伊藤悠子「山早春」ほか(「左庭」37、2017年07月15日発行)
伊藤悠子「山早春」を読んでいて、ふと、読むスピードがかわった。
窓から外を眺めていたら名残の雪が降ってきた、ということを書いている。特に目新しいことばがあるわけでもない。ことばのリズムは詩というよりも、散文である。もったりしている。
でも、私は、ここで、あ、いいなあ、詩だなあと感じた。
なぜだろう。
たぶん、ことばを切り詰めて印象的に書くのが詩であると無意識の内に思っていて、その無意識がこの五行で壊されたからだろうなあ。
「灰だろうと思ったら」というのは、そうではなかった、ということばへと自然につながっていく。「灰ではなく、雪だった」。それだけのことだが、この「思ったら」をそのままことばにしてしまうところが新鮮だった。
はっきりどの作品とは言えないのだが、最初に伊藤の作品を読んだときの静かなことばの印象を思い出した。劇的に書こうとすればもっと劇的に書けるのかもしれないけれど、あえてゆっくりと立ち止まってことばを動かすような印象があったと記憶している。それを思い出した。
きのう読んだ野村の詩は「スピード」で読ませる。
でも、伊藤の詩は、逆。「思ったこと」を、加速させず、思ったときのまま、静かにことばにするという印象がある。そういう部分がとても印象に残る。
「山探春」の次の部分。
鹿を見つける。一頭が二頭になっていく。それからその一頭がオスであるとわかる。そして角の描写へと動いていく。このときのことばのスピードが自然なのだ。そこに、私は詩を感じる。
この作品にも「思ったが」ということばがある。「思ったら」と書き換えても通じる。何かを「思う」、そしてその「思い」がしばらくして修正される。この思考の変化のリズムが気持ちがいい。
特に目新しいことを発見しなくてもいい。そこにあるがままを、自然に見いだしていく。そのとき、一瞬自分をとらえた「思い」を捨てる、捨てて修正するということが、何か美しく感じられる。
と、書いたことを、江里昭彦「悲恋を語る(騙る)こと[後]」に結びつけると、強引すぎるかもしれないが。
江里はテレビで見た番組のことを書いている。沖縄。双子の姉妹がいて、一人は死んで、一人は生きている。生き残った一人が、もうひとりの女の悲恋を語る。それは「ととのいすぎている」。どこかに「騙り」があるのではないのか。
というのは、江里の書いていることの一部で、それを引き合いに出すのは間違いかもしれないが。
その文章を読みながら、伊藤の詩には「騙り」がない、と感じた。強引な「整え方」がない。「思い」が「思い間違い」を発見し、それを乗り越えて「事実」にたどりつく。伊藤の語っている「事実」は「事実」というには「おおげさ」かもしれないけれど、「事実」には違いない。そして、この「修正」を「世界を整える」、あるいは「思いを整える」と言えば言えるのだけれど、それが「整え方」そのものをことばのなかに残しているので、そのことが新鮮なのだ。
人は誰でも語り続けていると、語りの「経済学」を身につけてしまう。より効果的に「感動」を演出することを覚えてしまう。そういう「技巧」のようなものを捨てて書く、というのは意外とむずかしいことかもしれない。
伊藤悠子「山早春」を読んでいて、ふと、読むスピードがかわった。
窓を斜めに白いものが横切って
煙突から煙といっしょに舞いあがった灰だろうと思ったら
左からも真正面からもくるので
忘れていたことを思い出すように
雪
窓から外を眺めていたら名残の雪が降ってきた、ということを書いている。特に目新しいことばがあるわけでもない。ことばのリズムは詩というよりも、散文である。もったりしている。
でも、私は、ここで、あ、いいなあ、詩だなあと感じた。
なぜだろう。
たぶん、ことばを切り詰めて印象的に書くのが詩であると無意識の内に思っていて、その無意識がこの五行で壊されたからだろうなあ。
「灰だろうと思ったら」というのは、そうではなかった、ということばへと自然につながっていく。「灰ではなく、雪だった」。それだけのことだが、この「思ったら」をそのままことばにしてしまうところが新鮮だった。
はっきりどの作品とは言えないのだが、最初に伊藤の作品を読んだときの静かなことばの印象を思い出した。劇的に書こうとすればもっと劇的に書けるのかもしれないけれど、あえてゆっくりと立ち止まってことばを動かすような印象があったと記憶している。それを思い出した。
きのう読んだ野村の詩は「スピード」で読ませる。
でも、伊藤の詩は、逆。「思ったこと」を、加速させず、思ったときのまま、静かにことばにするという印象がある。そういう部分がとても印象に残る。
「山探春」の次の部分。
鹿が私を見つめていた
きょとんと
一頭かと思ったが少し離れて二頭
これらは少し視線を深くして見つめている
一頭はオスで白い裸木のような角を持っている
鹿を見つける。一頭が二頭になっていく。それからその一頭がオスであるとわかる。そして角の描写へと動いていく。このときのことばのスピードが自然なのだ。そこに、私は詩を感じる。
この作品にも「思ったが」ということばがある。「思ったら」と書き換えても通じる。何かを「思う」、そしてその「思い」がしばらくして修正される。この思考の変化のリズムが気持ちがいい。
特に目新しいことを発見しなくてもいい。そこにあるがままを、自然に見いだしていく。そのとき、一瞬自分をとらえた「思い」を捨てる、捨てて修正するということが、何か美しく感じられる。
と、書いたことを、江里昭彦「悲恋を語る(騙る)こと[後]」に結びつけると、強引すぎるかもしれないが。
江里はテレビで見た番組のことを書いている。沖縄。双子の姉妹がいて、一人は死んで、一人は生きている。生き残った一人が、もうひとりの女の悲恋を語る。それは「ととのいすぎている」。どこかに「騙り」があるのではないのか。
というのは、江里の書いていることの一部で、それを引き合いに出すのは間違いかもしれないが。
その文章を読みながら、伊藤の詩には「騙り」がない、と感じた。強引な「整え方」がない。「思い」が「思い間違い」を発見し、それを乗り越えて「事実」にたどりつく。伊藤の語っている「事実」は「事実」というには「おおげさ」かもしれないけれど、「事実」には違いない。そして、この「修正」を「世界を整える」、あるいは「思いを整える」と言えば言えるのだけれど、それが「整え方」そのものをことばのなかに残しているので、そのことが新鮮なのだ。
人は誰でも語り続けていると、語りの「経済学」を身につけてしまう。より効果的に「感動」を演出することを覚えてしまう。そういう「技巧」のようなものを捨てて書く、というのは意外とむずかしいことかもしれない。
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