詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『哲学の骨、詩の肉』

2017-07-07 09:49:45 | 詩集
野村喜和夫『哲学の骨、詩の肉』(思潮社、2017年06月30日発行)

 野村喜和夫『哲学の骨、詩の肉』の帯にハイデガー、シャール、ツェラン、ニーチェ、朔太郎と哲学者、詩人の名前が出てくる。私は朔太郎を教科書で読んだことがあるが、ほかは知らない。
 だからなのだと思うが、読んでも何が書いてあるか、わからない。わからないのだけれど、気になるところがある。

 ランボーに触れた部分である。ランボーは若いときに読んだ記憶がある。ページをめくってかっこいいことばを探し、コピーした(盗作した)ことがあると言った方がいいか。
 「私とは一個の他者です」「私とはひとつの他者なのです」ということばをめぐって書かれている部分で、私はつまずいた。

フランス語を解さない人のために付言しておくと、je est un autre  というのは文法的に間違いで、正しくはje suis un autreと言わなければならない。

 ほんとう? 
 野村によれば問題のことばは別人にあてた手紙に出てくるそうである。つまり二回書かれている。二回ともランボーが間違えた?
 まさか。
 「正しくは」というのは、野村の「誤読」ではないのか。
 私はフランス語を知らないので、私の方が間違っているのだろうが、間違いを承知で書いてみる。
 je est un autre とje suis un autreは、まったく別のことを指し示さないか。
 je est un autre は、だれの訳かはわからないが「私とは一個の他者です」「私とはひとつの他者なのです」であるのに対し、je suis un autreは「私は一個の他者です/私はひとつの他者です」という「訳」になるのではないのか。
 「私とは」か「私は」か。そこに違いがある。
 言いなおすと「私とは」とは「主語」ではなく「テーマ」である。je est un autre というときの「je」は「私」という「主語」ではなく「テーマ」(主題)である。テーマであるから、動詞は三人称単数の形で活用している。
 どこの国のことばでもそうだが、述語(動詞)を基本に文章を見ていかないと、意味を取り違えるのではないだろうか。
 「je」を「私」という「主語」ととらえてしまうと、「 est」という活用が奇妙に感じられる。でも、「je」が「私」ではなく「テーマ」を指し示しているのだとしたら「 est」という表現でいいのではないか。テーマを語るとき「 est」という形をつかわないのなら「je」はテーマにならないが……。

 どこの国のことばでも「主語」と「テーマ」の区別はむずかしい。しかし、だれが訳したか知らないが、「私とは一個の他者です」「私とはひとつの他者なのです」は、ともに「私は」ではなく「私とは」と訳されている。この「とは」が主語ではなくテーマであることを明示していると思うのだが。

 で、ここから少し話をずらすのだが。
 野村はネルヴァル(私は読んだことがない)のje suis l'autre (私は別人だ)引用している。そして、いろいろ言っているのだが、私には何のことかわからなかった。
 わからなかったが、やっぱり気になってしようがないことがある。
 私はフランス語を知らない。野村はフランス語を知っている。だから野村の書いていることが「正しい」のだろうけれど、
 「l'autre 」と「 un autre 」は違うものではないだろうか。
 訳は「別人」「他人」となっているが。
 私が注目するのは「他人/別人」の前にある冠詞。「le」は定冠詞。「un」は不定冠詞。冠詞というものが日本語にないために、どうもわかりにくいが、つかいわける国のことばは、そのことばをつかうひとは、きっと明確に意識していると思う。
 私は日本語しか話さないから「誤解」しているのだろうけれど、私の「感じる」範囲で言えば、不定冠詞は「もの/実在」を指し示すのに対し、定冠詞は「観念/概念/意識」を指し示す。定冠詞がつけられると、それにつづく「もの」は「もの」であると同時に「意識されたもの」になる。そのことばを使う人の意識が「もの」についてまわっている。「もの」だけれど「もの」そのものではなく「観念/意識」であると思う。
 ランボーがje est un autre と言ったとき、「 un autre 」はまだ「意識」になっていない。なんだかわからないもの。そこに「ある」。そこに「出現してきた」もの。
 「我思う、ゆえに我あり」のような「主体」ではない。「動詞」を従える存在ではなく、「動詞(ある)」が浮かび上がらせる「未知なる存在」なのではないか。この場合の「未知」というのは、あくまでも彼自身の「観念/意識」によってとらえられていない存在ということである。

