監督 アンジェイ・ワイダ 出演 ボグスワフ・リンダ
前衛画家ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの生涯を描いている。私はブワディスワフ・ストゥシェミンスキの絵を見たことがない。あるかもしれないが、名前と絵が一致しない。そのせいもあって、どうもピンとこない。
映像として美しいなあと感じたのは、予告編にもあった室内が赤く染まるシーン。窓の外にスターリンの肖像を描いた巨大な垂れ幕が掲げられる。垂れ幕の赤い色を通して光が入ってくるので部屋が赤くなる。
このときの赤い光というか、ものを覆っていく、ものを染めていくときの感じが、実在の色というよりも、嘘を含んでいる「弱さ」のようなものがあって、とてもおもしろい。その色を拒絶するように、主人公は垂れ幕を破る。自然の光が赤い垂れ幕越しに、さーっと部屋の中に入ってくる。このときの印象も美しい。
もうひとつ。主人公が妻の墓に青い花を捧げるシーン。白い雪と、青い花の色の対比が美しい。まるでモノクロ映画のなかで花の青だけ着色したようだ、と予告編を見たときに思っていた。
そうしたら。
あの青い花は、実際に着色した花だった。直前に白い花を青いインク(?)に浸し青くするシーンがある。あっ、これが墓に飾られるのだな、とそのときわかるのだが、この青の色が絶妙。下地が白。そこに重ねられた青。このため、雪の白に非常によくなじむのである。
いやあ、美しい。
そして、悲しい。
主人公には、「青」が「残像」として残っている。妻の瞳の色。それは主人公の瞳の色でもあるのだが、主人公には自分の瞳の色は見えない。(娘から、お父さんも青いと言われるシーンがある。)あの青い花は、だから妻の瞳の色であり、主人公の妻を見つめる瞳の色でもある。
それが「人工」のなかで出会っている。この「人工」を芸術と言ってもいいのかもしれない。芸術とは「現実」を切り開き、整える「視点」のことである。
予告編になかったシーンでは、妻(娘の母)の葬儀のとき、娘が「赤いコート」を着ている。この赤はスターリンの垂れ幕の赤とは違って、もっと深くて強い。そのコートを見て、墓地に来ていた人が「母親の葬儀に赤いコートなんて」と言う。娘は「これしかないのよ」と反論した後、コートを裏返しにする。裏地が黒い。
このシーンは、私たちがみている「色」というのは何なのかを考えさせてくれる。
映画の最初に、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの「認識論」というか「芸術論」が語られている。「認識したものしか人は見ない」。「赤いコート」の「赤」の「認識」は、ただそのコートが「赤い」ということではない。葬儀のときは「黒い」服を着るという「認識」があるから、娘の着ているコートが「赤く」見える。葬儀のときは「黒い」服を着るものである、という「認識」がなければ、娘の着ている「赤」は認識されなかったはずである。だから、娘がコートをぱっと裏返し、「赤」を「黒」に変えるのは、一種の「認識」のぶつかりあいなのである。裏地はほんとうは「黒」でないかもしれない。焦げ茶だったかもしれないし、黒に近い紺だったかもしれない。「赤」をひっくり返して(裏返して)隠したときに、そこに「黒」が認識される。
このシーンが、この映画のなかでは、一番のポイントである。
「黒く」見える。しかし、それはほんとうに「黒」なのか、「赤」が否定されたために「黒」に見えたのか。
ここから「政治(体制)」と「芸術」の問題もとらえなおすことができる。
ある作品が政治的に利用されたり、批判されたりする。それはなぜなのか。「芸術」その自体が持っている「色(認識)」は何なのか。鑑賞者は、それをどう「認識」するか。
ここから先のことを考えようとすると。
私はつまずく。
象徴的なシーンは、予告編にもあった壁画(レリーフ)をこわすシーンである。壁画は主人公の意図としては「搾取への抗議」である。しかし、権力はそうは認識しない。ブワディスワフ・ストゥシェミンスキは体制を批判している(体制に与しない)という「認識」で、作品そのものをも否定する。
さてさて、むずかしい問題である。
ブワディスワフ・ストゥシェミンスキを知らない。
ということもあって、★3個。
ブワディスワフ・ストゥシェミンスキに詳しい人の感想を聞きたい。
欲を言うと。
先に書いたことと関係があるのだが、「色」の変化が「赤」と「青」を通して描かれるのだが、もう少し他の「色」の変化も視覚化してほしかった。
たえば、主人公に思いを寄せる女子学生の「視覚」のなかで「色」はどうかわったか。彼女は、どう「色」を変えることを知っていたか。あるいは主人公の友人の詩人の「視覚」のなかで「色」はどう変わったか。そういうものを描いてほしかった。
タイトルには「黄色」が有効につかわれていたが、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキにとって「黄色」は重要な色なのか。それは何を「認識」したものなか。そういうことも気になった。
(KBCシネマ1、2017年07月02日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
