詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉田嘉彦『華茎水盤』

2017-07-14 09:56:17 | 詩集
吉田嘉彦『華茎水盤』(思潮社、2017年06月30日発行)

 私は「意味」が嫌いである。「意味の領域」が嫌いと言いなおした方がいいかもしれない。
 たとえば吉田嘉彦『華茎水盤』の「花」。

花が何かを引き起こすことはあるのだろうかと聞かれたら
私は畏れながら「ある」と答える
ある花を見た前後では 私は違う人間になる
花が突然行う世界の転換に対する準備ができている者はいない
我々は当惑するだけだ
しかし本当にいきるということについては
「準備」は錯覚でしかない
愛にも死にも準備はできない

 「ある花を見た前後では 私は違う人間になる/花が突然行う世界の転換に対する準備ができている者はいない」という二行はとても魅力的だ。ここには吉田がことばにする前には存在しなかったものが噴出してきている。それは「意味」をもとめているというか、「意味」になろうとしている。こういう動きは、私は大好きだが。
 その直前の

私は畏れながら「ある」と答える

 この「畏れる」が嫌いだ。「意味の領域」を限定している。吉田が「畏れ/畏れる」を書きたかったのは「理解できる」。「畏れ」という感情、「畏れる」という動詞こそが吉田のキーワードであると「理解できる」。
 でも、詩は「理解する」ものではない。むしろ「理解できない」ものである。
 この「理解できない」は、吉田のことばを借りて言えば「当惑する」でもある。さらに言いなおせば「準備ができていない」ということでもある。
 「準備」あるいは「準備する」とは、どういうことか。これもまあ、よくわからないことではあるのだが、わからないからこそ、吉田は「準備」ということばをなんども言いなおそうとしている。ここに吉田の「正直」が出ていて、ここもとても惹かれる。吉田が、ことばにならないことをことばに結晶させようともがいている感じが切実で、美しい。
 こういう瞬間、何かに刺戟され、その前で自分のそれまでもっていたものをすべて捨て去り、もう一度生まれ変わろうとする動きを「畏れ」というのだと思う。
 だからこそ、それを「畏れ」はいう形で表現してしまってはいけない。「畏れ」ということばを最初に出してしまうと、それにつづくことばは「畏れ」という「意味の領域」のなかで整えられてしまう。それは「畏れ」という「意味」で世界を覆ってしまうということだ。これでは、「ある花を見た前後で」以下を書く必要がないというか、私は読む必要がないと感じてしまう。
 「畏れ」ということばがない方が、読者は「畏れ」を直接体験することができる。「畏れ」ということばがあると、「畏れ」は既存のものとして見えてしまう。体験することができない。
 「畏れ」ということばがないと、読者が「畏れ」を発見できるかどうかわからない。というのは確かにそうだが、吉田の詩を読むことで読者が発見したものが「畏れ」でなくてもいいではないか。読者が吉田を「誤読」したっていいではないか。「誤読」することで「交流」がある。
 それは再び吉田のことばを借りて言いなおせば「吉田の詩を読んだ前後で 私(読者)は違う人間になる」ということである。同時に「読者に読まれた前後で 吉田の詩は違う詩になる」ということでもある。
 「意味の領域」を吉田が限定してしまっては、こういう「交流」は起きようがない。

 「樹を前に」という作品の書き出しもとても魅力的だ。

近くの団地の中に
二階建ての家よりも大きな樹が何本もある
そういった樹との関係をうまく結べない

 この「関係をうまく結べない」も、「畏れ」に通じるものだろう。「関係を結ぶ」前に、自分自身を整えないといけない。その「困惑」のようなものがある。
 でも、そのあとに、

多分大きなカテドラルよりも難しい

 こういう行がくると、「カテドラル」が「意味の領域」を限定してしまう。吉田は「カテドラル」を「人が造ったもの」と言いなおしているが、さて、「樹(自然)」と対比するときの「人工」が「カテドラル」であるというのは、どういうことだろうと、私はつまずいてしまう。
 吉田はキリスト教徒なのだろうか。あるいは、吉田はカテドラルが「日常」として存在する街に住んでいるのだろうか。そういうことも気になる。詩の全体の中には「カテドラル」の「意味の領域」が見当たらない。私には見つけられない。それなのに、ここで「カテドラル」が「意味の領域」を要求してくることに、私は身構えてしまう。言いなおすと、吉田の詩の中へ入っていく気持ちが消えてしまう。



