詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「種子」

2017-07-01 11:51:54 | オフィーリア2016
池井昌樹「種子」(「現代詩手帖」2017年07月号)

 池井昌樹「種子」は「連載詩・未知」の最終回の四篇のなかの一篇。

死はめをさまし
死はふたばして
死はえだになり
死はみきになり
死はおいしげり
死はちりしかれ
死はめぐりゆき
死はめぐりきて
めぐりのはての
つぶらなひとみ
死はめをとじて
死はみちたりて
やすらかにいま
はなひらくとき

 読み始めてすぐに「死」が「木」に見えてくる。「ふたばして」「えだになり」「みきになり」ということばが「木」につながる。
 でも、なぜ「死」なのだろう。「生/いのち」の方が読みやすくないか。「木」にすっきりと重ならないか。
 「ちりしかれ」は「木」というよりも「枯れ葉」を連想させる。「枯れ葉」は「死」なのかもしれないが、それまでは「生きている」。
 生きているものを「死」ということばで象徴するのは、なぜなのだろう。

 「死は」とはじまる行が、突然「死」を放棄して、「めぐりのはての/つぶらなひとみ」という二行になる。
 「めぐり」は「死」と言い換えられるか。
 微妙だが、言い換えられないことはない。
 そして、言い換えようとするとき、「死」ではなく「生」と言い換えることもできると思う。「生」を「いのち」と読ませれば、「めぐる」のは「死」ではなく「いのち」という気がしてくる。
 「木」、成長する木は「いのち(生)」の象徴である。それを「死」と呼んで、池井は詩を書き始めているのだが、「死はめぐる」と書いたとたんに、「生(いのち)はめぐる」ととすりかわってしまう。
 「めぐる」という「動詞」が入れ替わりをうながすのだろう。「円環」になる。最初と最後が重なる。「ひとつ」になる。
 「死」は、めぐり、「生(いのち)」に重なる。生まれ変わる。
 「死はめをとじて」は「生はめをとじて(死ぬ)」であり、「死はみちたりて」は「「生はみちたりて(満足して)」であると同時に、死の瞬間、その「死のなかに新しい生(いのち)が満ちてきて」でもある。
 「はなひらく」のは「死の生涯が記憶として花になる」というよりも、「新しいいのちの花がひらく」という感じがする。

 最初の一行に戻るのだ。

 「死はめをとじて/死はみちたりて」、その瞬間に、「死は、いのちとしてめをさまし」ということだろう。
 死と生は、あるいは生と死は区別がつかない。いや、区別できない、区別してはならないものなのだ。死と生、生と死は「結晶」している。その結晶が「種子」ということ。「種子」のなかには「死と生」が同居している。
 しかし。
 こんなふうに要約してはいけないんだろう。
 「種子」ということばを捨て去り(忘れ去り)、ただ「めぐりのはての/つぶらなひとみ」になってしまうことが大事なのだ。
 だから、というのはかなり変な「論理」の展開になるが、タイトルは「種子」というのは、ちょっとまずい。
 何もない方がいい。
 この「めぐり」のはてに、読者が何をつかむか、それは「種子」ということばで限定されるのはつまらないと思う。「種子」に限定されると、「象徴詩」になってしまう。

 もう少し書きたい。
 「めぐりのはての/つぶらなつぼみ」の「つぼみ」は「ひとみ」であるかのように、私は「誤読」する。「つぶらな」ということばが「ひとみ」を呼び寄せるのだが、それだけではない。池井の、時間を超えて(生と死の限界を超えて)永遠を見つめる「視線」が「ひとみ」を呼び寄せる。
 「種子/つぼみ」が「ひらく」というより「め(目/ひとみ)」が開かれて、その開かれたひとみのなかで、ことばのなかで、「世界」があたらしく生まれ変わる。詩になる。



池井昌樹詩集 (ハルキ文庫)
池井昌樹
角川春樹事務所
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誤解を招きかねない?

