吉田嘉彦『華茎水盤』(思潮社、2017年06月30日発行)
私は「意味」が嫌いである。「意味の領域」が嫌いと言いなおした方がいいかもしれない。
たとえば吉田嘉彦『華茎水盤』の「花」。
「ある花を見た前後では 私は違う人間になる/花が突然行う世界の転換に対する準備ができている者はいない」という二行はとても魅力的だ。ここには吉田がことばにする前には存在しなかったものが噴出してきている。それは「意味」をもとめているというか、「意味」になろうとしている。こういう動きは、私は大好きだが。
その直前の
この「畏れる」が嫌いだ。「意味の領域」を限定している。吉田が「畏れ/畏れる」を書きたかったのは「理解できる」。「畏れ」という感情、「畏れる」という動詞こそが吉田のキーワードであると「理解できる」。
でも、詩は「理解する」ものではない。むしろ「理解できない」ものである。
この「理解できない」は、吉田のことばを借りて言えば「当惑する」でもある。さらに言いなおせば「準備ができていない」ということでもある。
「準備」あるいは「準備する」とは、どういうことか。これもまあ、よくわからないことではあるのだが、わからないからこそ、吉田は「準備」ということばをなんども言いなおそうとしている。ここに吉田の「正直」が出ていて、ここもとても惹かれる。吉田が、ことばにならないことをことばに結晶させようともがいている感じが切実で、美しい。
こういう瞬間、何かに刺戟され、その前で自分のそれまでもっていたものをすべて捨て去り、もう一度生まれ変わろうとする動きを「畏れ」というのだと思う。
だからこそ、それを「畏れ」はいう形で表現してしまってはいけない。「畏れ」ということばを最初に出してしまうと、それにつづくことばは「畏れ」という「意味の領域」のなかで整えられてしまう。それは「畏れ」という「意味」で世界を覆ってしまうということだ。これでは、「ある花を見た前後で」以下を書く必要がないというか、私は読む必要がないと感じてしまう。
「畏れ」ということばがない方が、読者は「畏れ」を直接体験することができる。「畏れ」ということばがあると、「畏れ」は既存のものとして見えてしまう。体験することができない。
「畏れ」ということばがないと、読者が「畏れ」を発見できるかどうかわからない。というのは確かにそうだが、吉田の詩を読むことで読者が発見したものが「畏れ」でなくてもいいではないか。読者が吉田を「誤読」したっていいではないか。「誤読」することで「交流」がある。
それは再び吉田のことばを借りて言いなおせば「吉田の詩を読んだ前後で 私(読者)は違う人間になる」ということである。同時に「読者に読まれた前後で 吉田の詩は違う詩になる」ということでもある。
「意味の領域」を吉田が限定してしまっては、こういう「交流」は起きようがない。
「樹を前に」という作品の書き出しもとても魅力的だ。
この「関係をうまく結べない」も、「畏れ」に通じるものだろう。「関係を結ぶ」前に、自分自身を整えないといけない。その「困惑」のようなものがある。
でも、そのあとに、
こういう行がくると、「カテドラル」が「意味の領域」を限定してしまう。吉田は「カテドラル」を「人が造ったもの」と言いなおしているが、さて、「樹(自然)」と対比するときの「人工」が「カテドラル」であるというのは、どういうことだろうと、私はつまずいてしまう。
吉田はキリスト教徒なのだろうか。あるいは、吉田はカテドラルが「日常」として存在する街に住んでいるのだろうか。そういうことも気になる。詩の全体の中には「カテドラル」の「意味の領域」が見当たらない。私には見つけられない。それなのに、ここで「カテドラル」が「意味の領域」を要求してくることに、私は身構えてしまう。言いなおすと、吉田の詩の中へ入っていく気持ちが消えてしまう。
私は「意味」が嫌いである。「意味の領域」が嫌いと言いなおした方がいいかもしれない。
たとえば吉田嘉彦『華茎水盤』の「花」。
花が何かを引き起こすことはあるのだろうかと聞かれたら
私は畏れながら「ある」と答える
