橋本シオン「今日は晴れているから」(「現代詩手帳」2018年05月号)
橋本シオン「今日は晴れているから」は、こうはじまる。
「冷たい」ということばが二回出てくる。「セックスをする」ということばも二回出てくる。それは対になっている。そして「冷たい」が繰り返されると、それは「寒い(寒すぎる)」に変わる。
ここには明確な形で「動詞」が書かれているわけではないが、「冷たい」から「寒い」への変化には「動詞」がある。
なぜ「冷たい」が「寒い」に変わるのか。
「わたし」が「肉体」でつかみとろうとしているものが、「ことば」になろうとしている。あるいは「肉体」でつかみとって、「ことば」を生み出そうとしている。その動きが影響していると思う。
ここには、また「知っている」という動詞がある。「少しだけ」という限定がついている。「知らない」ということでもある。「知っている」と「知らない」も、変化である。「知らない」が「知っている」に変わるのか、「知っている」が「知らない」に変わるのか。それは「セックスする」という「動詞」のなかで、これから起きることである。
だが、「起きる」ことが何なのか、わからない。
「わたし」にわかるのは「性器」が「濡れそぼる」という「動詞」だけである。(この「濡れそぼる」というのは、正しい言い方なのかどうか、私はわからない。)
「冷たい」「寒い」のかわりに「熱」が書かれる。「からだが孕む熱」(からだの内部にある熱)のせいで、「裸」(空気に晒されている外縁/内部の対極)が「冷たい」「寒い」と感じられる。
このとき思い出している(つまり、肉体の内部にある)母のことば、「淫乱で売女」は「熱い」のか「冷たい」のか。「冷たい」ことばだから、それが「熱」を意識させるのか。やはり、何かが動いている。
熱を「下げる」ではなく「沈める」という動詞で橋本はことばをつないでいる。「沈める」は、たとえば「怒りを沈める」という動かし方がある。母のことばに対する「怒り」が「からだ」を熱くしているとは思えないが、「沈める」という動詞は何かしら母のことばとつながっている。この脈絡は、複雑で、興味深い。
そういうこととは別に、「ペニス」ということばの一方で、「ここ」ということばがつかわれていることが、とてもおもしろい。
なぜ「ここ」なのか。
「性器」であることは知っている。けれど「名前」は知らない。だから「ここ」と呼んだのだ。でも男の「性器」が「ペニス」であると知っているのはどうしてなのか。
簡単に言えば、「ペニス」で考えないからである。「ペニス」といっしょにことばが動かないからだ。「わたし」の「性器」は「濡れそぼつ」。「わたしには濡れそぼった性器がついていて」と書くとき、「性器」が主語で「ついている」が「述語(動詞)」なのだが、その「性器」の内部(?)で「濡れそぼつ」という「動詞」が動いている。「濡れそぼつ」という動詞が性器を動かしている。しかも「濡れそぼつ」というのは「意思」でどうこうできる問題ではない。(と、私は思っている。女性性器をもっていないので、これは私の空想なのだが。)
「知らない」と言うしかない理由は、たぶん、ここにある。
自分の「意思」で動かせないものがある。だから「これ」と呼ぶしかない。ことばになるまえのもの、「未生のことば」としての「これ」。
「熱」はここから生まれてくる。そして、それに「名前」がついていていない(客観化できない)ために、うごめき、それがさらに「熱」になる。このうごめく「熱」が、外部を冷たい、寒いということばとして浮かび上がらせる。
「冷たい」「セックスする」が繰り返され「寒い」になるとき、内部では「名前のないもの」が動いている。
それは「教えられない」。それは自分でつかみとるしかない。
「教えられた」としても、「淫乱」「売女」のように、「知っていることば」とになるだろうか。「流通言語」として、他人に共有されるものになるだろうか。ならないだろう。それは「わたし(橋本)」だけのものだから。他人には共有できないものだから。
このあと、詩は、クライマックスというのが、もうひとつの「強いことば」を生み出す。
「これ」とは男が「わたしの上で腰をふって、苦しそうな顔」をしてるということだ。「あれ」とは「わたしの性器(ここ)」の内部で動いていることばにできないこと、まだ名づけられていないこと、である。
「ここ」も「あれ」も「わたし(橋本)」には何のことかわかる。それは自分の「肉体」そのものだからだ。だが、それは「正しい名前(他人と共有できることば)」にはならない。共有できる「正しい名前」にしてしまえば、きっと「肉体」が「それは違う」というだろう。「ここ」「あれ」と呼ぶしかない。
「あれ」と「遠く」をさすことばがつかわれているのは、それが「いま」はじめてあらわれてきたもの、まだ完全に自分のものとしてはつかみきれていない「恐れ」のようなものが、そう呼ばせるのだろう。うまれたばかりのことばなのだ。
