中村梨々『青挿し』(オオカミ叢書1)(オオカミ編集室、2018年04月11日発行)
中村梨々『青挿し』のなかの「聞こえる」は不思議な詩である。
「聞こえる」とあるが、「何が」聞こえるのか明確には書かれていない。「聞こえる」と向き合うことばに「声」があるが、「落ちてしまいそうになる声」は落ちなかった声であり、客観的には存在しない。「落ちてしまいそうになる」と感じているひとの「肉体」のなかにだけある。
この「そのひとの肉体のなかにだけある」ものを、最初から読み直してみる。
「溶けてしまいそうになる人の目」というのも、客観的には存在しない。「暗がりに/かがみこんで 見つける」は「暗がりにかがみ込むことで見つける」であり、「暗がりにかがみ込む」という「肉体」の動きをとおして見つけるものである。それは「暗がりにかがみ込む」という「肉体」によって、「肉体」の奥からひっぱりだされてくる「目」である。
簡単に言いなおしてしまうと、大根を洗うために暗がりにかがみ込んだとき、その「肉体」の動きをしていた「人(の肉体)」を中村は思い出したのだ。そのひとの「肉体」になって、「世界」を見つめなおしたのだ。母を見たのだ。中村は、いま、幼いときに見た「母の肉体」になる。そして、その「母の肉体」が見たものを見る。
「目」は「窓」と言いなおされ、大根と触れ合う「水」を見る。大根を洗うときの水の動き「波」を見る。「波」は「波だ」と声にすると「涙」にかわる。何かに耐えて、涙を流しそうになりながら大根を洗っている。もしかしたら涙を流しているかもしれない。しかし、それは見せない。見せないけれども、見える。見つけてしまう。
そのひとの「目」、そのひとの「見る世界」を、中村は「肉体」で生きなおす。あのときの「母」になって、生きる。あのときの「母」を生み出している。
このときの「溶けてしまいそうになる人の目」という「文体」と、「落ちてしまいそうになる声」は同じである。母をまねる「肉体」のなかで「溶けてしまいそう」「落ちてしまいそう」が動く。それは「溶ける」「落ちる」ではなく、あくまでも「溶けてしまいそう」「落ちてしまいそう」という動きである。「こらえている」のである。
「声」は直前に「喉」ということばで間接的に書かれている。それは「震える」という動詞と一緒に動いている。震えるのは、こらえるからである。声を抑えるからである。
それが「聞こえる」。
声ではなく、声を抑える「肉体」のなかの、声にならない動きが聞こえる。「肉体」に聞こえる。全身で、それを聞く。
「どうにもならない夜とどうにもできなかった朝の話」に、こんな行がある。
「ある」のに「見えない」ものがある。けれど、それはあるとき「見える」にかわる。林檎の場合は半分に切ったら種が見える(あるのがわかる)。
ひとの「肉体」は、半分に切るわけにはいかない。
どうやったら「思想」は「出てくる」か。
「知りたいひと」の「肉体」をそのまま「肉体」で重ねる。「動詞」を重ねる。そのひとが暗がりで大根を洗うなら、同じように暗がりで大根を洗う。そうすると「肉体」のなかで動くものがある。かがみ込む足、折りたたまれる腰、前かがみになる背中、動かす手、水を冷たいと感じる手、指先(爪)に入ってくる泥を見る。そこから「思想」がはじまる。「思想」が生まれてくる。
動かした「肉体」、その「肉体」のなかで動いたものをことばにすると、それが「思想」として見えてくる。これを詩と呼ぶ。
「二月の空は呆れるほど高い」には、こんな行。
「ことば」だけで思い出す(反芻する)のではなく、「肉体」がいっしょに動くと、そこから生まれる「思想」は「肉体」としてつながっていく。「いのち」としてつながっていく。
「何年か後」は「何年か先」でもある。ここで「後」がつかわれているのは「思い出す」ということばが働いているからだ。思い出しながら、反芻しながら、思い出とは逆の方向「先」へと、ことばは動いていくだろう。
*
この詩集には、広田修の「てびき」がついている。そのなかで、広田は詩は「わかる」ではなく「感じ」をつかむことが大事と書いている。
私は「感じ」をつかむのではなく、「動詞(肉体の動き)」をつかみ、その動きを自分で確かめる、そうして「感じ」を生み出すのか詩を体験することだと思う。
この部分を取り上げ、広田は
と書いている。
私は「昼の隙間」とか「義務」とか、「名詞(完成された意味/思想)」を重視する形では詩を読まない。
