安水稔『甦る』(編集工房ノア、2017年07月01日発行)
安水稔『甦る』の巻頭の作品、「水の上」。
人は水の上に座る(浮かぶ)ことはできない。でも、水の上に座っている「情景」は想像できる。目を閉じている人の姿を想像できるし、自分が水の上に座っている姿を想像してみることもできる。
「ここに いま」という作品では、こう書かれる。
「水の上」と似た感じ。
実際にはこういうことはできないのだが、想像のなかでこういうことができる。これは、どういうことなんだろう。
「ここに いま」とタイトルは言う。
想像するとき、その想像したことが「ここ」「いま」になる。
それは「現実」の「ここ」でもないし、「いま」でもないのだが。
どうして、それが「つながる」のか。
そう思いながら読んでいく。「鳥よ」という作品に出会う。
この書き出し、「ここはどこなのか」という問いはむずかしい。矛盾がある。どうして、「ここ」とわかるのか。二行目の「いる」という動詞が手がかりになる。「私がいる」。「いる」ということを実感しているから「ここ」が「ここ」になる。「私のいるところ」が「ここ」なのだ。「私がいるが、どこかわからない」。「ここ」を省略して、そう言いなおすことができる。
こういうことは、実際に「旅先」などでは誰もが経験する。
でも、安水の書いていることは、そういうことではない。
「私」とは実感していない。
「ここ」だけが、わかる。「ここ」がどこかはわからず、ただ「ここ」だけがある。そのことが、わかる。
そう書かれている「ここ」が、ふいに、「水の上」「木のなか」に思えてくる。そんな「ところ(場)」に人はいることができない。存在できない「場」。でも、「ここ」と感じ、「ここ」で感じたことを安水は書いていたのだ。
でも、それは「だれ」だったのか。
わからない。わからないけれど、「ここ」が「水の上」、「ここ」が「木のなか」とわかったのだ。
これは、どういうことなのだろうか。
「見上げる」という動詞の主語は「私」。でも、そのあとの動詞は、「私」ではないものの動き。あえて「私」を補うと、「空がある」のを感じる。「空がある」とわかる。その空が「うすい」と感じる、あるいはわかる。「感じる/わかる」という「動詞」を通して、「私」が「空」になり、「雲」になり、「陽」になり、「影」にもなる。
それって、どこのこと?
きっと「これ」が「ここ」なのだ。
「ある場所の位置」ではなく、そこで何かが「起きる」。そこが「ここ」。
「水の上に」座る。「木のなかに」座る。「座る」という「動詞」が動いている。そこが「ここ」になる。それは「私」という存在の「あり方」なのだ。
空を見上げる、うすいと感じる。雲が流れていくのを感じる、陽が指してくるのを感じる。影にも気づく。その「感受性/認識」が「私」であり、「ここ」である。「私」と「ここ」は同一のものである。
ここから詩は展開する。ひろがっていく。あるいは、深くなっていく。
「ここにしかいられなくなった」は、いつでも「私」が「ここ」になるということだ。その「ここ」と「私」の一体化は、次のように言い換えられる。
「甦る/八階西病棟 六編」のなかの「そのまま」。
「ここ」と「私」の「一体化」とは、「そのまま」。「水の上に」座っている。「木のなかに」座っている。「そのまま」。そのままとしかいいようのない「場」がある。私は感じ、私は認識する。そこに起きていることを「そのまま」に。
どうすることもできない。
いや、できることはあるかもしれない。しかし、それは季村敏夫が「日々の、すみか』で書いたように、遅れてやってくる。感じや認識が「遅れてやってくる」。だから、「そのまま」、待っているしかない。そのとき、「いる」ということが「生きる」ということなのだ。どんなふうにして「いる」のか。「そのまま」いるのである。
これでは同義反復か。
でも、同義反復しかできないこともある。「いま/ここ」に「いる」。「そのまま」に。「そのまま」は「変わらない」ということでもある。
「生きつづける」という作品で、こう言いなおされている。
変わらないものは、なくした記憶である。失ったということを、忘れない。それが「ここ」であり、「ここ」にいると失ったものが「ここ」にあらわれる。そのままの姿で。それが「ここ」なのだ。
安水稔『甦る』の巻頭の作品、「水の上」。
水の上に座って
目を閉じていると。
たぷ たぷ たぷ
まわりが波立ち
膝の下を横切る影が。
人は水の上に座る(浮かぶ)ことはできない。でも、水の上に座っている「情景」は想像できる。目を閉じている人の姿を想像できるし、自分が水の上に座っている姿を想像してみることもできる。
「ここに いま」という作品では、こう書かれる。
木のなかに座って
外を見ていると
ものの形が横切る。
鳥の影が
人の影も 次々と。
「水の上」と似た感じ。
