詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

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「不思議なクニの憲法2018」上映会報告

2018-05-21 09:53:20 | 自民党憲法改正草案を読む
「不思議なクニの憲法2018」上映会報告
             自民党憲法改正草案を読む/番外213(情報の読み方)

 2018年05月20日(日曜日)、福岡市立中央市民センター視聴覚室で「不思議なクニの憲法2018」の上映会を開いた。参加者43人。上映会後、後藤富和弁護士を囲んで意見交換会を開いた。後藤弁護士は、中央区9条の会の主催者。毎週火曜日午後7時から「terra cafe kenpou 」を中央区天神の高円寺会館で開いている。

 当初は20人も集まらないのではないかと思っていたが、予約以外に当日の飛び込み参加者もあり、資料不足になってしまった。「東京、横浜の人から教えてもらった」という人もいて、改めて「口コミ」の大切さ(力)というものを感じた。会を盛り上げてくださった方に深く感謝します。
 一方、「9条の会」は各地に、さまざまな形で活動しているのに、その連携が少ないこともわかり、不思議な感じがした。

 上映会後の、意見交換会では、毎週天神で街頭活動をしている人から、運動を拡げていく困難さ(若者の無関心さ)が指摘された。自民党の改憲案は発議させないことが重要。メディアが権力チェックとして働いていない。国民ひとりひとりが最後の抵抗に向けて意識を高めなければならない、と。
 メディアにかぎらず選挙公報をめぐっても、一種の「選挙を知らせない」という動きがあるという指摘もあった。選挙前日になっても公報がとどかない。選挙管理委員会に電話したら、配布者の責任という具合に「責任転嫁」があった。さらに苦情を言うと、選挙前日の夜中にやっと配られてきた、という。
 映画のなかでも、選挙報道が減っていることが指摘されたが、公報さえきちんと配られていないという問題は初めて知った。
 また別の街頭活動しているひとから、自民党が配っている「チラシ」は市民の目を惹きつける工夫をしている。自分たちの配っているチラシは、そういう工夫がない。もっと工夫が必要かもしれない、という指摘。
 (私が用意したチラシも、モノクロで、他のひとたちが配っているチラシと比較すると、目に訴える力がない。チラシづくりのノウハウは課題として残った。)
 上映会の参加者にも、若い世代は少なくて、どちらかというと「高齢者」が中心になった。
 映画のなかでも語られていたが、 2時間のあつまりがあったら、そのうち10分でもいいから政治の話をする。政治の方向へ話題をふってみる、という工夫が大切。そういうことを心がけたいという共感を語る人がいた。
 若い世代の無関心については、私は単純に無関心とは言えないと思っている。その旨を発言した。「私たちの世代は、親を乗り越えたいという気持ちをもっていたが、いまのひとは親に頼っている部分がある。同じような感じで、自民党(安倍政権)に反対すると正社員になれないんじゃないか、あるいは出世できないんじゃないかと不安をかかえているように思う。それが自民党支持につながっていると感じる。」
 また、法律はひと(個人)を守るものなのに、いまは国家がひとを縛り上げるためにつかおうとしているという指摘があった。
 後藤弁護士から、法治主義と人治主義、法の支配と立憲主義の解説があった。悪法には従うべきではない、高次法としての憲法があり、それに従うのが立憲主義であるということ。
 ソウル大教授の意見を踏まえながら、憲法の背後にある日本の構造を考えることが大切という指摘も。
 そのあと、後藤弁護士が関わっている朝鮮学校支援のことなどを語ってもらった。
 朝鮮学校支援のきっかけは、通学中の生徒がチマチョゴリを切られる事件があったこと。人権侵害があったこと。朝鮮学校は、北朝鮮政権との関係が問題にされるが、そこでおこなわれている教育はふつうの教育。違うのはハングルを教えていることだけ。だれであれ、母国語を勉強するのはふつうのこと、という指摘。
 個人の尊厳を守ることの重要性を語った。
 意見交換会のあとの会になったが、伊藤真の「憲法理想主義(?)」への共感も力説した。「憲法は、理想。現実に憲法を合わせる(9条を改正し自衛隊を合憲化する)という論理をあてはめてしまうと、現実の格差(差別)を肯定するために憲法をかえないといけないことになる。そうではなく、現実を望ましい姿にしていくよりどころに憲法がある」という共感。

