は言う。女は「ではこの島では男と女は愛し合わないのか」というよう挑発もする。このときも、男が「ミューズ」である。教授はいっしょに旅行しているのだが、いわば「寝取られ男」である。
で。
この男と女、詩人とミューズの「逆転」が、最後におもしろい展開を見せる。
男(教授)の方は、あいかわらず女たらしに過ぎないのだが、女の方は男から得たインスピレーションによって詩人になっていく。「現実」を「写す鏡」なのだが、その「鏡」にはいままでと違った「世界」が映るのである。
最後に、妻はひとりの女性学生と向き合う。妻にとって夫は、女たらしではあるけれど、けっきょく自分のところへ戻ってくるばかな男だったはずである。つまり、妻はいつまでたっても「ミューズ」であったはずなのだが。女性学生は、教授を「ミューズ」にすることで、「世界」を逆転させる。女性学生が教授を奪い去るのである。女性が「ミューズ」であった時代がおわり、男が女性の「ミューズ」になり、そのことが「ミューズ」のままでいたい古い女(妻)を叩きのめす。破壊する。
でも、まあ、なんというか。
これは浮気男の「弁明」映画という側面もあるなあ。
と、あれやこれや考えると、めんどうくさい。
こんな面倒くさい映画をとることができるのは、やっぱりラテン系ヨーロッパ人はセックスのことしか考えていないのかなあ、なんて思ったりもするのである。スケベなことしか考えないのに、それを「ことば」をつかって「哲学」にしてしまう。
そう思ってみた方がよかったのかも。
「哲学」とはスケベになることである、スケベであることは「哲学する」ことであると言いなおすと、ちょっと楽しいものではある。
(KBCシネマ2、2017年07月05日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ちょっとめんどうくさい映画である。何がめんどうかというと、ことばがめんどう。「意味」がありすぎる。ダンテの「神曲」をテーマに、インスピレーションを与える存在(ミューズ、女性)とインスピレーションを受け「芸術」をつくる存在(詩人、男)について語り合うのだが、現実の存在と芸術は相互に交渉し合うので、じっさいのことろ「境界線」を設定しにくい。その「境界線」の設定しにくい部分を、男(ラファエレ・ピント)と女性の学生が綱渡りしていく。それも「思っている」ことを懸命に「ことば」にしながら。「思っていること」がすべて「ことば」になるわけではないのだが、哲学が主題なので、「ことば」だけが「思っていること」になっていく。でも、その「ことば」(思っていること)のまわりには、どんどん「ことばにならない思い」も増えてくる。「ことば」によって「世界」が明晰になっていくのか、あるいは「ことば」によって「世界」が不透明になっていくのか……。
これが、スペイン語とイタリア語を混在したまま進んでゆく。さらにイタリアの方言まで侵入してくる。ことばが違えば、現実も違ってくる。そのことが、さらに映画の中の世界を混沌としたものにする。その混沌が、美しいという不思議な現象も起きるから、なおややこしい。
いろいろ特徴的な映像とシーンがあるが、興味深いのは主人公(教授)と妻との対話。教授の家にいるのだが、手前に妻、奥に夫。妻の手前に、「ガラス」がある。窓? しきり? 何かわからないが、カメラは二人を直接写さない。ガラスに何かが映って反射している。それが二人の映像を、透明だけれど不鮮明にする。
これは主人公と女性の生徒とのデート(?)でも頻繁に起きる。車のなかで対話している。それをフロントガラス越しに映し出す。フロントガラスには風景が映り込む。ときにはフロントガラスの反射のために二人の表情が見えない。
こうしたなかで、男(教授)は、まあ、いい加減なことをいいますねえ。ミューズから刺戟を受けて、そのつどかわっていく、新しい「芸術」のなかに突き進んでゆくと言えばかっこいいけれど、簡単に言うと女を自分のものにしたくて「ことば」をかえていくと言った方がいい。新しいスタイルのナンパ。言い寄ってくる(?)女の方も、まあ、男によって「ことば」をかえるんだけれどね。
で、こうしたことって、つまり「恋愛」って、結局「社交」というか、「都会」のものなんだなあ、と思わせておいて。
映画は一転、別なものも描く。イタリアのナントカカントカという島。そこへ主人公は女をつれて旅行に行く。フィールドワークというとかっこいいが、まあ、手短な浮気旅行。そこで、女は羊飼いにあう。教授とはぜんぜん違う男。これに引きつけられていく。ここが、なんとも美しい。
すべてが美しく輝いている。
羊飼いが3人で歌うコーラスがある。羊の声のよう。実際、羊の声をまねている部分もあるのだが。ハーモニーがそのまま「世界」になる。「ことば」ではなく「ことば以前の音」が「世界」を震わせる。このコーラスによって、女の耳が覚醒する。新しい女が生まれてくる。彼女自身の「肉体」のなかから、あるいは「肉体」のなかへ、という奇妙な言い方をした方が正しいかもしれない。
耳をすませば、まわりにはいろいろな音がある。小鳥の声だけではなく、木々の梢をわたる風の音も。男がその「音」の存在を知らせる。その、いままで聞いたことのない「音」そのものを「肉体」のなかにいれていくことで、女の「肉体」が官能に開いていく。実際にセックスが描かれるわけではないが、性交シーンよりもエロチックである。見上げる空の高みで揺れる木の葉は女の恥毛である。男の指は風になって、それを渡っていく。
ここでは羊飼いという「自然」が、都会の女の「ミューズ」になる。男女が逆転する。「自然の男(ことばをあやつらない男)」が女の「肉体」を詩そのものにかえる。「肉体」のなかの、耳の変化が、つぎつぎに他の器官につたわってゆき、その微妙な変化が美しさとなってひろがる。
その島の方言には「アモール(愛する)」ということばがないと男は言う。女は「ではこの島では男と女は愛し合わないのか」というよう挑発もする。このときも、男が「ミューズ」である。教授はいっしょに旅行しているのだが、いわば「寝取られ男」である。
で。
この男と女、詩人とミューズの「逆転」が、最後におもしろい展開を見せる。
男(教授)の方は、あいかわらず女たらしに過ぎないのだが、女の方は男から得たインスピレーションによって詩人になっていく。「現実」を「写す鏡」なのだが、その「鏡」にはいままでと違った「世界」が映るのである。
最後に、妻はひとりの女性学生と向き合う。妻にとって夫は、女たらしではあるけれど、けっきょく自分のところへ戻ってくるばかな男だったはずである。つまり、妻はいつまでたっても「ミューズ」であったはずなのだが。女性学生は、教授を「ミューズ」にすることで、「世界」を逆転させる。女性学生が教授を奪い去るのである。女性が「ミューズ」であった時代がおわり、男が女性の「ミューズ」になり、そのことが「ミューズ」のままでいたい古い女(妻)を叩きのめす。破壊する。
でも、まあ、なんというか。
これは浮気男の「弁明」映画という側面もあるなあ。
と、あれやこれや考えると、めんどうくさい。
こんな面倒くさい映画をとることができるのは、やっぱりラテン系ヨーロッパ人はセックスのことしか考えていないのかなあ、なんて思ったりもするのである。スケベなことしか考えないのに、それを「ことば」をつかって「哲学」にしてしまう。
そう思ってみた方がよかったのかも。
「哲学」とはスケベになることである、スケベであることは「哲学する」ことであると言いなおすと、ちょっと楽しいものではある。
(KBCシネマ2、2017年07月05日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
シルビアのいる街で BD [Blu-ray] | |
クリエーター情報なし | |
紀伊國屋書店 |