詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「おごったり、おごられたり」(論理、倫理、生理)

2017-07-25 11:03:37 | 自民党憲法改正草案を読む
「おごったり、おごられたり」(論理、倫理、生理)
               自民党憲法改正草案を読む/番外109 (情報の読み方)
 2017年07月24日の衆院閉会中審査で、加計学園理事長との関係を問われて、安倍は「おごったり、おごられたり」の関係だと語った。これを新聞は、どう書いているか。
 読売新聞2017年07月25日朝刊(西部版・14版)を読んでみる。
 三面に、民進党・大串の質問に対する答えとして、

「何か頼まれてごちそうされたことは一切ない」

 という部分だけが、記事として書かれている。
 やりとりの「図」では

安倍「学生時代からの友人。自分のゴルフ代は自分で払っている。食事代は先方が持つ場合もある」
大串「国家公務員は倫理規定で利害関係社とゴルフが禁止されている。大問題だ」

 とある。
 七面の「詳報」は、

大串氏「昨年の夏以降、極端に理事長とのコンタクトが増えている。食事やゴルフ料金は首相がちゃんと持っているのか」
首相「私のプレー代は私が払っている。食事代については友人関係なので私がごちそうすることもあるし、先方が持つ場合もあるが、何か頼まれてごちそうされたということは一切ない」
大串氏「国家公務員は権力関係にある人と食事をしてはいけない倫理規定がある」

 表現に「微妙」なずれがある。
 同時に、ここには「書かれていない」こともある。「記事」だけではわからないものがある。
 読売新聞の「詳報」は「食事代については友人関係なので私がごちそうすることもあるし、先方が持つ場合もあるが、何か頼まれてごちそうされたということは一切ない」と「一文」で書かれているが、これはここに書かれているように、すらすらと語られたことばなのか。
 「先方が持つ場合もある」と聞けば、たいていの議員は驚く。声を上げる。みんなが騒いだので、安倍は大慌てで「何か頼まれてごちそうされたということは一切ない」と付け加えたのではないのか。「弁明」「釈明」の匂いを感じる。
 「何か頼まれて」という表現が、「大慌て」の感じを含んでいる。
 だいたい加計学園獣医学部の新設には巨額の金が動く。食事をおごるくらいで巨額の補助金が入るのなら、だれだって食事代くらいおごるだろう。そういうチャンスがあるなら、だれだって食事代くらい出す。
 ここで問われているのは、「倫理」なのである。
 「友人感覚」をひきずったまま、国家戦略特区の責任者と、その認可を求める人が、おごったり、おごられたりする。しかも審議が佳境に入るところで、「なあなあ」のつきあいをしている。
 政治と交遊関係の区別ができていない。首相の「適格性」に問題がある。それが証明されたのである。
 「何か頼まれてごちそうされたということは一切ない」という付け足しは、何の弁明にもなっていない。むしろ、付け足すことで、ごまかそうとする安倍の姿勢が露骨に出たものだといえる。わざわざそういうことばを追加するのは「何かを頼まれた」という証拠でもある。頼まれたことがないなら、そういう弁明を思いつかない。こういうことを、私たちは「論理」ではなく「肉体」で知っている。「生理」でつかんで生きている。

 このあと、この安倍発言を、どう問い詰めていくか。
 問い詰めるのではなく、安倍と加計が「なあなあ」の関係であるということを知らせるためにどんどん口コミで広げればいい。
 東京都議選での「こんな人たちに負けるわけにはいかない」という安倍のことばは、新聞では一面の見出しにならなかった。小さく書かれていたに過ぎない。けれど、国民の感情に直接訴える力を持っていた。安倍は批判する人間を「こんな人たち」と否定的に呼ぶ。こういう問題は、「論理的」に説明しなくてもいい。だれもがわかる。
 同じように「おごったり、おごられたり」という感覚も、国民に直接的にわかる。だれもがしていることだから。そのだれもがしていることを、安倍が政治でやっている。しかも、そこで動いている金は巨額であり、国民の税金である。
 国民の生の反感を呼び覚ます力を持っている。
 「論理」よりも「生の反感」の方が強い。
 こういう力を組織化する方法を野党は持っていない。
 いったい何回ゴルフをし、何回おごり、何回おごられたのか。具体的に問い詰めていけばいい。そのときの金はポケットマネー? コンビニで買うジュース(甘夏ちゃんだっけ)さえ自腹を切らない安倍がゴルフの食事代をポケットマネーで払うか。領収書はあるのか。また加計の方はどうか。接待経費として処理していないか。領収書はどうなっているか。そういう国民が身近に感じられる「金額」と「証拠」を積み重ねて、安倍と加計の「なあなあ」が、そのまま政治の場で巨額の金を動かしているということを明るみに出す必要がある。
 安倍は「友人」のために政治を利用している、政治を私物化しているということがわかる。