ある花を見た前後では 私は違う人間になる
花が突然行う世界の転換に対する準備ができている者はいない
我々は当惑するだけだ
しかし本当にいきるということについては
「準備」は錯覚でしかない
愛にも死にも準備はできない
「ある花を見た前後では 私は違う人間になる/花が突然行う世界の転換に対する準備ができている者はいない」という二行はとても魅力的だ。ここには吉田がことばにする前には存在しなかったものが噴出してきている。それは「意味」をもとめているというか、「意味」になろうとしている。こういう動きは、私は大好きだが。
その直前の
私は畏れながら「ある」と答える
この「畏れる」が嫌いだ。「意味の領域」を限定している。吉田が「畏れ/畏れる」を書きたかったのは「理解できる」。「畏れ」という感情、「畏れる」という動詞こそが吉田のキーワードであると「理解できる」。
でも、詩は「理解する」ものではない。むしろ「理解できない」ものである。
この「理解できない」は、吉田のことばを借りて言えば「当惑する」でもある。さらに言いなおせば「準備ができていない」ということでもある。
「準備」あるいは「準備する」とは、どういうことか。これもまあ、よくわからないことではあるのだが、わからないからこそ、吉田は「準備」ということばをなんども言いなおそうとしている。ここに吉田の「正直」が出ていて、ここもとても惹かれる。吉田が、ことばにならないことをことばに結晶させようともがいている感じが切実で、美しい。
こういう瞬間、何かに刺戟され、その前で自分のそれまでもっていたものをすべて捨て去り、もう一度生まれ変わろうとする動きを「畏れ」というのだと思う。
だからこそ、それを「畏れ」はいう形で表現してしまってはいけない。「畏れ」ということばを最初に出してしまうと、それにつづくことばは「畏れ」という「意味の領域」のなかで整えられてしまう。それは「畏れ」という「意味」で世界を覆ってしまうということだ。これでは、「ある花を見た前後で」以下を書く必要がないというか、私は読む必要がないと感じてしまう。
「畏れ」ということばがない方が、読者は「畏れ」を直接体験することができる。「畏れ」ということばがあると、「畏れ」は既存のものとして見えてしまう。体験することができない。
「畏れ」ということばがないと、読者が「畏れ」を発見できるかどうかわからない。というのは確かにそうだが、吉田の詩を読むことで読者が発見したものが「畏れ」でなくてもいいではないか。読者が吉田を「誤読」したっていいではないか。「誤読」することで「交流」がある。
それは再び吉田のことばを借りて言いなおせば「吉田の詩を読んだ前後で 私(読者)は違う人間になる」ということである。同時に「読者に読まれた前後で 吉田の詩は違う詩になる」ということでもある。
「意味の領域」を吉田が限定してしまっては、こういう「交流」は起きようがない。
「樹を前に」という作品の書き出しもとても魅力的だ。
近くの団地の中に
二階建ての家よりも大きな樹が何本もある
そういった樹との関係をうまく結べない
この「関係をうまく結べない」も、「畏れ」に通じるものだろう。「関係を結ぶ」前に、自分自身を整えないといけない。その「困惑」のようなものがある。
でも、そのあとに、
多分大きなカテドラルよりも難しい
こういう行がくると、「カテドラル」が「意味の領域」を限定してしまう。吉田は「カテドラル」を「人が造ったもの」と言いなおしているが、さて、「樹(自然)」と対比するときの「人工」が「カテドラル」であるというのは、どういうことだろうと、私はつまずいてしまう。
吉田はキリスト教徒なのだろうか。あるいは、吉田はカテドラルが「日常」として存在する街に住んでいるのだろうか。そういうことも気になる。詩の全体の中には「カテドラル」の「意味の領域」が見当たらない。私には見つけられない。それなのに、ここで「カテドラル」が「意味の領域」を要求してくることに、私は身構えてしまう。言いなおすと、吉田の詩の中へ入っていく気持ちが消えてしまう。