 ほかにもいろいろな意見が出たのだが、準備不足もあり、整理しきれない。
 「憲法改正」は絶対必要なのだという意見をもったひとにも参加してもらいたかったが、これはむずかしい問題かもしれない。
 いま、「ネット空間」では同じ意見のひとだけがあつまって、反対意見を罵倒する発言が多い。違う意見にであったとき、自分のことばをどう鍛えなおすかというのが重要な問題だけれど、そういうことは「現実」の世界でもなかなかむずかしくなってきている。
 同じ意見をもつひとが集まるだけではなく、違った意見のひととも交流をしないといけないと思うが、方法がみつからない。



 それとは別に、この映画がつくられたあと、3月下旬、自民党が改憲案(4項目)をまとめた。映画で私が指摘したことは、少し違った状況になっている。
 そのことを補足するために、資料をつくった。
 このとき気づいたのだが、4項目の改憲案は自民党のホームページにも載っていない。(私の調べ方が悪くて見つけられないのかもしれないが。)吟味すべき情報を公開しないというのは、自衛隊日報、森友学園、加計学園でも問題になった。
 「情報を提供しない」「議論させない」という「沈黙作戦」は、憲法問題でもおこなわれているのだろう。
 すでに書いたことだが、自民党の改憲4項目の問題点を、以下に書いておく。

 自民党憲法改正案の全文が発表された。引用は、2018年03月26日の読売新聞から。「自衛隊の根拠規定を明記する案は、多数派が指示する有力案」とのただし書きがついている。「正式」にはまだ未定ということか。
 改正案だけでは問題点が見えにくいので、関連する現行憲法と照らし合わせて読んでみる。

(現行憲法)
第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これに自民党は「自衛隊の根拠規定」を明示する。「 9条の2」を追加する。(1)(2)(3)という表記は自民党案にはないが、あとで項目ごとに説明するためにつけた。改行も、分かりやすくするためにつけくわえた。

9条の2
1項 (1)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、
(2)そのための実力組織として、法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を保持する。
2項 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

 自民党案のいちばんの問題点は「主語」が「国民」ではないことだ。
 現行憲法は「日本国民は」と「国民」を主語にして書かれている。すべての「動詞(述語)」の主語は「国民」である。
 1項は、わかりやすく書き直すと、
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する。
 日本国民は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は(ここまでがテーマ)、永久にこれを放棄する。
 (この文体は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という文体と同じ。テーマを先にかかげ、「これを」という形で引き継ぐ。定義する。)
 途中にある「国際紛争を解決する手段としては」は「テーマの補足」である。
 日本国民は、国際紛争を解決する手段としては、(戦争と武力をつかうことは)永久にこれを放棄する、と言っている。
 2項目に「日本国民」を補うと、
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は(これがテーマ)、これを「日本国民は」保持しない。
 国の交戦権は(これがテーマ)、これを「日本国民は」認めない。

 自民党の案では「国民」が消えている。補うことが出来ない。
(1)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、
 この「主語」は「前条の規定」である。それにつづく文章は「説明」である。「妨げず」という動詞(述語)の主語は「前条の規定」であり、これは「説明文」になる。
 前条は、「我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げる」とは「規定していない」と言う文章を「言い換えた」ものである。「規定していない」という「解釈」を、「解釈」とわからないように書いている。
 「解釈する」というときは「動詞」が必要である。
 「前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していない」と、「国民は」解釈するでは、「解釈」を「国民」に押しつけることなる。これは「思想、信条の自由」に反する。だから、そうは書けない。「前条」をそのように「解釈する」人間は限られている。
 これは、

