詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日米韓の連携はありうるか

2017-07-31 11:13:28 | 自民党憲法改正草案を読む
日米韓の連携はありうるか
               自民党憲法改正草案を読む/番外110 (情報の読み方)
 2017年07月31日読売新聞(西部版・14版)の一面。

米爆撃機と空自訓練/朝鮮半島沖 米韓も合同訓練

 という見出し。北朝鮮のICBM実験を受けた訓練である。北朝鮮が実際にICBMを発射したら、どう対処するか。

 航空自衛隊のF2戦闘機2機と米空軍のB1戦略爆撃機2機が30日、九州西方から朝鮮半島沖にかけた空域で共同訓練を行った。岸田外相兼防衛相が同日、防衛省内で記者団に明らかにした。北朝鮮による28日の大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射を受け、日米同盟の結束を示す狙いがある。
 韓国軍は30日、B1が韓国空軍のF15戦闘機4機とも合同演習を行ったと発表した。発表によると、B1は30日に米領グアムのアンダーセン空軍基地を飛び立った後、空自の戦闘機2機と合流して訓練を実施。さらに朝鮮半島へ向かい、韓国軍機と演習を行った。

 何気なく読んでいたのだが、米軍と自衛隊は共同訓練をしている。米軍と韓国軍も共同訓練をしている。しかし日韓は共同訓練をしていない。
 ここから「有事」の際に、日韓がほんとうに共同で行動することがあるかどうか、疑問が生まれる。
 韓国軍と米軍は朝鮮戦争で、共同して北朝鮮と戦っている。共同した経験がある。
 一方、日本は韓国と共同して戦ったことはない。日本が韓国を侵略した。韓国は被害者である。もし「有事」の際、自衛隊が韓国内に入ることがあったら、それは韓国人にはどうみえるだろうか。第二次大戦の記憶が甦るのではないだろうか。
 また、自衛隊が北朝鮮を攻撃したとき、それはどう見えるだろうか。同胞(同じ民族)への攻撃に見えないか。政治体制と民族の血と、どちらが人間を強く動かすか。私は感覚人のことをよく知らないが、私の予測では民族の血の方が強いと思う。北朝鮮も日本軍によって被害を受けた。また被害を受けようとしている。そう思うと、韓国国民の怒りは日本に向けられるのではないか。
 日韓の合同戦闘は、私は不可能だと思う。だから訓練もしないのだと思う。
 米韓は「政治体制」を守るという意識で合同で戦える。けれど日米も同じ。けれど日韓は「政治体制」を守るという視点からだけで、共同戦線を構築するのはむずかしい。日韓の歴史が尾を引いている。
 
 で、「訓練」の内容に目を向けると、また違ったことも見えてくる。
 自衛隊はF2戦闘機2機、韓国軍はF15戦闘機4機が参加している。なぜ、自衛隊と韓国軍では参加している戦闘機の機種が違う? 日米と米韓では訓練内要そのものが違うのではないか。
 新聞には、そういうことが書いていない。
 だから、これから書くのは私の空想である。戦闘機の情報も聞きかじりであって、正確なものかどうかわからない。
 ある情報によると、F2戦闘機は「空中戦」向けではないらしい。対艦攻撃、対地攻撃向けらしい。一方、F15は対空中戦向けらしい。スピードや配備されている武器も違うようだ。
 自衛隊は海上で戦うことを想定し、韓国軍は空中で戦うことを想定して訓練したということか。韓国軍は、また、北朝鮮の「領土」への攻撃を考えていないということかもしれない。「空中」で限られた戦闘は想定しているが、一般市民をまきこむ可能性のある地上への攻撃を想定していないということかもしれない。同胞への攻撃を極力控えたいということかもしれない。
 もし北朝鮮の「基地」を攻撃するなら、それは米軍、あるいは米軍とともに行動する自衛隊ということになるか。
 さて、そうなったとき、では北朝鮮は、どういう攻撃に出るのか。(あるいは、米軍、自衛隊、韓国軍は、どういう攻撃があると想定しているのか。)
 北朝鮮は韓国領土の「基地」を攻撃しない。たぶん、同胞の血を流したくないという思いがある。
 けれど、日本にある基地(自衛隊、米軍を含む)へと攻撃をするだろうなあ。
 日本に対しては第二次大戦時の思いがある。米国に対しては、北朝鮮が苦しい状況に置かれているのはアメリカのせいだという思いがある。ICBM自体、アメリカ本土を狙って開発されたものであって、日本を狙って開発されたものではない。
 北朝鮮は日本を交渉相手とは考えていない。交渉相手はアメリカだけである。
 北朝鮮が日本を攻撃するとすれば、まず米軍の基地である。自衛隊は、米軍基地への攻撃を防ぐために動員され、北朝鮮とアメリカとの戦争にまきこまれるということだろう。

 岸田氏は日米共同訓練に関し、記者団に「日米同盟全体の抑止力、対処力をいっそう強化し、地域の安定化に向けた意思と高い能力を示すものだ」と語った。

 このとき「日米同盟」とは、日本が攻撃されたとき、米軍は日本を助けるという「意味」ではないだろう。日本にある米軍基地が攻撃されたとき(アメリかが攻撃されたとき)、日本が自衛隊を出動させるということだろう。そのための訓練をした、ということだろう。
 日本に「戦略」があるわけではない。
 北朝鮮に「戦略」があり、アメリカに「戦略」がある。日本はアメリカの「戦略」に利用されているだけなのだが、「利用されている」というかわりに、北朝鮮の脅威を宣伝しているとしか思えない。
 もしほんとうに北朝鮮の脅威を言うのなら、日本はまず韓国との関係を改善する方が先だろう。日韓が一緒に軍事訓練をしろというわけではないが、北朝鮮に対して共同して行動できるシステムを作る必要がある。韓国の頭越しに(領土、領海を飛び越して)、北朝鮮と対峙するというのは、韓国の「反発」を強めるだけだろう。



