詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清水哲男「外れかけた男」

2018-05-02 09:49:58 | 詩(雑誌・同人誌)
清水哲男「外れかけた男」(「現代詩手帳」2018年04月号)

 清水哲男「外れかけた男」の一連目。私は、つまずいた。

八十歳になった
ほとんどのアンケートや世論調査の端っこに
おまけのようにくっついている年齢だ
統計から外れかけた男は
統計の真ん中にいる人と同じ膳に着く

 「端っこ」は「外れかけた」と言いなおされる。そして「真ん中」と対比される。ここに「真ん中」が出てくることに、私はびっくりしたのだ。
 「真ん中」かあ。
 おそらく清水はいままで「真ん中」にいたのだろう。「真ん中」にいながら「真ん中ではない」を装って詩を書いていたのだと思う。「真ん中」を「外れる」瞬間を「敗北」としてとらえ、それを「美化」する。「やわらかな悲しみ」でつつむ。その瞬間に生まれる「抒情」。「真ん中」を外れても、生きていける。そういう「意識」が生み出す「虚構」の完璧さ。「虚構」が新しい「自己存在の中心」になるという感じ。あたらしい「中心」をつくると言い換えてもいい。その「名残」のようなものが、「真ん中」ということばを呼び出した。清水は、もともと「真ん中」指向の人間なのだ。

 別な言い方をしてみる。「端っこ」「真ん中」という「名詞」ではなく、「外れる」という「動詞」を中心に見ていく。
 「外れる」といっしょにつかわれていることばに「くっついている」がある。このとき「外れる」は「剥がれる」でもある。そして「くっつく」という動詞が「くっつく」ところは、それこそ「端っこ」(外縁)であり、「真ん中」ではない。「外れる」が「くっつく」という動詞といっしょに動くとき、動詞が動く「現場」は「端っこ/外縁」である。あえていえば、「外れる」「くっついている」が意識されるとき、いちばん問題なのは、「外れてしまうこと」である。「ほうりだされること」である。「外」が問題になる。なぜ「外」が問題化というと、その人はそれまで「外」では生きたことがないからだ。そこは「未経験」の場所だからである。「未経験」の場所で動けるかどうかわからない、という「恐怖」が「外れる」という意識の中心である。
 こんなとき、絶対に「真ん中」は出てこない。それなのに「真ん中」ということばを清水は持ち出してきている。ここに、私は、ぎょっとした。恐ろしい人だなあと思った。私とはまったく違う人間である、と実感する恐ろしさである。

 「外れる」の反対の動詞はなんだろうか。「真ん中」の「中」という漢字は「中る(あたる)」である。「中」に動詞があるとしたら、それは「あたる」である。
 「外れる/あたる」は「外す/あてる」と、どう違うだろうか。あてようとしたが、外れた、外してしまった。外そうとしたが、あたってしまう、ということもあるかもしれない。よくわからない。「外れる/あたる」は客観的な事実を言っているかもしれない。何かが「外れる/あたる」。「外す/あてる」は、その何かを動かす「主体」を含んでいる。能動的、主体的な意味をもっているかもしれない。

 清水の書いている「外れかけた」は主体が動いて「外す」というのではない。何かの力が及んできて「外れかけた」になっている。主体としての能動的な動詞が動いていない。だから「あたる/あてる」ではなく、その「あたる/あてる」場としての「真ん中」というものが、「名詞」としてあらわれてきている、ということになるのか。

 というようなことを、うろうろ考えてしまう。
 そして、もうひとつ、そこにはぞっとすることばがあるのにも気づく。
 「同じ膳に着く」の「同じ」である。この「同じ」はなんだろうか。「同じ」は「形容詞」になるのか。「動詞」にすると、「同じくする」か。「膳を同じくする」とはいっしょに膳を囲むということだが、清水の書いているのは、その「同じ」ではない。あつまるという意味を含まない「同じ」である。「いっしょにいる(あつまっている)」わけではないのに、「同じ」と言う。
 かけはなれているに「同じ」がつかわれている。
 「同じ人間なのに……」というときは、「あつまって、いっしょに何かができるはずなのに、それができない」という意味を含むが、清水の書いている「同じ」はそういうものを含んでいない。まったく違う(個別を全弟子としている)のに「同じ」と強引に呼んでいる。そしてそれが「真ん中」とつながっている。
 ここに、私は警戒してしまう。
 清水は、いったい「どこ」にいるのか。「外れかけた男」(外縁部にいる人間)なら、清水一人ではないだろう。外縁部には似たような男があつまっているのではないか。「同じ」人間がいるのではないか。でも、清水は、そこに目を向けない。
 二連目は、こう展開する。

コップに半分ほどのビールを注いで
統計から外れかけた男は不自由な右手を使わずに
左手でその半分を飲む
コップを置いた左手で箸を握り
納豆を苦心してかき混ぜる

 男の「描写」だが、このとき清水はどこにいるのか。その男を「客観視」していないか。いっしょに生きている感じが、私にはしない。
 清水は「真ん中にいる」人と「同じ」視線で、「外れかけた男」を描写している。そう感じる。
 これが、こわい。
 「外れかけた」男には、「外れかけたところから見える」ものがあるはずなのに、「真ん中」から見ている。「意識」が「肉体」とならずに、「頭の中」で動いている。それは「頭」が健康ということなのかどうか、私にはわからない。

 恐怖そのものの違和感が残る。そのことを書いておきたい。



*

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