 興味深い点はほかにもある。

 前愛媛県知事・加戸「今治市にとって、黒い猫でも白い猫でも獣医学部を作ってくれる猫が一番良い猫というのが純粋な気持ちだ」

 「黒い」「白い」が何を意味するかわからないが、一般に「黒い」には否定的なニュアンスがある。「黒/白」とわざわざふたつ対比させるということは、加戸には加計学園が「黒」という認識があるということだろうか。
 でも、なぜ獣医学部?
 今治市を活性化する(学生を呼び込む)というのなら獣医学部でなくてもいいのでは? だいたい今治市って、獣医学部を必要とするくらいの「畜産市」なのか。
 四国に獣医学部がないとしても、別に今治市に獣医学部が必要ということにはならないだろう。
 この加戸の発言でも「黒い猫でも白い猫でも」という非論理的な、生の感覚を刺戟することばを、もっと不正を暴く場に活用してもらいたい。そうすると、国民はその場に直接入って行ける。巧みに仕組まれた「言い訳」を「生理」の怒りが突き破る。
 生理的な怒りを呼び覚まし、それを同時に組織化する、ということが必要なのだと思う。


#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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安倍の「ほんとう」のことば

2017-07-25 00:11:39 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の「ほんとう」のことば
               自民党憲法改正草案を読む/番外109 (情報の読み方)
 衆院閉会中審査が2017年07月24日に開かれた。加計学園の獣医学部新設をめぐる疑惑解明のためである。
 この日の朝日新聞夕刊(西部版・4版)の見出し。

首相「加計計画 選定後知った」

 読売新聞夕刊(西部版・4版)の見出し。

加計側依頼 首相「なかった」

 おそらく誰も安倍の言っていることを信じないだろう。嘘だと思う。しかし、この嘘を嘘であると「証明」するのはむずかしい。
 こんな言い分をそのまま一面トップの見出しにしてしまえば、安倍は何にも知らなかったという「誤解を招きかねない」。
 最初から嘘をついて、嘘で切り抜けようとしている安倍の言い分を、そのまま見出しにとってしまっては、「報道」の意味はないだろう。

 私が注目したのは、次の部分。(朝日新聞からの引用)

加計理事長とのゴルフや会食の費用については、「私のプレー代は払った。(食事は)私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」とも述べた。

 ここは、嘘を準備する余裕がなかったのか、これくらいはどうでもいいと思ったのか「ほんとう」のことを語っている。私はテレビを見ていないので全部の発言を知らないが、おそらくこの「私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」は、間違いなく「事実」である。唯一、「ほんとうのこと」である。
 ここを野党は追及するべきである。
 それぞれが、それぞれに「用意してきた質問」を投げかけるのに夢中になって、安倍の「ほころび」を見逃している。
 政府が補助金を出す事業、それを受ける企業。そのあいだで「私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」という関係は許されないものだろう。私は法律は知らないが、そういうことを禁止する法律がきっとあるはずだ。
 安倍は、加計が計画を持っているということを知らなかった、と言い張るだろう。しかし、加計は計画を持っているだけではなく、国家戦略特区のことを知っている。一方が知っていて、安倍に接近してきて食事を提供する。これは「わいろ」である。安倍が、加計の計画を知らなかったから「収賄」にあたらないとはならないはずだ。