(1)前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していないと、「政府は」解釈する

 なのである。「政府(政権)」という「主語」が明示されないまま、ここに登場してくる。案をつくった「自民党」と言い換えてもいい。
 この「政権/自民党」という「主語」が引き継がれていく。

(2)そのための実力組織として、「政権(自民党)が提出した」法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を「政権(自民党)が」保持する。

 「法律」を「提案できる」のは「国民」ではない。「自衛隊」という組織を「保持できる」のは「国民」ではない。
 「動詞」と「主語」をていねいに補いながら読む必要がある。「動詞」と「主語」を補うと、「憲法」の「主役」が「国民」から「政権(自民党)」に移ってることがわかる。それも「隠したまま」、「主語」を乗っ取っているのである。
 「内閣総理大臣を最高の指揮官とする」ということばに従えば、主語は「内閣総理大臣(安倍)」ということになる。

(1)前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していないと、「安倍は」解釈する
(2)そのための実力組織として、「安倍が提出した」法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を「安倍が」保持する。
 つまり、これは「独裁」の宣言なのだ。しかもその「独裁」は「自衛隊」という組織をバックボーンに持っている。「軍事独裁」が安倍の夢なのだ。(2)で現行憲法で禁じている「武力」ということばつかわず「実力組織」とあいまいにしているのも、国民をだますためなのだ。
 (2)で補った「安倍が提出した」を中心に改憲の動きを見直すと、このことがよくわかる。
 改憲は安倍が提案したのだ。憲法を守る義務がある安倍が、率先して憲法を否定している。「軍事独裁」のために、である。

2項 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
 にも、「日本国民」を補うことは出来ない。あえて補えば

自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、「国民を代表する」国会の承認その他の統制に服する。

になるかもしれないが、「内閣(総理大臣」と「国会」の出てくる順序が現行憲法とは違う。現行憲法は「天皇→戦争放棄→国民→国会→内閣」という順に規定している。重視するものから先に規定している。
 「9条の2」で「国民」を飛び越して「主語」になった「安倍(内閣総理大臣)」は当然のように、ここでは「国会」を飛び越している。「国会」のうえに君臨する。

 安倍(自民党)の改憲案は、「安倍軍事独裁」のための改憲案である。


 安倍が「改憲案」として表明したのは(1)自衛隊を書き加える(2)教育の無償化だった。(2)はどんな文言になっているか。
 26条1項、2項に追加する形で「3項」を提案している。その部分だけを取り上げると全体が見えない。現行憲法とつづけて引用する。

第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

(自民党の追加項目)
3 国は、教育が国民一人一人の人格の完成を目指し、その幸福の追求に欠くことのできないものであり、かつ、国の未来を切り拓(ひら)く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み、各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、教育環境の整備に努めなければならない。

 なぜ、こんなに長いのか、それが気になるが。
 まず指摘したいのが、「主語」の問題。
 現行憲法は「すべて国民は」と書き出されている。「国民」が主語。
(1)国民は、教育を受ける権利を有する。
(2)国民は、子どもに教育を受けさせる義務を負う。
 権利と義務を明記している。義務は、国民の義務だが、なかには義務を果たせない人もいるかもしれない。経済的に学校へゆかせることができないという人もいるかもしれない。だから「2項」には、「義務教育は、これを無償とする。」という補足がついている。この補足には「主語」がふたつある。
(1)「国民は」、義務教育については、これを無償で受ける権利がある。
(2)「国は」、義務教育については、これ無償にしなければならない。(「国民は」、義務教育については無償で受ける権利を持つ。)
(2)の方は、私が子どものときから、小学校、中学校は無償である。
 「憲法改正」で問題になったのは、いわゆる「高等教育」である。貧困のために進学できない。それが問題になり「無償化」を安倍は提案したはずである。
 それだけなら、「3項」をつけくわえるというよりも「2項」の「義務教育」を「義務教育を含め、あらゆる教育」と書き換えるだけで十分である。ところが、そうしていない。何をつけくわえているか、どう書いているかに注意しないといけない。