 少し話題は違うが。先日、朝鮮学校への教育費無償化問題について、大阪地裁の判決が出た。民主党時代に無償化したのを、安倍政権は取り消した。その対応を「違法」と認定した。
 これは安倍が打ち出している憲法改正、教育費の無償化と結びつけて考えてみる。
 まず安倍は「無償化」といいながら、「無償」の対象を限定する。政権にとって都合の悪いものは「対象外」とする。朝鮮学校の場合は、朝鮮総連との関係が理由だったが、他のことも理由になるはずである。安倍政権を批判するということを目的にした「学問」に対しては、同じように「無償化」は「対象外」とされるだろう。安倍政権に都合のいい「学問」は積極的に推奨されることになるだろう。「教育勅語」を復活させるための法的根拠を研究することにはどんどん補助がつぎ込まれるということになりかねない。
 「教育費無償化」を隠れ蓑にして、思想の統制がはじまる。
 憲法第十九条は

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 と言っているが、これを完全に否定する。安倍が狙っているのは、安倍にとって都合のいい思想は支援するが、そうでないものは弾圧するということだろう。
 ここから、もう一度朝鮮学校への教育費無償化対象外という安倍の措置を見つめなおすと、それは思想統制の一種だったのである。朝鮮学校が対象であるために、日本人には思想統制(思想の自由の侵害)には見えにくいかもしれないが、思想への攻撃だったのである。
 こういう攻撃は「血」が流れないために悲惨さが見えにくい。暴力として見えにくい。けれど、れっきとした暴力である。
 こういう「見えにくい暴力」が北朝鮮の「反感」をあおるかもしれない。そういうことも考えるべきである。戦争を回避するには、戦争を起こさなければやっていけないという気持ちを根底から変えることが重要だ。朝鮮学校への「差別」は、けっして日本の「利」にはならない。

 また、先の民主党の「教育費無償化」は憲法を改正しなくてもできたことである。同じように安倍も憲法を改正しなくても「無償化」できるはずである。それをあえて「無償化」を憲法に盛り込むのは、他の魂胆があるからだ。「自衛隊を憲法に付け加え、合憲化する」ということと抱き合わせで憲法を改正する。「自衛隊合憲化」だけでは賛成が得られないかもしれない。だから「教育費無償化」と抱き合わせ、反対という人には「教育費を無償化することが悪いのか」と批判するつもりなのだろう。


#安倍を許さない #憲法改正 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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橋場仁奈『空と鉄骨』

2017-07-31 06:27:40 | 詩集
橋場仁奈『空と鉄骨』(荊冠社、2017年06月14日発行)

 橋場仁奈『空と鉄骨』は奇妙な詩集である。
 
ある日、のびてくる
何もない空からのびてくる
からんとした空の向こうから
高く細くきらきらと鉄骨はのびて
斜めにななめにやがてロープが1本、下りてくる         (飛び散る午後)

空の空き地を見つめていれば
鉄骨はのびてきて
すこしずつ斜めになって
向こう側からこちら側へアームは回され
梯子は回され雪の舞い散る空から
ロープが1本吊り下がっている            (空と鉄骨と1本のロープ)

朝、鉄骨はのびて
するすると梯子はのびてロープはゆれる
ゆれてぶら下がっている                  (朝、鉄骨はのびて)

おはよう鉄骨、
おはよう鉄骨、長い休みのあいだ
折りたたまれていたけれど
今朝はのびてくる青葉の中からのびて
高く細くするすると中空へとのびて
やがて斜めになってロープが下りてくる                 (GW)

 引用しているときりがないが、詩の世界がつながっている。詩集は、まあ、何篇かの詩で世界を描いて見せるというものだから、そこにつながりがあるのは当然なのだが、その「つながり方」がしつこい。
 少しずつかわっていく。その変化をつうじて世界が広がっていくのだけれど、しゃきっとしない。「完結」というか、「結晶」というか、そういうものと無縁である。だらだらした「長編小説」のようである。
 前の詩で読んだようなこと、ことばがつながりながら、また別なことばとつながっていく。世界ははりめぐらされた電線でつながっていく。
 それで、その結果、どうなるの?
 うーん、そんなことは、どうでもいいんだろうなあ。つながっているということを書きたいのだろう。
 つながりながら、

吊り下げられている

 この感じなのかなあ。中途半端。不安定。不安定だから、さらにつながるのか。
 よくわからないが、あ、こんなふうなだらだらとした書き方があったのか、と驚いた。詩というものに対する「常識」をたたき壊された感じ。

 めんどうくさい感じ、はやく終わってくれないかなあ、と思いながら、他人の話を聞いている感じ。この終わらない感じがこのひとの特徴なんだなあと思いながら、じっと耐えてことばを聞いている感じ。
 あ、否定的なことばばかり並べたけれど、否定的なことばでしか語れない妙なおもしろさもある。

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