「隙間から外を見る」は「覗く」である。「覗く」は自分を隠しながら、「外を見る」ことである。不安だから自分を隠す。夜に不安になることは多いが、昼間も不安になる。昼間の不安の方が、何かしら「ふつう」とは違う。
私は、そういうことを「感じる」というよりも、「肉体」で思い出す。
そこから見える世界は狭い。見えているようで何も見えない。
「帰ってこない」は「戻らなければならない」と対になっている。「私(中村?)」を残して、そこから出て行ったひとは「帰ってこない」。その人には「戻らなければならない(ここを出て行かなければならない/もとの場所に帰らなければならない)」理由がある。それは単なる「想像」ではなく、「私」の体験そのものでもあるだろう。「私」もまたどこかへ行って、そこからもとの場所にもどらなければならないということをしたことがある。「帰る/戻る」は「ふたり」のあいだでは「方向」が違う。引き裂かれる。
そういうことが書かれている。
「名詞」はわからなくてもいい。けれど、「動詞」なら、わかるはずだと思う。
よく知らない外国へ行く。ことばはわからない。水がのみたい。コップの中に透明な液体がある。のんでいいかな? わからない。でも、そこにいる人が、それをのんでみせれば、それがのめるもの(安全なもの)であることがわかる。「肉体」はひとをだまさない。動詞はひとをだまさない。
だから、私は「動詞」を読む。「動詞」は「事実」である。
*
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中村梨々『青挿し』のなかの「聞こえる」は不思議な詩である。
土からあがったばかりの大根を洗う
暗がりに
かがみこんで 見つける
溶けてしまいそうになる人の目を
その人の開けっぱなしの空から
水ものの波だ
波に襲われて
大根は消えそうに白く
私は慌ててごしごしと努め
その間にも
指先や爪に移る弔いの匂いが
異国の喉のように震え
落ちてしまいそうになる声を冷たい両手で抱え
足早に
勝手口に上がる
「聞こえる」とあるが、「何が」聞こえるのか明確には書かれていない。「聞こえる」と向き合うことばに「声」があるが、「落ちてしまいそうになる声」は落ちなかった声であり、客観的には存在しない。「落ちてしまいそうになる」と感じているひとの「肉体」のなかにだけある。
この「そのひとの肉体のなかにだけある」ものを、最初から読み直してみる。
「溶けてしまいそうになる人の目」というのも、客観的には存在しない。「暗がりに/かがみこんで 見つける」は「暗がりにかがみ込むことで見つける」であり、「暗がりにかがみ込む」という「肉体」の動きをとおして見つけるものである。それは「暗がりにかがみ込む」という「肉体」によって、「肉体」の奥からひっぱりだされてくる「目」である。
簡単に言いなおしてしまうと、大根を洗うために暗がりにかがみ込んだとき、その「肉体」の動きをしていた「人(の肉体)」を中村は思い出したのだ。そのひとの「肉体」になって、「世界」を見つめなおしたのだ。母を見たのだ。中村は、いま、幼いときに見た「母の肉体」になる。そして、その「母の肉体」が見たものを見る。
「目」は「窓」と言いなおされ、大根と触れ合う「水」を見る。大根を洗うときの水の動き「波」を見る。「波」は「波だ」と声にすると「涙」にかわる。何かに耐えて、涙を流しそうになりながら大根を洗っている。もしかしたら涙を流しているかもしれない。しかし、それは見せない。見せないけれども、見える。見つけてしまう。
そのひとの「目」、そのひとの「見る世界」を、中村は「肉体」で生きなおす。あのときの「母」になって、生きる。あのときの「母」を生み出している。
このときの「溶けてしまいそうになる人の目」という「文体」と、「落ちてしまいそうになる声」は同じである。母をまねる「肉体」のなかで「溶けてしまいそう」「落ちてしまいそう」が動く。それは「溶ける」「落ちる」ではなく、あくまでも「溶けてしまいそう」「落ちてしまいそう」という動きである。「こらえている」のである。
「声」は直前に「喉」ということばで間接的に書かれている。それは「震える」という動詞と一緒に動いている。震えるのは、こらえるからである。声を抑えるからである。
それが「聞こえる」。