 26条を含め、現行憲法の「第3章」には「国民の権利及び義務」というタイトルがついている。「国民」が「主役」である。すでにみたように、現行憲法の26条は「国民は」と書き出されていた。「国」は、隠されていて、補って読む必要がある。
 ところが自民党が追加した部分は「国は」と、「国」が「主語」として躍り出てきている。ここがいちばんの問題。「国民の権利と義務」なのに、「国」が「主張」している。「教育とは何か」について語っている。「国」が「教育」を押しつけている。
 どういう教育か。
(1)国民一人一人の人格の完成を目指し
(2)(国民の)幸福の追求に欠くことのできないものであり、
(3)かつ、国の未来を切り拓(ひら)く上で極めて重要な役割を担う、
 である。
 「人格の完成」というのは抽象的でわからない。「人格」は基本的に「個人のもの」であって、国にとやかくいわれるものではない。「人格」に「完成」があるかどうか、わからない。また目指す「人格」は、ひとりひとり違っているはずである。「個性/多様性」が認識されているかどうか、自民党の案では、あやしい。
 それは(2)と(3)が「かつ」ということばで連結されていることからもうかがえる。「国民の幸福(ひとりひとりの幸福)」と「国の未来」は同じか。同じこともあるかもしれないが、違うこともあるかもしれない。違っていたとき、「主語」の「国」は、国民に対してどう振る舞うのか。
 たとえば、「国の未来は安倍独裁政権を倒す以外にない」「民主主義は安倍政権を倒さないかぎり死んでしまう」という「教育」をどこかの学校がするとき、それは「国の未来」を構想したものとして、教育をつづけることが保障されるのか。「安倍独裁に対して批判を展開できる人間の完成を目指す」という教育は、国によって保障されるのか。
 おそらく、そうではない。
(1)「安倍政権を批判しない人間/権力を批判しない人間を育てる」ことを目指し、
(2)権力を批判しないことが、幸福につながり(皆が権力に奉仕することで、対立がなくなり)
(3)それが「独裁者」の指導の下に統一された国の未来になる
 ということを目指しているのだ。

 つづけて読んでいく。
(4)各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、
(5)教育環境の整備に努めなければならない。
 (4)は、「教育の無償化」について語っているように見える。しかし、その文末は「含め」という形で、次の(5)につながっている。「切り離せない」ものとして書かれている。そうであるなら、これは「教育環境の整備に努める」ということが「主眼」であって、その環境のひとつとして「経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保する(教育の無償化)」があると読むことができる。いや、読まなければならない。
 繰り返そう。学校が「国の未来は安倍独裁政権を倒す以外にない」ということをテーマに教育をするとすれば(研究をするとすれば)、そういう「教育の自由」は保障されるのか。きっと、保障されない。
 自民党(安倍)には、「理想の人間像」があり、そういう人間を育てるために「教育環境を整備する」ということが目的なのである。「理想の人間像」を「人格の形成」などと呼んでごまかしている。
 安倍の思い描いている「理想の人間像」とはどういうものか。安倍は防衛大学の卒業式に、「片腕になれ」と語っている。それが安倍の「理想の人間像」である。安倍のかわりに侵略戦争に出かけ、そこで「精霊」になる人間を「理想の人間像」と呼んでいる。
 軍人でなければ、たとえば「佐川」である。安倍を守るために、「文書は破棄して、ありません」と言い続け、「改竄」が問題になると、「誰が指示したのか」こたえることは訴追のそれがあるから答えられないといいながら、「安倍の指示はなかった」とだけ明言する。二枚舌をつかい、ただひたすら権力に奉仕する。
 学校教育というのは、おうおうにして「先生が求める答え」のみを「正解」とする。そういう採点システム(評価システム)になっている。そのシステムを駆け上った佐川は、いま「安倍先生」の求める答えのみを「回答」として提出している。「安倍先生」に百点をもらうためである。
 これが安倍の言う「教育環境」なのだ。
 森友学園に安倍がなぜ肩入れしたか。「教育勅語」を園児に暗唱させていたからだ。洗脳教育をしていたからだ。「教育勅語」につながる「超保守」の思想は、2012年の「自民党改憲案」に明確に出ている。
 今回の「改憲案」はその「先取り」である。「教育の無償化」を口実にして、教育全体を支配しようとしている。
 これは、もうひとつの「学園」問題、加計学園問題で話題になった、前川前文科省次官の「授業」について踏み込んで質問している文科省(介入を迫った国会議員)の問題からも明らかである。
 自立した人間、批判力をもった人間を育てない、ひたすら権力の言うことに従う人間を育てるために、学校教育が利用されようとしている。その支配が進められている。

