詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』

2018-05-14 10:58:16 | その他(音楽、小説etc)
イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』(関口英子訳)(国書刊行会、2018年03月23日発行)

 イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』は、初期の短編集。初期のせいなのか、訳文のせいなのかわからないが、少しぎこちない。(「血とおなじもの」の118ページ。「彼らは衝羽根樫の下に座って話しこんだ。藁の上に寝ると脚にできる皮膚炎を治す方法だとか、地域一帯の孤立したパルチザン兵たちを正式に再編成し、盗賊のように森をうろつくことをやめさせる必要性だとかいったことについて。」この部分の「藁の上に寝ると脚にできる皮膚炎を治す方法」がわかりにくい。「寝ると」は「寝たとき」という意味になるのだと思うが、そう理解するまでに三回読み直してしまった。「動詞」が「寝る」「できる」「治す」と多すぎる。それにつづく、「パルチザン」の部分も、「孤立する」「再編成する」「うろつく」「やめさせる」と動詞が多い。そのために文体のスピードが落ちている。)
 でも、「最後に鴉がやってくる」はおもしろい。特に最後の部分、クライマックスがすばらしい。
 少年狙撃兵から逃げる兵。目の前に草地が広がる。飛び出せば撃たれる。けれどその向こうの藪に飛び込めば確実に逃げることができる。どうしよう。
 悩んでいると、空を鳥が飛んでくる。鳥の通り道なのか、何度も飛んでくる。その鳥を少年はすべて撃ち落とす。ところが、頭上で旋回する鴉は落ちない。かわりに近くの松から松ぽっくりが落ちてくる。

 銃声がするたびに兵士は鴉を見上げた。落ちるだろうか。いいや、落ちる気配はない。その黒い鳥の描く輪は、彼の頭上でしだいに低くなっていく。少年に鴉が見えていないということがあるだろうか。もしかすると、そもそも鴉なんて飛んでおらず、自分の幻影なのかもしれない。きっと死にゆく者はあらゆる種類の鳥が飛ぶのを見るものなのだろう。そしていよいよ最期というときに鴉がやってくる。いや、相変わらず松ぽっくりを撃っている少年に教えてやればいいだけの話だ。そこで兵士は立ち上がり、黒い鳥を指さしながら、「あそこに鴉がいるぞ!」と叫んだ。自分の国の言葉で。
 その瞬間、兵士の軍服に縫い取りされた両翼をひろげた鷲の紋章のど真ん中を、弾が撃ちぬいた。
 鴉が、ゆっくりと輪を描きながら舞いおりた。

 現実なのか、幻想なのか、わからないくらいに緊迫感がある。現実も身に迫りすぎると幻想のように明瞭になるのかもしれない。明瞭になりすぎた現実を幻覚と呼ぶのかもしれない。
 奇妙な言い方だが、いつ撃たれるんだろう、いつ死ぬんだろうと「期待」しながら読んでしまう。死ぬというのは決して「いいこと」ではないのに、わくわくしてしまう。そして、死んでしまうのに、なぜか、ああよかった、と思ってしまう。
 撃たれる兵士の気持ちだったのか、撃つ少年の気持ちだったのか。私は、いったいどちらに「感情移入」していたのか。
 「主人公」、あるいは「脇役」というような「人間関係」を忘れて、その「状況」そのものの緊迫感なのかにのみこまれてしまう。個人を超えて、「状況」そのものが「主人公」になってしまう瞬間がある。
 『真っ二つの子爵』では、「謎解き」のシーンがそれだ。悪人(?)の方の子爵が、ものを半分に切って、残していく。それを見て、「あ、これは、どこどこで待っている」という決闘の呼びかけだと「謎解き」をする。もし、その「謎解き」が解けなかったら、次はどうなる? というのは「現実」の世界のことであって、「小説」のなかでは「謎解き」は絶対に「解かれなければならない」。そういう「運命」のような「状況」の強さ。それをイタロ・カルヴィーノは軽快に、明るく書いてしまう。そのスピードに、私は私自身を忘れてしまってのみこまれる。私はいったいどっちの見方だった? それを忘れてしまうのである。
 こういう「文体」の力はどこから来ているのか。「文章のリズム(ことばのリズム)」には、個人がもっているリズムのほかに、その「国語」自身がもっているリズムがある。そして、不思議なことに「国語自身のもっているリズム」というのは、「国語」を超える力を持っている。「ことば」すべてに共通するものをもっている。「論理のリズム」だ。
 「鴉」にもどると、

そこで兵士は立ち上がり、

 この「そこで」が「論理のリズム」(論理を動かすことば)である。先の引用部分には「そこで」は一回しか書かれていないが、読み返すと随所に「そこで」を補うことができる。

その黒い鳥の描く輪は、彼の頭上でしだいに低くなっていく。「そこで」少年に鴉が見えていないということがあるだろうか「と、兵士は考えた」。「そこで」もしかすると、そもそも鴉なんて飛んでおらず、自分の幻影なのかもしれない「とも考えた」。

 ひとつの行動(文章)から次の文章へ動く。そのあいだには「そこで」というあいまいな「論理(理由)」が動いている。「そこで」によって人間は動いている。そういうものをつかみとり、それを省略することでことばを動かしている。
 だから、というとまた変な言い方になるのだが。
 なぜ、カルヴィーノは、ここだけ「そこで」を残したのか。
 これが、とても重要。
 ここから「世界」が変わるのだ。それまでは、兵士の「思い(考え)」が動いている。でも、「そこで」のあとは「考え」ではなく、「肉体」そのものが動いている。「立ち上がる」「指さす」「叫ぶ」。この転換、大きな転換のために「そこで」が必要だったのだ。「そこで」の力を借りる必要があったのだ。
 もちろん「そこで」はなくてもいい。消しても、全体の「意味」はかわらない。けれど、「ここがクライマックス」という強調構造が消えると、すこし弱い。
 「そこで」ということばで「違和感」を引き出して、それから「リアル」な動詞を並べる。「肉体」そのものを動かす。
 うーん、と私はうなる。
 そのあとの二行は、「現実」なのか、それとも兵士が死ぬときに見た「夢」なのか。
 「現実」と「夢」とのあいだに、「ことば」がある。


*

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最後に鴉がやってくる (短篇小説の快楽)
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