実際にはこういうことはできないのだが、想像のなかでこういうことができる。これは、どういうことなんだろう。
「ここに いま」とタイトルは言う。
想像するとき、その想像したことが「ここ」「いま」になる。
それは「現実」の「ここ」でもないし、「いま」でもないのだが。
どうして、それが「つながる」のか。
そう思いながら読んでいく。「鳥よ」という作品に出会う。
ここはどこなのか
ここにいるのだが。
ここにいるのは
なにものなのか。
この書き出し、「ここはどこなのか」という問いはむずかしい。矛盾がある。どうして、「ここ」とわかるのか。二行目の「いる」という動詞が手がかりになる。「私がいる」。「いる」ということを実感しているから「ここ」が「ここ」になる。「私のいるところ」が「ここ」なのだ。「私がいるが、どこかわからない」。「ここ」を省略して、そう言いなおすことができる。
こういうことは、実際に「旅先」などでは誰もが経験する。
でも、安水の書いていることは、そういうことではない。
ここにいるのは
なにものなのか。
「私」とは実感していない。
「ここ」だけが、わかる。「ここ」がどこかはわからず、ただ「ここ」だけがある。そのことが、わかる。
そう書かれている「ここ」が、ふいに、「水の上」「木のなか」に思えてくる。そんな「ところ(場)」に人はいることができない。存在できない「場」。でも、「ここ」と感じ、「ここ」で感じたことを安水は書いていたのだ。
でも、それは「だれ」だったのか。
わからない。わからないけれど、「ここ」が「水の上」、「ここ」が「木のなか」とわかったのだ。
これは、どういうことなのだろうか。
見上げると空
うすい空があって。
雲が流れて陽がさして
小さな影が落ちてきて。
「見上げる」という動詞の主語は「私」。でも、そのあとの動詞は、「私」ではないものの動き。あえて「私」を補うと、「空がある」のを感じる。「空がある」とわかる。その空が「うすい」と感じる、あるいはわかる。「感じる/わかる」という「動詞」を通して、「私」が「空」になり、「雲」になり、「陽」になり、「影」にもなる。
それって、どこのこと?
きっと「これ」が「ここ」なのだ。
「ある場所の位置」ではなく、そこで何かが「起きる」。そこが「ここ」。
「水の上に」座る。「木のなかに」座る。「座る」という「動詞」が動いている。そこが「ここ」になる。それは「私」という存在の「あり方」なのだ。
空を見上げる、うすいと感じる。雲が流れていくのを感じる、陽が指してくるのを感じる。影にも気づく。その「感受性/認識」が「私」であり、「ここ」である。「私」と「ここ」は同一のものである。
ここから詩は展開する。ひろがっていく。あるいは、深くなっていく。
そうだった あれから
ここにしかいられなくなったのだ。
立って座って立って
目を見開いてここにいる。
「ここにしかいられなくなった」は、いつでも「私」が「ここ」になるということだ。その「ここ」と「私」の一体化は、次のように言い換えられる。
「甦る/八階西病棟 六編」のなかの「そのまま」。
折れて砕けた骨
流れて止まらない血。
そのまま。
波打って動けない体
激しく揺れて動かない心。
そのまま。
「ここ」と「私」の「一体化」とは、「そのまま」。「水の上に」座っている。「木のなかに」座っている。「そのまま」。そのままとしかいいようのない「場」がある。私は感じ、私は認識する。そこに起きていることを「そのまま」に。
どうすることもできない。
いや、できることはあるかもしれない。しかし、それは季村敏夫が「日々の、すみか』で書いたように、遅れてやってくる。感じや認識が「遅れてやってくる」。だから、「そのまま」、待っているしかない。そのとき、「いる」ということが「生きる」ということなのだ。どんなふうにして「いる」のか。「そのまま」いるのである。
これでは同義反復か。
でも、同義反復しかできないこともある。「いま/ここ」に「いる」。「そのまま」に。「そのまま」は「変わらない」ということでもある。
「生きつづける」という作品で、こう言いなおされている。
十年一昔と言うから、二十年なら二昔か。
十年経てばすっかり変わってしまって、二十
年だとそれはもうなにもかも。でもね。十年
一日とも言うよね。十年経っても、二十年経
っても、変わらないものは変わらない。
変わらないものは、なくした記憶である。失ったということを、忘れない。それが「ここ」であり、「ここ」にいると失ったものが「ここ」にあらわれる。そのままの姿で。それが「ここ」なのだ。
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谷内 修三 | |
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