 「教育」については「無償化」のほかにも、「改憲」が提案されている。「第7章 財政」の89条である。「金の支出」に関して、「教育」ということばが出てくる部分を改正しようとしている。
 現行憲法は、

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 この「公の支配に属しない」を「公の監督が及ばない」と書き変え、こうしている。

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 「公の支配に属しない」とは、それにつづく「教育(事業)」と結びつけて読むと「私立学校」になるだろうか。これを「監督が及ばない」と言いなおしたのはどうしてなのか。「監督するぞ」という意思表示である。
 どんな教育をするのか。「国の未来は安倍独裁政権を倒す以外にない」というような教育はさせないぞ、と言っているのである。教育の自由(学問の自由)を否定している。自民党の「無償化」は「学問の自由」を否定することで成り立っている。
 これは前川授業への介入という形で「先取り実施」されている。


 「参院選合区の解消」問題。
 現行憲法は、

第47条 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

 と単純である。
 これを自民党は、こう変更する。(1)(2)は、私が便宜上つけた。

第47条 1項 両議院の議員の選挙について、(1)選挙区を設けるときは、人口を基本とし、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して、選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるものとする。(2)参議院議員の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選ごとに各選挙区において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる。
2項 前項に定めるもののほか、選挙区、投票の方法、その他両議院の議員に関する事項は、法律でこれを定める。

 「2項」は現行憲法を踏襲している。というか、現行憲法の条文は「2項」に押し下げられている。
 「1項」が重要なのだが、条文が長すぎて、意味がわかりにくい。
 (1)は、どういうことか。
 現実の衆院選と参院選にあてはめてみると、わかりやすい。
 衆院選。「一票の格差」を是正するために、「市区町」という「行政区域」がそのまま「一つの選挙区」とはなっていないところがある。福岡市の場合、たとえば「福岡2区」はかつては中央区・南区・城南区の全域となっていたが、南区の一部が5区へ、城南区の一部が3区へ移動した。つまり、「行政区域」が一部で「分断」された。これを「やめる」ということ。
 参院選。鳥取県と島根県、徳島県と高知県では「県単位」の選挙区ではなく、ふたつの県が合わさって一つの選挙区になった。これを「やめる」。
 (2)で、さらに補足して、「都道府県単位」で最低一人以上の議員を選出できるようにしている。
 これは、どういう狙いがあるのだろうか。
 「一票の格差」が少しだけ改善されたのだが、それをもとに戻してしまうことになる。国民の「法の下の平等」がないがしろにされる。国民が訴訟を起こし、司法が現行の選挙制度は一票の格差を生み、「違憲」であるという判断を示した。その結果、やっと少し改善されたのに、それをもとに戻してしまう。
 なぜか。
 自民党の議席を確保するためである。参院選の「合区」が端的に示している。それまでは「鳥取県、島根県、徳島県、高知県」でひとりずつ、計四人議員が選ばれたのに、この制度では合計二人になってしまう。二人減になる。
 でも、議員数の確保だけではない。
 それは(1)の市区町の行政区域の「分割」を解消するという部分にあらわれている。なぜ行政区域の「分割」がまずいのか。「行政区域」ごとに国民を支配するという「制度」が揺らぐからだ。言い換えると、「行政区域」ごとに国民を支配する(独裁をおしつけるシステムを強化する)ためなのだ。
 「衆院選福岡2区」を例にとると。たとえば南区にある「法令」が適用されたとする。そのとき、「私は南区の住民だが、選挙区は2区だから南区に適用される法令は関係ない」と主張するということが起きるかもしれない。これでは「統制」がとれない。そういうことを避けるためである。
 