 「私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」、いわゆる「おごったり、おごられたりする」という「友人関係」。「友人」のあいだでは、まあ、よくあるかもしれない。しかし、その関係を首相が企業の代表とのあいだで持つというのはどういうことか。
 首相としての自覚がないのである。
 「友人感覚」のまま、政策も決定しようとしているということだ。
 この「友人感覚」の「おごったり、おごられたり」は、「食事」だけではないだろう。
 国から私学(加計学園)に補助金が出る(安倍からのおごり)。その返礼に加計が安倍に「献金」する。それ以上に、補助金からいくらかを安倍に「返還する」ということもあるかもしれない。これはたいへんな犯罪だが、きっと「おごったり、おごられたり」という「友人感覚」のなかで、犯罪意識が消えてしまっているのだろう。
 いったい安倍と加計は何回一緒にゴルフをし、そのうち何回安倍がおごり、何回加計がおごったのか。そのときの金はどこから出たのか。ポケットマネーか。企業の「経費」として処理していないか。「経費」として処理すれば「税金対策」にもなるだろう。領収書は、どうなっているか。小さな金の流れかもしれないが、ここから安倍と加計の関係を深く追及できるはずである。
 安倍のあからさまな嘘は言わせるだけ言わせておいて、いまは、「おごったり、おごられたり」という安倍が「自発的」にいった「ほんとう」に焦点をしぼって問題にすべきだろう。

 都議選の最終日、安倍は激昂して「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだ。「本音(ほんとうに思っていること)」を口走ってしまった。そのことは新聞では小さくしか書かれていなかった。一面のトップの見出しにはなっていなかった。
 しかし、一面トップにならなかった「ことば」こそ、「反安倍」を結集するものになった。
 安倍は、安倍と加計が「おごったり、おごられたりする」関係にあると、自分の口から言った。
 どんな経緯で加計学園の獣医学部の新設が認めれたのか。政府は「正しい手続き」で認められたというだけである。
 そんな「形式」的なことはどうでもいい、というと間違いだが。
 「おごったり、おごられたり」する関係がどんなものか、ふつうのひとにはわかる。「なあなあ」である。ほんとうはしてはいけないことも頼まれると「しかたないなあ」と引き受け、「あとでお返ししてよ」と言ったりする。もちつ、もたれつ。そんなところに「正義」(正論)は入り込まない。
 こういう「人間感情」に響いてくるものをえぐりだし、それを「国民運動」にかえていく工夫が野党に求められている。
 平気で嘘をつく安倍を相手に戦うには、「正論(正攻法)」だけではだめなのだ。
 安倍が自ら提供してくれた「ほころび」を徹底的に追及するべきである。
 「おごった、おごられた」は読売新聞には書いてなかった。朝日新聞も「私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」とさらりと書いている。この安倍のことばを、誰か、「その『私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある』というのは、いわば友人として『おごったり、おごられたり』ということか」と問い直してみるとおもしろい。
 安倍は何と答えるか。
 「いや、おごったり、おごられたり、ではなく、費用を私が持ったり、先方が持ったりすること」
 と気取って答えるか。
 飛び交っていことばを、自分の知っていることば、いつも話していることばで言いなおしてみると、世界がはっきり見えるのだ。世界をはっきり見せるには、ふつうのひとがふつうにかわしていることばで言いなおす必要がある。
 安倍の「あんな人たち」というのは、「政治のことば」ではなく、ふつうのひとのことばだった。誰だって瞬間的に「あんな人たち」ということばを発するときがある。そのときの「あんな人たち」の「意味」は? 説明はいらない。誰もが知っている。だから、みんな怒ったのだ。
 「おごったり、おごられたり」というのも、ふつうのひとはみんな知っている。そこでどういうことがおこなわれるか、みんな「体験」を持っている。その「体験」と安倍のことばを結びつけ、そこから安倍への怒りを結集することが、いま必要なのだ。

 野党は、気取るな。
 マスコミも気取るな。
 安倍は「おごったり、おごられたり」する関係の人間だけを優遇している。私たちが収めた税金で、「友人」をもてなし、「お返し」をもらっている。
 これを追及すべきである。
 安倍は自分の口から、それを認めているのだ。そこを攻めないで、どうする。
  

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