詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョージ・クルーニー監督「サバービコン」(★★★★★)

2018-05-06 20:40:47 | 映画
ジョージ・クルーニー監督「サバービコン」(★★★★★)

監督ジョージ・クルーニー 出演 マット・デイモン、ジュリアン・ムーア、オスカー・アイザック

 この映画のポイントは。
 ジュリアン・ムーアが双子を演じること。演じるといっても、最初の部分だけで、あとは「ひとり」の役。
 で、「双子」っ何だろう。
 よほどのことがないかぎり、見分けがつかない。
 私の姪に「双子」がいる。一卵性なので、見分けがつかない。私は、その子守をしたくらい「長い」付き合いだが(おしめを変えてやったこともある)、ぜんぜん区別ができなくて、二人がいっしょのときにだけ呼ぶ。どちらかが返事をする。こうすると間違えずにすむからね。
 何が言いたいかって……。
 「ひと」はなかなか「ひと」を見分けることができない。「外観」で「本人」をつかみとることができない。この「哲学」がおもしろい形で映画になっている。
 「サバービコン」は郊外の振興住宅地。そこには「金持ち」だけが集まってくる。似たもの同士(双子同士)。そこへ「アフリカ系」の家族が引っ越してくる。「アフリカ系」と言っても、ひとりひとり違うのだけれど、「同じ白人の金持ち集団」から見ると、ひとくくりにして「アフリカ系」。「個人」が見えない。つまり、「ひと」として「見分ける」ということがおろそかになる。「白人の金持ち」はひとりひとり見分けられる。「双子同士」だから。「個人」として認められるが、「アフリカ系」は「個人」としては認められていない。「双子」ではないから、「個人(対等な人間)」として認めなくないのだ。
 その新興住宅には「アフリカ系」は「一家」しかいないのだが、その「一家」に「アフリカ系」の全部を押しつけてみている。そして、「アフリカ系」のすべてを、そこから引き出し、「出て行け」と騒ぎ始める。「個人」ではなく「双子」、いや「双子」をかってに想像のなかでふくらませて「集団」として見ているといえばいいのかな。
 ほんとうは「人間」として違いがないのに、皮膚の色で「違い」を単純化する。「アフリカ系」は犯罪とつながっている、とかってに決めつける。だから「出て行け」という。その「出て行け」運動の方が「犯罪」になるとは、すこしも考えていない。
 こういう動きがある一方。
 「白人」の方にも「違い」があるはずなのに、その「違い」を見ようとはしない。つまり、「白人」は全員善良である。「金持ちの新興住宅」には「悪人」はいない。いても、見つからない。これを利用(?)して、この映画のメインストーリーは展開する。
 でもね。
 ひとは「見かけ」ではわからない。ここからが、「テーマ」だね。
 ジュリアン・ムーアは髪の色で違いを出していたが、髪の色を変えてしまえば、もう、わからない。「双子」のどっちが好きなのか。マット・デイモンにも、わからない。妹(姉?)の方が魅力的? そう感じるのは、なぜ? たぶん、「悪人」の方が魅力的なのだ。「悪」の匂いというは、ひとを昂奮させる。「悪」にひとは惹きつけられていく。
 白人集団が「アフリカ系は出て行け」と暴走するのは、一種の「悪」への陶酔だ。平和を愛するというよりも、「悪」を行うことの方が、何か解放感があるからだろう。
 おもしろいのが(?)、マット・デイモンとジュリアン・ムーアのセックス。地下室で(たぶん、地下室をマット・デイモンの寝室にしたのはこのためなのだが)、マット・デイモンがジュリアン・ムーアの尻をぶっている。セックスというのは、当人同士の問題だから何をしてもいいのはいいのだけれど、ここでは「暴力」が快感になっている。「悪」の喜びだね。それを子どもに見られる。子どものほうが正常で、灯を消して見えなくする。「双子の姉」が殺されたのは、「悪」の要素が少なかったからだ。
 最初の方のシーン。殺されるジュリアン・ムーアは、子どもに対して、「引っ越してきた家には子どもがいる。いっしょに野球をしたら」と促す。彼女には「人種差別」の意識がない。いわゆる「善人」である。だから、殺されたのだ。
 「善」と「悪」は双子で、それは「区別」がつかない。
 この「哲学」から、この映画は見直すとおもしろい。もう一度見る、というのではなく、意識の中で反芻するという形で、見直す。
 いちばん象徴的なのが、クライマックスのサンドイッチとミルク。それはおなかがすいては眠れない子のための食事だったはずだ。子ども思いの母親がつくる料理だ。けれど、そのサンドイッチとミルクには睡眠薬(?)が大量に含まれている。食べた人間を殺すためにジュリアン・ムーアがつくったものだ。けれど、それを子どもは食べない。帰ってきたマット・デイモンが何も知らずにぱくぱく食べる。「善」だと思って食べる。しかし「悪(毒)」だった。
 これは保険調査員(ジョージ・クルーニーの「双子」と勘違いしそうな風貌で、オスカー・アイザックが演じているのが興味深い)に出された洗剤入りコーヒーも同じだけれどね。ジュリアン・ムーアは一貫して、「親切」を装って「悪」を働いている。「親切」か「悪」か、「外見」ではわからない。それは「双子」なのだ。
 マット・デイモンが、「悪人」であるとわかるにしたがって、どんどん太っていく。「ひとり」なのに「双子」のうちの「ひとり」のように膨らんでくるのがなんともいえずおもしろい。

 ラストシーンも、「意味深」である。
 残された少年が、アフリカ系の少年と野球(キャッチボール)をする。ふたりはどうみても「双子」ではない。似ていない。けれど、二人のあいだをポールが往き来する。交流がある。もし、ほんとうに「善」があるとすれば、そういう異質なもののあいだで成り立つ交流のことだろう。ここにコーエン兄弟の「夢」、アメリカの「夢」が描かれているともいえる。
 でもね、良く見ると、二人のあいだには「垣根」がある。「垣根」を挟まないと交流(善)が実現しないというのが、いまのアメリカの姿である、と告発しているようにも見える。

(2018年05月06日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン9)


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