前衛画家ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの生涯を描いている。私はブワディスワフ・ストゥシェミンスキの絵を見たことがない。あるかもしれないが、名前と絵が一致しない。そのせいもあって、どうもピンとこない。
映像として美しいなあと感じたのは、予告編にもあった室内が赤く染まるシーン。窓の外にスターリンの肖像を描いた巨大な垂れ幕が掲げられる。垂れ幕の赤い色を通して光が入ってくるので部屋が赤くなる。
このときの赤い光というか、ものを覆っていく、ものを染めていくときの感じが、実在の色というよりも、嘘を含んでいる「弱さ」のようなものがあって、とてもおもしろい。その色を拒絶するように、主人公は垂れ幕を破る。自然の光が赤い垂れ幕越しに、さーっと部屋の中に入ってくる。このときの印象も美しい。
もうひとつ。主人公が妻の墓に青い花を捧げるシーン。白い雪と、青い花の色の対比が美しい。まるでモノクロ映画のなかで花の青だけ着色したようだ、と予告編を見たときに思っていた。
そうしたら。
あの青い花は、実際に着色した花だった。直前に白い花を青いインク(?)に浸し青くするシーンがある。あっ、これが墓に飾られるのだな、とそのときわかるのだが、この青の色が絶妙。下地が白。そこに重ねられた青。このため、雪の白に非常によくなじむのである。
いやあ、美しい。
そして、悲しい。
主人公には、「青」が「残像」として残っている。妻の瞳の色。それは主人公の瞳の色でもあるのだが、主人公には自分の瞳の色は見えない。(娘から、お父さんも青いと言われるシーンがある。)あの青い花は、だから妻の瞳の色であり、主人公の妻を見つめる瞳の色でもある。
それが「人工」のなかで出会っている。この「人工」を芸術と言ってもいいのかもしれない。芸術とは「現実」を切り開き、整える「視点」のことである。
予告編になかったシーンでは、妻(娘の母)の葬儀のとき、娘が「赤いコート」を着ている。この赤はスターリンの垂れ幕の赤とは違って、もっと深くて強い。そのコートを見て、墓地に来ていた人が「母親の葬儀に赤いコートなんて」と言う。娘は「これしかないのよ」と反論した後、コートを裏返しにする。裏地が黒い。
このシーンは、私たちがみている「色」というのは何なのかを考えさせてくれる。
映画の最初に、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの「認識論」というか「芸術論」が語られている。「認識したものしか人は見ない」。「赤いコート」の「赤」の「認識」は、ただそのコートが「赤い」ということではない。葬儀のときは「黒い」服を着るという「認識」があるから、娘の着ているコートが「赤く」見える。葬儀のときは「黒い」服を着るものである、という「認識」がなければ、娘の着ている「赤」は認識されなかったはずである。だから、娘がコートをぱっと裏返し、「赤」を「黒」に変えるのは、一種の「認識」のぶつかりあいなのである。裏地はほんとうは「黒」でないかもしれない。焦げ茶だったかもしれないし、黒に近い紺だったかもしれない。「赤」をひっくり返して(裏返して)隠したときに、そこに「黒」が認識される。
このシーンが、この映画のなかでは、一番のポイントである。
「黒く」見える。しかし、それはほんとうに「黒」なのか、「赤」が否定されたために「黒」に見えたのか。
ここから「政治(体制)」と「芸術」の問題もとらえなおすことができる。
ある作品が政治的に利用されたり、批判されたりする。それはなぜなのか。「芸術」その自体が持っている「色(認識)」は何なのか。鑑賞者は、それをどう「認識」するか。
ここから先のことを考えようとすると。
私はつまずく。
象徴的なシーンは、予告編にもあった壁画(レリーフ)をこわすシーンである。壁画は主人公の意図としては「搾取への抗議」である。しかし、権力はそうは認識しない。ブワディスワフ・ストゥシェミンスキは体制を批判している(体制に与しない)という「認識」で、作品そのものをも否定する。
さてさて、むずかしい問題である。
ブワディスワフ・ストゥシェミンスキを知らない。
ということもあって、★3個。
ブワディスワフ・ストゥシェミンスキに詳しい人の感想を聞きたい。
欲を言うと。
先に書いたことと関係があるのだが、「色」の変化が「赤」と「青」を通して描かれるのだが、もう少し他の「色」の変化も視覚化してほしかった。
たえば、主人公に思いを寄せる女子学生の「視覚」のなかで「色」はどうかわったか。彼女は、どう「色」を変えることを知っていたか。あるいは主人公の友人の詩人の「視覚」のなかで「色」はどう変わったか。そういうものを描いてほしかった。
タイトルには「黄色」が有効につかわれていたが、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキにとって「黄色」は重要な色なのか。それは何を「認識」したものなか。そういうことも気になった。
(KBCシネマ1、2017年07月02日)
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