 だから、というか。その「証拠」に、というべきか。
 「合区の解消」を「名目」にしながら、憲法の改正は「47条」だけではなく、さらに別の狙いへ向けて動く。「47条」は「第4章 国会」のなかの条文だが、この改正が「第8章 地方自治」の「92条」にまで波及している。
 なぜなのか。

 現行憲法は、

第92条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

 と短い。これが、こう変わる。

第92条 地方公共団体は、基礎的な地方公共団体及びこれを包括する広域の地方公共団体とすることを基本とし、その種類並びに組織運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

 「基礎的な地方公共団体」というのは「市区町」のこと、「広域の地方公共団体」というのは「都道府県」を指している。「行政区域」と「選挙区域」を合致させるために、「地方公共団体」を定義し直しているのである。
 そして、このとき、その「広域の地方公共団体(都道府県)」を定義するのに「包括する」ということばが挿入されていることを見落としてはならないと私は考える。
 「包括する」は、すぐに「統括する」にかわる。上下関係ができる。
 地方自治では、いま「分権」が進んでいるが、これに逆行することが、これから起きるのだ。「分権」ではなく「権力の統合」が再編成される。安倍の独裁を強めるためである。
 「合区が解消される」「分割がなくなる」というだけでみつめてはいけない。
 司法判断にもとづいて、国会で決めた「合区」「分割」を否定し、権力の都合でもとに戻してしまう。そこに、すでに「独裁」が動いている。憲法で決めたのだから、「一票の格差は違憲だ」と訴訟を起こすことは許さない、という「独裁」が動いている。

 「合区の解消」という「名目」にだまされてはいけない。「名目」の陰で陰謀が動いている。47条改正を前面に出して、92条の改正についてはなるべく触れないようにしている。それこそが「狙い」だからだ。


 自民党の「緊急事態対応」は、非常にわかりにくい。
 ふたつの部分からなっている。「国会に関する4章の末尾に追加」と「内閣の事務を定める73条の次に追加」である。
 現行憲法と「追加条項」をつづけて読んでみる。

(現行憲法)
第64条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
(追加部分)
 64条の2
 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、衆議院議員の総選挙又(また)は参議院議員の通常選挙の適正な実施が困難であると認めるときは、国会は、法律で定めるところにより、各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。

 これは、何度読んでも「つながり」が悪い。
 64条は「弾劾裁判」に関する条項だ。趣旨は、日本は「三権分立」制度を採用しているが、だからといって「裁判官」の「独断」を許しているわけではない。国会でコントロールできるようにしている。そのことを定めているのが64条である。
 このあとに、「大規模災害」のときには選挙を省略し、衆院、参院両議院の任期を延長できるというのは、どうもおかしい。
 「司法」をコントロールするという条項の後に、国会議員の任期延長を置くのはなぜなのか。その前に書かれている「大地震その他の異常かつ大規模な災害」のなかに「司法」を含んでいるためではないのか。つまり、「司法」が政府(安倍)にとって不都合な判断を下す。これを「異常な大災害」であるとみなし、不都合な判断を下した裁判官を国会で弾劾してしまう、ということが狙われているのでではないのか。
 たとえば、「一票の格差は違憲である」という判断は、安倍が狙ってる「参院選の合区解消」とは真っ向対立する。一票の格差を残したままの選挙は「違憲」であると判断され、その結果、1県に1議席はかならず確保できた自民党の議席がなくなるというのは、自民党にとっては「異常な災害(人災、司法による災害)」である。
 「大地震その他」の「その他」を見落としてはいけない。
 この項目は、「合区解消」(参院選の選挙区は都道府県単位)という項目と連動して読み直さなければいけない。
 もし「任期」に関しての「改正」というのなら、現行憲法の45条、46条の後の方が「論理的」に読むことができる。
 現行憲法は、こうなっている。

第45条 衆議院議員の任期は、4年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
第46条 参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに、議員の半数を改選する。