 だから(とここで、私は飛躍する)。

 野村はまた井筒俊彦にも言及している。井筒俊彦も、私にはよくわからないが、井筒は「分節/無分節」ということを書いていたと思う。(私は「無分節」がわからなくて、「未分節」と「誤読」するのだけれど。)
 その井筒の書いている「無分節」と「分節」の違いは、私には「不定冠詞」と「定冠詞」の違いに通じるように思う。「無分節」とは「無意識」、「分節」とは「意識化」と考えると、ヨーロッパの言語の不定冠詞、定冠詞のつかい方に通じないだろうか。
 これは日本語しか知らない人間の「誤読」なのだが。
 「もの」が「分節」されずに、そこにある。そこにある「もの」が意識化されて、つまり分節化されて姿をあらわすという、その「変化」を区別する「印」が「定冠詞」だと私は感じている。
 「定冠詞」つきで語るとき、そこには「もの」があるだけではなく、その「のも」への「思い」がある。
 ネルヴァルが「je suis l'autre 」と「定冠詞」つきで語るとき、そこにはネルヴァルが知っている(意識している)ということが含まれる。つまり、私が言っているのは、ランボーが言語化した「autre 」です、と。このとき「je」はテーマではなく、あくまでも「主語」(考える人)である。ネルヴァルはネルヴァル自身をランボーの語った「他人」であると定義している。

 私は野村が取り上げている哲学者や詩人のことばを読んだことがない。読んだことがないにもかかわらず、野村が書いている文章を読むと、非常にひっかかる。
 「正しく」読むことができない。
 納得して、受け入れるということができない。



 関連して書いておくと。
 野村はフランス語の il y a (ある)という「構文(?)」を取り上げている。英語のthere is に対応する(らしい)。その「ある」がフランス語では「il」を主語にして「avoir 」(持つ)という動詞をいっしょになっている。英語の「be」動詞にあたる「etre」がつかわれないと、フランス語の独自性を強調している。そこからまた、フランス人哲学者のあれこれが書かれているが、私は、やっぱり読んだことがないのでわからないのだが。
 うーん。
 どんなことばでも独自の言い回しはあるだろうなあ。
 それはさておいて。
 私が気になるのは、野村の説明がもっぱら「il」「a (avoir )/持つ」「is(be)/ある」に集中していることである。「y 」「there 」は問題にしなくていいの?
 「y 」「there 」も日本語にはとても訳しにくいと思う。

Il y a une pomme sur la table
There is an apple on the table

 ともに「テーブルの上にリンゴがある」と訳せるが、そのとき日本語は「y 」「there 」にことばを割り当てていない。省略している。あるいは無視していると言ってもいいかもしれない。
 たぶん、フランス語、英語を話すネイティブも意識しないと思う無意識で「y 」「there 」を使うと思う。
 フランスの街角で耳をすますと「アロンジィ」とか「オニヴァ」とか聞こえてくる。「ジヴェ」という声も聞く。そのときの「y 」って、どこ? どこへ行くつもり?と聞いたら、きっとフランス人はびっくりするだろうなあ。言えないことはないだろうけれど、「無意識」。
 日本語だって「さあ、行こう(さあ、やろう)」とか「私は行く」と平気で言う。「どこへ」は言わない。「何を」とは聞かない。「無意識」が共有されている。
 この「無意識」の共有が、ことばを動かしている、ということはないだろうか。
 だから。
 ねえ、野村さん、「a (avoir )/持つ」「is(be)/ある」というような「明確に意識できる違い」ではなく、「無意識」に分け入って、そこで動いているものを説明してくださいよ、と言いたくなる。「無意識」に分け入っていかないのなら、それは文法のハウツー本になってしまわない?
哲学の骨、詩の肉
野村 喜和夫
思潮社
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