詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンジェイ・ワイダ監督「残像」(★★★)

2017-07-02 19:00:24 | 映画
監督 アンジェイ・ワイダ 出演 ボグスワフ・リンダ

 前衛画家ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの生涯を描いている。私はブワディスワフ・ストゥシェミンスキの絵を見たことがない。あるかもしれないが、名前と絵が一致しない。そのせいもあって、どうもピンとこない。
 映像として美しいなあと感じたのは、予告編にもあった室内が赤く染まるシーン。窓の外にスターリンの肖像を描いた巨大な垂れ幕が掲げられる。垂れ幕の赤い色を通して光が入ってくるので部屋が赤くなる。
 このときの赤い光というか、ものを覆っていく、ものを染めていくときの感じが、実在の色というよりも、嘘を含んでいる「弱さ」のようなものがあって、とてもおもしろい。その色を拒絶するように、主人公は垂れ幕を破る。自然の光が赤い垂れ幕越しに、さーっと部屋の中に入ってくる。このときの印象も美しい。
 もうひとつ。主人公が妻の墓に青い花を捧げるシーン。白い雪と、青い花の色の対比が美しい。まるでモノクロ映画のなかで花の青だけ着色したようだ、と予告編を見たときに思っていた。
 そうしたら。
 あの青い花は、実際に着色した花だった。直前に白い花を青いインク(?)に浸し青くするシーンがある。あっ、これが墓に飾られるのだな、とそのときわかるのだが、この青の色が絶妙。下地が白。そこに重ねられた青。このため、雪の白に非常によくなじむのである。
 いやあ、美しい。
 そして、悲しい。
 主人公には、「青」が「残像」として残っている。妻の瞳の色。それは主人公の瞳の色でもあるのだが、主人公には自分の瞳の色は見えない。(娘から、お父さんも青いと言われるシーンがある。)あの青い花は、だから妻の瞳の色であり、主人公の妻を見つめる瞳の色でもある。
 それが「人工」のなかで出会っている。この「人工」を芸術と言ってもいいのかもしれない。芸術とは「現実」を切り開き、整える「視点」のことである。
 予告編になかったシーンでは、妻(娘の母)の葬儀のとき、娘が「赤いコート」を着ている。この赤はスターリンの垂れ幕の赤とは違って、もっと深くて強い。そのコートを見て、墓地に来ていた人が「母親の葬儀に赤いコートなんて」と言う。娘は「これしかないのよ」と反論した後、コートを裏返しにする。裏地が黒い。
 このシーンは、私たちがみている「色」というのは何なのかを考えさせてくれる。
 映画の最初に、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの「認識論」というか「芸術論」が語られている。「認識したものしか人は見ない」。「赤いコート」の「赤」の「認識」は、ただそのコートが「赤い」ということではない。葬儀のときは「黒い」服を着るという「認識」があるから、娘の着ているコートが「赤く」見える。葬儀のときは「黒い」服を着るものである、という「認識」がなければ、娘の着ている「赤」は認識されなかったはずである。だから、娘がコートをぱっと裏返し、「赤」を「黒」に変えるのは、一種の「認識」のぶつかりあいなのである。裏地はほんとうは「黒」でないかもしれない。焦げ茶だったかもしれないし、黒に近い紺だったかもしれない。「赤」をひっくり返して(裏返して)隠したときに、そこに「黒」が認識される。
 このシーンが、この映画のなかでは、一番のポイントである。
 「黒く」見える。しかし、それはほんとうに「黒」なのか、「赤」が否定されたために「黒」に見えたのか。
 ここから「政治(体制)」と「芸術」の問題もとらえなおすことができる。
 ある作品が政治的に利用されたり、批判されたりする。それはなぜなのか。「芸術」その自体が持っている「色(認識)」は何なのか。鑑賞者は、それをどう「認識」するか。
 ここから先のことを考えようとすると。
 私はつまずく。
 象徴的なシーンは、予告編にもあった壁画(レリーフ)をこわすシーンである。壁画は主人公の意図としては「搾取への抗議」である。しかし、権力はそうは認識しない。ブワディスワフ・ストゥシェミンスキは体制を批判している(体制に与しない)という「認識」で、作品そのものをも否定する。
 さてさて、むずかしい問題である。
 ブワディスワフ・ストゥシェミンスキを知らない。
 ということもあって、★3個。
 ブワディスワフ・ストゥシェミンスキに詳しい人の感想を聞きたい。