 「任期延長」だけが問題なら、「任期」について書いてある条項のあとにつけるべきである。それを避けて、「弾劾裁判」のあとにつづけているのは、「大災害」として想定されているものが、「大地震」などの「自然災害」ではないからだ。
 政府(安倍)の判断に異議を唱えるものは、すべて「災害」と認定し、それを弾圧する。「独裁」がここでも隠されている。
 これを「補強」するのが、

各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。

 という部分である。「任期」は「特例」として、どこまでも延長できる。
 安倍に異議を唱えるもの、独裁反対を叫ぶ人間がいなくなるまで、安倍の言いなりの自民党議員が国会を支配する。

 73条の方は、どうか。

(現行憲法)
第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二 外交関係を処理すること。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五 予算を作成して国会に提出すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。

(追加部分)
73条の2
 1項 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情があるときは、内閣は、法律で定めるところにより、国民の生命、身体及び財産を保護するため、政令を制定することができる。
 2項 内閣は、前項の政令を制定したときは、法律で定めるところにより、速やかに国会の承認を求めなければならない。

 ここでも「問題」は「法律」なのだ。
 政府は裁判所が「違憲」と判断しないかぎり、法律にもとづき行政を執行できる。しかし、「違憲」は判断されたときは、その執行ができない。
 参院選の「一票格差」は「違憲」と判断された。だからなんとかして憲法を変えないと「合区」は解消できない。「合区」は国会で法律を制定し実施したものだが、もし「合区解消案」が承認されなくても、「73条の2 その1項」によって強引に「合区」を解消できる。「都道府県ごとに1人の議員が選ばれないのは異常な事態である」と判断すれば、政令を制定できる。「政令」では選挙はできないと言うかもしれないが、それをやってしまうのが安倍である。「合区された都道府県民の生命、身体及び財産を保護するため」と言ってのけるだろう。
 多くの人が指摘しているように「大地震その他の異常かつ大規模な災害」の「その他」が具体的に明示されていないのも非常に問題である。
 安倍退陣を要求し、国会前で大規模なデモが行われたとする。これも「定義」しだいでは「異常かつ大規模な災害」と言うことができる。デモ隊が車道にあふれ、車が通行できない。これは「異常事態(災害)」であると言えるし、「安倍が批判される」ということ事態が「異常な大規模災害」と言うこともできる。安倍にとって「打撃」だからである。あらゆることが「恣意的」に判断され、取り締まられる。
 「2項」は内閣による「政令」の乱発、恣意的な発令に歯止めをかけているように見えるが、そのときの「国会」は自民党によって支配されているから、単なる「追認」にすぎない。
 現行憲法では「政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない」という文言があるが、追加されたその文言がない。同じ「政令」であっても、平常時の「政令」と緊急事態時の「政令」は違うから、「罰則は可能」という「読み方(解釈)」もできる。すでに安倍が、憲法を独断で「解釈」するということが起きている。新しい「政令」にはきっと「罰則」がついていて、国民の自由はなくなる。「独裁」が加速する。

 憲法は権力の暴力を許さないためのものである。
 「改憲案」は権力の暴力についてどんな歯止めをかけているか、という点から読まないといけない。「独裁」を封じるために、どういう文言をつかっているか、そこから読み直さないといけない。
 安倍が主導している「改憲案」には権力に対して制限を加える項目はどこにもない。
 「内閣は、前項の政令を制定したときは、法律で定めるところにより、速やかに国会の承認を求めなければならない」は歯止めに見えるが、歯止めとしては働かない。このときの国会は、勝手に任期を延長した国会であり、そこには安倍の独裁に支配された議員しかいないからだ。
 どんなふうに「独裁」を支えるための罠が隠されているか、それを探しながら読まないといけない。




 憲法記念日。
2018年5月3日の朝日新聞朝刊(西部版・14版)の一面に「憲法を考える」が掲載されている。そのなかに、改憲論者の「出発点」が次のように簡単に紹介されている。

