鏡順子『耳を寄せるときこえる音』(栗売社、2017年07月09日発行)
鏡順子『耳を寄せるときこえる音』の巻頭の作品「洗濯屋」を読み始めてすぐ、ことばのスピードが独自であることに気づく。どこが独自かはすぐにはわからないが、あ、このスピード感、何かが違うと「肉体」が反応してしまう。
どこが「独自」なのか。まず「洗濯屋」ということばだろうなあ。いまは「洗濯屋」なんて見ない。読んで「意味」はわかるけれど、読んだものが私の肉体には見えてこない。いまは「クリーニング屋」かなあ。「クリーニング屋」も、もう古いかもしれない。「肉体」が覚えているものを思い出さないといけない。「ペンキで書いてあった」も同じ感覚。そんなもの、最近は見ない。
そういうことと「それだけが のこっている」ということばの、不思議な連絡がある。何かが、「いま」とは違う。
これは詩が書かれた年代と関係があるかもしれないけれど、私にはそれだけではないような気がする。
ここには反芻がある。最初に登場する「見ている」は川を見ている。石鹸の泡とか、何かが流れてくる。その「見ている」はそのまま女の姿を「見る」にかわる。そして「なにかしている」と気づく。そのあと「野菜の皮をむいているのだとわかる」とことばが動く。「見ている」から「わかる」への変化が、不思議な反芻の形で書かれている。
この「見ている」から「わかる」への変化、それを反芻の形で書くときのことばのスピードが独自なのだと思う。「見ている」を「わかる」へと言いなおす、その反芻のあり方がたぶん独自なのだ。
読み進むと「妊婦」という作品に出会う。その三連目。
ここでは「きこえてくる」を「きいていると」という形で反芻している。「きいていると」がなくても、「意味」はわかる。脱水機の音がいつまでも聞こえる。ずっと脱水機をつかっているのだ。
何がことばのスピードを落しているかというと、「きこえてくる」を「きいている」と言いなおすからだ。そんな音なんか「きかなくていい」。実際、聞きたくないだろう。うるさいのだろう。それなのに「きいている」。
脱水機が回りつづけているだけではない。鏡が聞きつづけている。鏡を脱水機の音の方に身を寄せているのだ。
「洗濯屋」でも同じだ。鏡はただ川を「見ている」だけではない。女を「見ている」だけではない。女の「のろく感じられる動作」に身を寄せている。鏡の肉体の記憶を重ね合わせている。そうして「皮をむいている」のだと「わかる」。
「妊婦」で言いなおしてみると、脱水機の音が聞こえてくる。その音に身をよせて聞いていると、それが「いつまでも続く」ということが「わかる」。
女が皮をむいていることも、脱水機が回りつづけていることも、「わからなくてもいい」ことがらである。けれど、鏡は「わかる」。「わからなくてもいい」ことを「わかる」ために、そこでことばが「不経済」につかわれ、そのために遅くなっている。
それが「独自」なのだ。
「わからなくてもいい」ことなんか「わからない」ままにして、もっと効率よく生きればいいじゃないか、というのが「現代」の人間の生き方である。
この感じは詩集のタイトルとなっていることばが出てくる「弟」を読むと、いっそうはっきりする。水たまりにオタマジャクシがいる。
そのとおりなのだろうが、思わず、そんな音なんか聞かなくたっていいだろう、と思ってしまう。こんなことを書くと、詩が詩でなくなるかもしれないが、変でしょ? 鏡が水たまりに耳を寄せて、なにか音が聞こえる。あ、この音はオタマジャクシがオタマジャクシを食べている音だと「わかる」というのは。
だいたい、それって「正確」な「事実」?