 欲を言うと。
 先に書いたことと関係があるのだが、「色」の変化が「赤」と「青」を通して描かれるのだが、もう少し他の「色」の変化も視覚化してほしかった。
 たえば、主人公に思いを寄せる女子学生の「視覚」のなかで「色」はどうかわったか。彼女は、どう「色」を変えることを知っていたか。あるいは主人公の友人の詩人の「視覚」のなかで「色」はどう変わったか。そういうものを描いてほしかった。
 タイトルには「黄色」が有効につかわれていたが、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキにとって「黄色」は重要な色なのか。それは何を「認識」したものなか。そういうことも気になった。
                     (KBCシネマ1、2017年07月02日)

 *

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東京都民のみなさまへ

2017-07-02 00:40:17 | 自民党憲法改正草案を読む
 2017年07月01日、東京都議選の街頭演説で、安倍は「こういう人たちに負けるわけにはいかない」と有権者を指さして叫んだ。
 有権者とは、「議員を選ぶ人」である。「選ばれた人」が「選ぶ人」を「こんな人」と侮辱した。
 訴える政策が正しければ、批判をやめ、その人に投票するかもしれない。そういう「余地のある人」、言い換えると安倍のことば次第では態度をかえる可能性のある人を「こんな人」と呼んだ。
 侮辱した。
 このことを、私たちは忘れてはならない。

 「こういう人たち」とは、安倍の演説に対して「安倍帰れ」「安倍辞めろ」と叫んでいる人である。
 なぜ、人は「安倍帰れ」「安倍辞めろ」と叫ぶか。
 ほんとうは、もっと他のことを語りたい。なぜ、加計学園は優遇されたのか。なぜ、森友学園が買った土地は値引きされたのか。なぜ、共謀罪は審議を打ち切り強行採決されたのか。そのことを問いたいし、自分の意見も言いたい。
 だれにも言いたいことが山ほどある。
 だが、安倍は、そういう声に耳を傾けたことがあるか。ないではないか。

 安倍は国会での説明を拒んでいる。臨時国会の開催要求は、憲法に従って野党から提出されている。それに安倍は答えていない。「加計学園問題を追及されるがいやだから」と言うのが安倍の理由である。
 国民の代表である国会議員の質問には答えず、記者会見で自分の意見を言うだけである。
 だから叫ぶのだ。
 国民の質問に答えない安倍は帰れ。
 国民の質問に答えない安倍は辞めろ。

 これは正しい叫びだ。
 「安倍は帰れ」「安倍辞めろ」と叫んだ人は正しい。
 「演壇の上から」国民を見下ろして、「言うことを聞け」と言っている安倍に対しては、「帰れ」「辞めろ」と叫ぶしかない。
 この日、秋葉原に集まって「安倍は帰れ」「安倍辞めろ」と叫んだ人たちは、そこに集まれなかった国民を代表している。
 国民の怒りを代表している。

 だから、もっともっと怒ってほしい。
 国民は政治家を批判する権利がある。
 しかし、国民によって選ばれた議員には国民を批判する権利はない。侮辱する権利は、もちろん、ない。
 批判されたくないのなら、批判されない政策を実施すればいい。
 国民が望む政策を実施できない、国民を説得できない政治家が、国民に対して「こんな人」と呼んだ。
 このことに対してもっと怒り、投票に反映させてほしい。

 都議選がはじまってから、稲田の地位を利用した公職選挙法違反があり(しかも「自衛隊」という武力を持った組織の存在を前面に押し出した脅迫を含んだ違反だ。私には自民党に投票しないなら、自衛隊を派遣するぞ、という脅しに聞こえた)、下村の違法献金問題があり、二階の暴言があった。
 その最後に、安倍の有権者に対する「この人」呼ばわり、侮辱があった。
 自民党に投票するということは、安倍、稲田、下村、二階のやっていることを「肯定」することである。
 安倍、稲田、下村、二階に対する怒りを、「批判する力」として結集させてほしい。
 都議選に対する投票権のない私は、そう願っている。


#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
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