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自民党の情報操作(加計学園問題)

2017-07-14 08:57:23 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の情報操作(加計学園問題)
               自民党憲法改正草案を読む/番外106 (情報の読み方)
 2017年07月14日読売新聞(西部版・14版)2面。

首相出席で閉会中審査/加計問題 自民 一転応じる方針

 見出しだけ読めばわかる内容である。「首相の出席には慎重論もあったが、内閣支持率が続落する中、首相自ら説明責任を果たす必要があると判断した。」と記事には書いてあるが、前回の国会閉会中審査では野党の追及が「不発」だったため、これなら追及をかわせる。新しい「資料」が出てくる前に安倍が国会で説明したという「事実」をつくってしまえ、ということだろう。

首相が「自分で国会に説明する意思がある」と受け入れるよう指示した。

 という文章も見える。追及をかわせるという「自信」を持ったということだろう。

 この記事で私が注目したのは、次の部分。

 竹下氏(自民党国会対策委員長)は野党に手厚く配分される質問時間の割り振りを与野党で均等にすることが開催の前提条件になると主張する方針だ。

 これは「情報操作」のひとつである。与野党の時間を均等にというのは、「平等」のようだが、あるいは「偏っていない」ようだが、疑惑追及の場合、見かけの「算数」基準にしてはいけない。
 加計学園の獣医学部新設に安倍がどう関与しているか、関与していないか。疑問解明のための審議なのに、疑問を追及する側の時間が少ないのは、逆に「不公平」である。疑問を「肯定意見」で覆い隠すためのショーになってしまう。
 安倍がよく口にする「ていねいに説明する」というのは、理解してもらえるまで、時間をかけて説明するということだろう。時間を限るということは、「ていねいに説明する」に反する。
 民主主義というのは少数の意見に耳を傾ける。意見の多様性を認めるということが基本にある。一人でも疑問に思うに人間がいるなら、その一人の疑問にもていねいに答える責任が安倍にはある。
 「12人の怒れる男」を思い起こしてみよう。一人の男の疑問が、「事実」を明るみにだし、「結論」をひっくり返すのだ。少数の疑問に、どこまでていねいに答えるか。
 だいたい、疑問をもっている人間はすでに「少数」ではない。世論調査でも多くの国民が安倍の姿勢に疑問をもっている。与野党均等という時間配分の根拠は存在しない。「12人の怒れる男」を例に言えば、すでに「疑問派」が過半数を超えている。与党の時間を少なくしても国民は反発しないだろう。野党の質問時間が制限されることに対して反発するだろう。

 4面には、こういう文章も見える。

首相周辺は「正々堂々と規制改革の意義を説明すればいい」と話している。

 ここにすでに「集中審議」での安倍の説明内容(作戦)が書かれている。「規制改革の意義」をひたすら繰り返し語るというのである。問題点をすりかえ、ただひたすら「説明した」という事実づくりのために「集中審査」を開こうとしている。
 問題は、野党が追及しているのは「規制改革の意義」ではない。「規制改革」を進めるときに、どのような手続きが取られたか。実際の審議の前の「根回し」のとき、どんな圧力が動いたか、ということである。
 与党は「新資料」は出て来ないと安心しきっている。
 しかし、安倍から提出された「ビッグ資料」がひとつある。「獣医学部を、全国に、二つでも三つでもつくればいい」という発言である。この発言からは、獣医師の需要と供給、獣医師の地域偏在をどう解決するかという視点が欠けている。言い換えると、前川が問題提起した「4条件」への考察が完全に欠如している。ここから逆に、加計学園の獣医学部新設が「4条件」を無視することで進められていることが「証明」できる。
 安倍の発言そのものが「新資料」なのである。前回は安倍が出席していなかったから、安倍を追及できなかった。野党は、安倍の発言をもとに、疑惑の突破口を開いてもらいたい。

 

#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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