詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

文貞姫『今、バラを摘め』

2018-05-22 11:28:45 | 詩集
文貞姫『今、バラを摘め』(韓成禮編訳)(韓国現代詩人シリーズ④)(思潮社、2016年03月10日出版)

 文貞姫『今、バラを摘め』は、どれもおもしろい。「断定」が強い。
 「老いた花」という作品。

どこに老いた花などあるだろう
花の生涯は束の間である
美しさとは何かを知っている種属の自尊心によって
花はどんな色に咲いても
咲く時、全力を尽くしてしまう
恍惚の、この規則を破った花は未だに一輪もない

 一行目の「どこに老いた花などあるだろう」は問いかけではない。「そんなものは、ない」という「断定」を隠している。というよりも、そういう「断定」は自明のことであり、ことばにする必要がない。だから書いていない。
 「花の生涯は束の間である」は一行目の言い直し。「花の生涯は束の間である、だから老いた花など、存在しない」。
 そう断定した後で、文体が一転して長くなる。文以外のだれも語っていない「理由/根拠」を語るために長くなる。「文体」そのものが「独自」のものである。こここそが文の書きたいことばなのだ。

美しさとは何かを知っている種属の自尊心によって
花はどんな色に咲いても
咲く時、全力を尽くしてしまう

 この三行には「動詞」が複雑に絡み合っている。ひとつの動詞が動く時、別の動詞も一緒に動く。人間が歩く時、足が動くのだが、同時に手も動くし、眼も動いているのに通じる。動詞が連動して動くことで、そこに「花」の「肉体」があらわれてくる。
 「美しさとは何かを知っている種属の自尊心によって」は「花」という「種属」は「美しさ」を「知っている」ということ。「知っている」は「自尊心」に通じる。「知っている」は「肉体」そのものになって、「肉体」を他のものから「独立させる」。「自尊心」とは「自覚」でもある。「自分が何者であるか、知っている」。
 この「自尊心によって」は「知ることによって/自覚することによって」と言いなおすことができるのだが、その「動詞(動き)」は、他の動詞とどんな具合に結びつくか。
 「知ることによって(自覚することによって)」、「咲く」のか、それとも「全力を尽くす」のか。これは区別できない。切り離せない。だからこそ、「咲いても」と言った後、もう一度「咲く」という動詞を「咲く時」と「時」という「名詞」のなかに隠しながら、「咲く」とは「全力を尽くす」ことだと言いなおす。「全力を尽くす」だけではなく、「尽くしてしまう」。消尽。あるいは焼尽、か。「尽くしてしまった」(それを経験した)から、それが「知っている」という自覚、自尊心になる。
 そういう「動詞」の切り離せない動きを「花の肉体(いのち)」のあり方として肯定した上で、

恍惚の、この規則を破った花は未だに一輪もない

 と再び「ない」という否定によって「断定」する。
 「断定」には肯定の断定と否定の断定がある。どちらが強い断定かは、受け取る人によって違うかもしれない。
 文の「否定の断定」には、ひとつの特徴がある。「他人の考え」を否定し、そうすることによって「文自身の考え」を肯定するということである。対比によって、自説を強調する。
 「老いた花はあるか」。そんなものは「ない」。花はただ「咲く」だけである。「咲く時に全力を尽くさない花があるだろうか」。そんなものは「ない」。「咲くということに全力を尽くす」だけである。文は「花は咲く」「花は咲く時全力を尽くす」ということだけを「肯定」するために、そのほかの花の定義を否定する。
 私の考えだけが正しい。それが文の「自尊心」である。それは文だけが「知っている」ことである。

 「咲く」は自分(文)だけが知っている。この「自覚(自尊心)」は、正しいか。正しいとしたら、何によって証明されるか。

 「恍惚」ということばがカギだ。文は「恍惚」を「知っている」。「恍惚」というものは、他人ものではない。自分だけのものである。自分の「肉体」でつかみとった、自分の「真実」である。
 恍惚によって、文の「肉体」の「色」がかわる。どんな色になっても、かまわない。知ったことではない。自分が自分でなくなる。その瞬間、では文は何になるのか。「花」になるのだ。
 「花」になって咲いた記憶が文の「肉体」のなかにある。それが「知っている」ということであり、それが「咲く」とは「全力を尽くしてしまう」ことだという「自尊心」になっている。「おまえは、全力を尽くしてしまったことがあるか」「おまえは、恍惚を生きた瞬間があるか」「私にはあるぞ」と自慢するのである。自分の「肉体(いのち)」の肯定である。
 このことばの動きは強い。

 「鳥葬」も「肉体」のとらえ方が強烈だ。

砂漠で死体を啄ばむ鳥を見てからは
世の鳥すべてが身内に見える
家に帰った後も私の肉と血は
鳥の目のように鋭くて腹黒い
いくら洗っても罪の臭いがする

 「世の鳥」とは「この世の鳥」であり、「生きている鳥」ということだ。「死体」とは対極にある。文は「この世の鳥」になって、自分の「いのち」と「死者」との関係を見つめなおしている。私たちは、だれかの「肉と血」を引き継いでいる。「だれかの」というよりも、あらゆるひとのかもしれない。そうすることで「この世」が成り立っている。「この世の鳥」の姿には「あの世の人間」が重なってしまう。
 それは、「罪」か。
 「罪」だとしても、それは「喜びの罪(恍惚の罪)」だろう。生きるために「死体」を食う。その「喜び」、その「恍惚」。「喜び」も「恍惚」も「この世」のものであり、同時に「あの世」を教えてくれる。言い換えると、自分を忘れさせてくれる。自分が自分でなくなることを、ぐい、と押してくれる。
 こういうことに「罪」という名前をつけるのは、その「罪の喜び/罪の恍惚」を知らない人間である。


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今、バラを摘め (韓国現代詩人シリーズ 4)
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