声ではなく、声を抑える「肉体」のなかの、声にならない動きが聞こえる。「肉体」に聞こえる。全身で、それを聞く。
「どうにもならない夜とどうにもできなかった朝の話」に、こんな行がある。
林檎に包丁を入れ
半分に切ったら
芯と小さな種が出てくる
黒い小さな種で
出てくると見えるのに
出てくるまでは見えなくて
「ある」のに「見えない」ものがある。けれど、それはあるとき「見える」にかわる。林檎の場合は半分に切ったら種が見える(あるのがわかる)。
ひとの「肉体」は、半分に切るわけにはいかない。
どうやったら「思想」は「出てくる」か。
「知りたいひと」の「肉体」をそのまま「肉体」で重ねる。「動詞」を重ねる。そのひとが暗がりで大根を洗うなら、同じように暗がりで大根を洗う。そうすると「肉体」のなかで動くものがある。かがみ込む足、折りたたまれる腰、前かがみになる背中、動かす手、水を冷たいと感じる手、指先(爪)に入ってくる泥を見る。そこから「思想」がはじまる。「思想」が生まれてくる。
動かした「肉体」、その「肉体」のなかで動いたものをことばにすると、それが「思想」として見えてくる。これを詩と呼ぶ。
「二月の空は呆れるほど高い」には、こんな行。
これでよかったのか、と時々思ったりする。時々
「これでよかったのか」と思うことを思い出す。
思い返す。前にもこんなふうに思っていた。今も
あと何年か後にも。
「ことば」だけで思い出す(反芻する)のではなく、「肉体」がいっしょに動くと、そこから生まれる「思想」は「肉体」としてつながっていく。「いのち」としてつながっていく。
「何年か後」は「何年か先」でもある。ここで「後」がつかわれているのは「思い出す」ということばが働いているからだ。思い出しながら、反芻しながら、思い出とは逆の方向「先」へと、ことばは動いていくだろう。
*
この詩集には、広田修の「てびき」がついている。そのなかで、広田は詩は「わかる」ではなく「感じ」をつかむことが大事と書いている。
私は「感じ」をつかむのではなく、「動詞(肉体の動き)」をつかみ、その動きを自分で確かめる、そうして「感じ」を生み出すのか詩を体験することだと思う。
誰も帰ってこないので
昼の隙間から外を見た
ひどく雨が降っていた
どうしても、戻らなければならなかったんだろう (「二十三夜」)
この部分を取り上げ、広田は
「昼の隙間」ってなんだろう? 唐突に出てくる「戻らなければならなかったんだろう」という義務はなんだろう? 死にはこういうように意味を考え出すと途端にわからなくなることがたくさんあります。
と書いている。
私は「昼の隙間」とか「義務」とか、「名詞(完成された意味/思想)」を重視する形では詩を読まない。
「隙間から外を見る」は「覗く」である。「覗く」は自分を隠しながら、「外を見る」ことである。不安だから自分を隠す。夜に不安になることは多いが、昼間も不安になる。昼間の不安の方が、何かしら「ふつう」とは違う。
私は、そういうことを「感じる」というよりも、「肉体」で思い出す。
そこから見える世界は狭い。見えているようで何も見えない。
「帰ってこない」は「戻らなければならない」と対になっている。「私(中村?)」を残して、そこから出て行ったひとは「帰ってこない」。その人には「戻らなければならない(ここを出て行かなければならない/もとの場所に帰らなければならない)」理由がある。それは単なる「想像」ではなく、「私」の体験そのものでもあるだろう。「私」もまたどこかへ行って、そこからもとの場所にもどらなければならないということをしたことがある。「帰る/戻る」は「ふたり」のあいだでは「方向」が違う。引き裂かれる。
そういうことが書かれている。
「名詞」はわからなくてもいい。けれど、「動詞」なら、わかるはずだと思う。
よく知らない外国へ行く。ことばはわからない。水がのみたい。コップの中に透明な液体がある。のんでいいかな? わからない。でも、そこにいる人が、それをのんでみせれば、それがのめるもの(安全なもの)であることがわかる。「肉体」はひとをだまさない。動詞はひとをだまさない。
だから、私は「動詞」を読む。「動詞」は「事実」である。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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