いやあ、「正確な事実」であるかどうかはわからない。けれど、あ、鏡が「音を聞いた」ということ、そしてそれを「オタマジャクシがオタマジャクシを食べている音」だと「わかった」ということが「事実」としてあらわれてくる。
「事実」になる。
ここが、すごい。
「事実」というのは「客観的」であるかどうかは関係がない。「事実」ははじめからそこにあるのではなく、「事実」になる、「事実」として生まれてくることなのだ。
「事実」を生み出すために、鏡は「身を寄せる」。
「弟」では「耳を寄せる」と書いているが、鏡が何かに寄せるのは「耳」だけではない。「洗濯屋」では「見る」という動詞が動いていた。そこでは「目」が寄せられている。目が女の動作に「寄せられ」、そこでは鏡の「肉体」全体が女の動作を反芻し、皮をむくという「肉体」そのものをつかみ取る。
詩集のタイトルはたいていの場合、詩集に収められている作品のタイトルを流用するが、この詩集では詩の中の部分を取り出している。だれが決めたタイトルかわからないが、これはこの詩集の場合、ぴったりとおさまっている。とてもいいタイトルだと思う。鏡のことばの運動そのものの「キー(思想)」を取り出している。
鏡順子『耳を寄せるときこえる音』の巻頭の作品「洗濯屋」を読み始めてすぐ、ことばのスピードが独自であることに気づく。どこが独自かはすぐにはわからないが、あ、このスピード感、何かが違うと「肉体」が反応してしまう。
洗濯屋と
ペンキで書いてあった
それだけが のこっている
どこが「独自」なのか。まず「洗濯屋」ということばだろうなあ。いまは「洗濯屋」なんて見ない。読んで「意味」はわかるけれど、読んだものが私の肉体には見えてこない。いまは「クリーニング屋」かなあ。「クリーニング屋」も、もう古いかもしれない。「肉体」が覚えているものを思い出さないといけない。「ペンキで書いてあった」も同じ感覚。そんなもの、最近は見ない。
そういうことと「それだけが のこっている」ということばの、不思議な連絡がある。何かが、「いま」とは違う。
これは詩が書かれた年代と関係があるかもしれないけれど、私にはそれだけではないような気がする。
川に沿って歩きながら
石けんのあわが
ときおり廃水にまざって流れてくるのを
見ている
向こうの川べりでは
太った女が 身を屈めて
なにかしている
そののろく感じられる動作は
野菜の皮をむいているのだとわかる
ここには反芻がある。最初に登場する「見ている」は川を見ている。石鹸の泡とか、何かが流れてくる。その「見ている」はそのまま女の姿を「見る」にかわる。そして「なにかしている」と気づく。そのあと「野菜の皮をむいているのだとわかる」とことばが動く。「見ている」から「わかる」への変化が、不思議な反芻の形で書かれている。
この「見ている」から「わかる」への変化、それを反芻の形で書くときのことばのスピードが独自なのだと思う。「見ている」を「わかる」へと言いなおす、その反芻のあり方がたぶん独自なのだ。
読み進むと「妊婦」という作品に出会う。その三連目。
階上の部屋から
脱水機の
低く
うなる音が
きこえてくる
きいていると
いつまでも続く
ここでは「きこえてくる」を「きいていると」という形で反芻している。「きいていると」がなくても、「意味」はわかる。脱水機の音がいつまでも聞こえる。ずっと脱水機をつかっているのだ。
何がことばのスピードを落しているかというと、「きこえてくる」を「きいている」と言いなおすからだ。そんな音なんか「きかなくていい」。実際、聞きたくないだろう。うるさいのだろう。それなのに「きいている」。
脱水機が回りつづけているだけではない。鏡が聞きつづけている。鏡を脱水機の音の方に身を寄せているのだ。
「洗濯屋」でも同じだ。鏡はただ川を「見ている」だけではない。女を「見ている」だけではない。女の「のろく感じられる動作」に身を寄せている。鏡の肉体の記憶を重ね合わせている。そうして「皮をむいている」のだと「わかる」。
「妊婦」で言いなおしてみると、脱水機の音が聞こえてくる。その音に身をよせて聞いていると、それが「いつまでも続く」ということが「わかる」。
女が皮をむいていることも、脱水機が回りつづけていることも、「わからなくてもいい」ことがらである。けれど、鏡は「わかる」。「わからなくてもいい」ことを「わかる」ために、そこでことばが「不経済」につかわれ、そのために遅くなっている。
それが「独自」なのだ。
「わからなくてもいい」ことなんか「わからない」ままにして、もっと効率よく生きればいいじゃないか、というのが「現代」の人間の生き方である。
この感じは詩集のタイトルとなっていることばが出てくる「弟」を読むと、いっそうはっきりする。水たまりにオタマジャクシがいる。
大きな食用蛙のおたまじゃくしだ。
少し大きくなったのが、そばにいる小さいのを食べて
いる。耳を寄せると、その音がきこえる。
そのとおりなのだろうが、思わず、そんな音なんか聞かなくたっていいだろう、と思ってしまう。こんなことを書くと、詩が詩でなくなるかもしれないが、変でしょ? 鏡が水たまりに耳を寄せて、なにか音が聞こえる。あ、この音はオタマジャクシがオタマジャクシを食べている音だと「わかる」というのは。
だいたい、それって「正確」な「事実」?
いやあ、「正確な事実」であるかどうかはわからない。けれど、あ、鏡が「音を聞いた」ということ、そしてそれを「オタマジャクシがオタマジャクシを食べている音」だと「わかった」ということが「事実」としてあらわれてくる。
「事実」になる。
ここが、すごい。
「事実」というのは「客観的」であるかどうかは関係がない。「事実」ははじめからそこにあるのではなく、「事実」になる、「事実」として生まれてくることなのだ。
「事実」を生み出すために、鏡は「身を寄せる」。
「弟」では「耳を寄せる」と書いているが、鏡が何かに寄せるのは「耳」だけではない。「洗濯屋」では「見る」という動詞が動いていた。そこでは「目」が寄せられている。目が女の動作に「寄せられ」、そこでは鏡の「肉体」全体が女の動作を反芻し、皮をむくという「肉体」そのものをつかみ取る。
詩集のタイトルはたいていの場合、詩集に収められている作品のタイトルを流用するが、この詩集では詩の中の部分を取り出している。だれが決めたタイトルかわからないが、これはこの詩集の場合、ぴったりとおさまっている。とてもいいタイトルだと思う。鏡のことばの運動そのものの「キー(思想)」を取り出している。