2017-07-01 01:03:32 | 自民党憲法改正草案を読む
誤解を招きかねない?
               自民党憲法改正草案を読む/番外98(情報の読み方)

 2017年06月30日、稲田が防衛省で記者会見した。東京都議選の応援演説で「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてお願いしたい」といったことに対する「釈明」会見である。私は朝日新聞のネット中継を見たのだが、途中からなので正確ではないかもしれないが。(夕刊には、詳報が掲載されていない。)
 そのなかで、稲田は、こう語っていた。

「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いするという意図は全くなく、誤解を招きかねない発言であり、撤回をした」
「真意は自民党としてお願いしたい、ということ」

 つまり、稲田によれば「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いした」というのは「誤解」ということになる。だが「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いしたい」と明確に言っている。そのあいだに、というか、その最後に「自民党」ということばが挟まっているだけである。
 稲田の発言が、もし稲田の言う「自民党として」という意味だとすると。そのまえに並列されていることばは、すべて「自民党」ということになる。
 つまり、

防衛省=自民党
自衛隊=自民党
防衛大臣=自民党

 ということになる。
 この関係が成り立つときのみ、稲田のことばは「自民党として」と言い換えることができる。
 防衛省には複数の職員がいる。彼らはみんな自民党か。自民党の支持者でないと、防衛省には入省できないということか。あるいは、いったん防衛省に入ったら、全ての人間は自民党支持者にならないといけないということか。防衛省職員には、思想の自由はないということか。自民党以外には投票してはいけないのか。稲田は、職員にそう命令したのか。
 自衛隊にも複数の人間がいる。彼らはみんな自民党か。自民党支持者以外でないと、自衛隊に入れないということか。あるいは、いったん自衛隊に入ったら、全ての人間は自民党支持者にならないといけないということか。自衛隊員には、思想の自由はないということか。他の党に投票しては行けないということか。稲田は、そう命令したのか。
 防衛大臣は、いまは稲田が務めており、稲田は自民党員だが、自民党員以外は防衛大臣にはならないのか。民主党が政権をとっていた時代、防衛大臣は民主党の議員が務めていたはずだ。それとも彼も自民党員だったのか。

 あるいは、防衛省、自衛隊の職員すべてが自民党支持者であってほしいという思いを込めて、そう語ったのか。

 もし、稲田の言う通り、「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてお願いしたい」ということが、「自民党としてお願いする」という意味ならば、そして自衛隊が「自民党」という意味ならば、これは、とても怖いぞ。
 自民党を批判すると、自衛隊が出動するということが起きるぞ。
 自衛隊は日本国民を守るのではなく、自民党員を守るために動くということになるぞ。
 これが、きっと本音。
 稲田に対して国民が批判する。マスコミが批判する。はやく自衛隊が出動してきて、国民とマスコミを制圧してくれないか。稲田は、きっとそう思っていたのだ。
 自民党以外の党を支持する人間は、弾圧し、自民党の独裁を実現する。そのために自衛隊を出動させる。稲田の究極の願いは、それだ。

 選挙になれば、自衛隊が投票所を取り囲む。自民党以外に投票する人間はいないか、銃を構えて監視するのだ。
 そうなるまで、稲田は「しっかりと職務をまっとうする」と言ったのだ。

 それにしても。

 なぜ、記者会見なのか。なぜ、国会の場で、国民の代表である国会議員の質問に答えないのか。
 記者会見で質問しているのは、「企業」の代表である。「国民」の代表ではない。
 言いたいことがあるなら、「国会の場で、きちんと発言したいから国会を開いてくれ」と自民党と安倍に要求すべきである。国会の場で追及されたくないから、記者会見でごまかしている。
 安倍も国会が終わった後、国会の外で、国会の答弁とは違うことを平気で言っている。
 記者会見で、ある記者が、なぜ国会を開催し、国会で答弁しないのかと質問していた。稲田は、国会を開くか開かないかは国会が決めること、と言っていた。稲田は国会議員だろう。国会で説明する意思があるなら、国会を開いてほしいと言えるはずだ。国会が決めることと、「ひとごと」のように言ってしまうのはなぜか。
 安倍は国会を開くと加計学園問題を追及される。それがいやだから国会を開かないと言っている。
 稲田も同じだ。国会を開くと「自衛隊発言」を追及される。それがいやだから国会を開かないと言っている。国会を開くようには働きかけることをしないと言っている。
 マスコミは、記者会見で安倍や稲田の発言を聞くことができる、それ活字にする、あるいは放送すれば金になるから、記者会見でいいと思うのかもしれないが、それでいいのか。
 「国会を開いて、なぜ、国会で答弁しないのか」と質問した記者がだれかはわからないが、マスコミはもっとこの点を追及すべきである。「記者」としてではなく、「国民」として。




#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
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