自民党の誕生前、安倍首相の祖父、岸信介元首相(故人)は、講演会誌の1954年1月号でこう訴えた。「民族的自信と独立の気魄を取り戻す為には吾々の手に依つて作られた憲法を持たねばならぬ」

安倍はこの「遺志」を引き継いでいる。アメリカによる押し付け憲法ではない「日本らしい」憲法を、というわけである。
この主張には、巧妙に隠されていることがある。
岸は、

民族的自信と独立の気魄を取り戻す

と言っている。その主張から「民族」ということばが省略されている。
ここを見落としてはいけない。
言い換えると、安倍の改憲論は、「民族」を取り除いたものであるかどうか、あらゆる民族に開かれたものであるかどうかを問い直さなければならない。
 日本に住むあらゆる民族(当然、韓国・北朝鮮人、中国人、他のアジア諸国の人々)でありながら「日本国籍」を持っている人を意識しているかどうか、という点から問い直さなければならない。
 民族がなんであろうが、日本に住み、日本国籍を取得し、暮らしている人を含めて、「日本国民」の憲法を目指しているか。
 社会にあふれる「民族ヘイト」を見る限り、(安倍を支持している右翼の言動を見る限り)、そこには「他民族」への配慮は見られない。
 これは大問題である。
 日本の人口(日本民族の人口)はどんどん減っている。労働力の多くはすでに「外国人」に頼っている。
 これからの日本は、外国人(移民)に頼らないことには成り立たない。
 フランスは人口減を移民を受け入れることで乗り切った。
 同じ政策なしでは、日本は立ち行かない。
 外国人を「研修生」と呼んで安価に労働させるという手法では、日本は確実に滅ぶ。

 ここから、自民党の「改憲案」を見直すことも必要である。
 安倍が目指しているのは、単純に「国民のために頑張っている自衛隊を違憲と呼ぶのはかわいそう」というだけの視点からみてはいけない。
 安倍が狙っているのはナチスと同じ「民族差別」と「民族差別による独裁」そのものである。


 自民党の改憲案でいちばん注目をあつめているのが「憲法9条」と「自衛隊」の問題。安倍は「自衛隊を憲法に書き加える」と主張している。そのときの「根拠」は、「災害救助にがんばっている自衛隊が、違憲であるといわれるのはかわいそう。自衛隊の子どもたちがかわいそう」というものである。
 このことは、よくよく考えてみる必要がある。
 もし、自衛隊が憲法に書き加えられたとしたら、その後「自衛隊は違憲である」という意見はなくなるのか。
 きっとなくならない。
 安倍がむりやり憲法に書き加えたものである。この改憲は許せないという意見が出るはずである。
 安倍が、現在の憲法がアメリカ(連合軍)の押し付けである、と主張するのと同じように、安倍によって押しつけられた改憲である、という主張が起きるはずである。
 そのとき、安倍はどうするか。
 「憲法に自衛隊が書かれているのに、違憲であるという主張をすることは許されない」と言うに違いない。
 憲法が、違憲弾圧に使われるのである。

 憲法は、思想、表現の自由を保障している。
 しかし、「自衛隊は違憲である。憲法改正は安倍が強引に仕組んだ犯罪である」というような主張は、きっと弾圧される。
 弾圧に利用するための、憲法改正である。
 安倍が自衛隊の最高指揮者として、あらゆる機会に自衛隊を出動させる。選挙の監視にも動員されるだろう。選挙妨害がおきては秩序が保てない、というように理由はいくらでもつくりあげることができる。
 選挙公約に「自衛隊を憲法から外す、9条をもとのかたちにもどす」というようなことをかかげれば、即座に「憲法違反の主張だ。犯罪者だ」とレッテルがはられるだろう。

 ほんとうに危険なのは、自衛隊を憲法に書き加えることではなく、改憲後の憲法は絶対である。それに反対することは許されない、という主張が大手を揮うことである。
 思想、信条の自由、言論の自由は、改憲と同時に加速する。
 独裁、全体主義が加速する。それを軍隊(自衛隊)が監視する。
 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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