ことばにならないからこそ、そこに「正直」が動いている。
*
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橋本シオン「今日は晴れているから」は、こうはじまる。
わたしはセックスをする。長屋の二階の、冷
たい板の間の上で、少しだけ知っている男と
セックスをする。十月の空気が冷たくて、裸
のままでは寒すぎる。わたしの性器は濡れそ
ぼる。
「冷たい」ということばが二回出てくる。「セックスをする」ということばも二回出てくる。それは対になっている。そして「冷たい」が繰り返されると、それは「寒い(寒すぎる)」に変わる。
ここには明確な形で「動詞」が書かれているわけではないが、「冷たい」から「寒い」への変化には「動詞」がある。
なぜ「冷たい」が「寒い」に変わるのか。
「わたし」が「肉体」でつかみとろうとしているものが、「ことば」になろうとしている。あるいは「肉体」でつかみとって、「ことば」を生み出そうとしている。その動きが影響していると思う。
ここには、また「知っている」という動詞がある。「少しだけ」という限定がついている。「知らない」ということでもある。「知っている」と「知らない」も、変化である。「知らない」が「知っている」に変わるのか、「知っている」が「知らない」に変わるのか。それは「セックスする」という「動詞」のなかで、これから起きることである。
だが、「起きる」ことが何なのか、わからない。
「わたし」にわかるのは「性器」が「濡れそぼる」という「動詞」だけである。(この「濡れそぼる」というのは、正しい言い方なのかどうか、私はわからない。)
母曰く、淫乱で売女なわたし、そのからだが
孕む熱をどうか、そのペニスで沈めてくれま
せんか。多くは望まないので、ただここに、
いれてくれるだけで構わないのです。
「冷たい」「寒い」のかわりに「熱」が書かれる。「からだが孕む熱」(からだの内部にある熱)のせいで、「裸」(空気に晒されている外縁/内部の対極)が「冷たい」「寒い」と感じられる。
このとき思い出している(つまり、肉体の内部にある)母のことば、「淫乱で売女」は「熱い」のか「冷たい」のか。「冷たい」ことばだから、それが「熱」を意識させるのか。やはり、何かが動いている。
熱を「下げる」ではなく「沈める」という動詞で橋本はことばをつないでいる。「沈める」は、たとえば「怒りを沈める」という動かし方がある。母のことばに対する「怒り」が「からだ」を熱くしているとは思えないが、「沈める」という動詞は何かしら母のことばとつながっている。この脈絡は、複雑で、興味深い。
そういうこととは別に、「ペニス」ということばの一方で、「ここ」ということばがつかわれていることが、とてもおもしろい。
なぜ「ここ」なのか。
インターネットの太い河から、幾多にわかれ
た細い水の流れを、わたしはなぞって、そう
して知り合った男たちは皆、なぜかペニスが
ついていた。わたしには濡れそぼった性器が
ついていて、その性器の名を、わたしは知ら
ない。
淫乱で売女だと教えてくれた母も、正しい名
前を教えてくれない。なんでみんな、教えて
くれないのだろう。あなたにもついて、いな
いのだろうか。濡れそぼるこの性器の、正し
い名前を。
「性器」であることは知っている。けれど「名前」は知らない。だから「ここ」と呼んだのだ。でも男の「性器」が「ペニス」であると知っているのはどうしてなのか。
簡単に言えば、「ペニス」で考えないからである。「ペニス」といっしょにことばが動かないからだ。「わたし」の「性器」は「濡れそぼつ」。「わたしには濡れそぼった性器がついていて」と書くとき、「性器」が主語で「ついている」が「述語(動詞)」なのだが、その「性器」の内部(?)で「濡れそぼつ」という「動詞」が動いている。「濡れそぼつ」という動詞が性器を動かしている。しかも「濡れそぼつ」というのは「意思」でどうこうできる問題ではない。(と、私は思っている。女性性器をもっていないので、これは私の空想なのだが。)
「知らない」と言うしかない理由は、たぶん、ここにある。
自分の「意思」で動かせないものがある。だから「これ」と呼ぶしかない。ことばになるまえのもの、「未生のことば」としての「これ」。
「熱」はここから生まれてくる。そして、それに「名前」がついていていない(客観化できない)ために、うごめき、それがさらに「熱」になる。このうごめく「熱」が、外部を冷たい、寒いということばとして浮かび上がらせる。
「冷たい」「セックスする」が繰り返され「寒い」になるとき、内部では「名前のないもの」が動いている。
それは「教えられない」。それは自分でつかみとるしかない。
「教えられた」としても、「淫乱」「売女」のように、「知っていることば」とになるだろうか。「流通言語」として、他人に共有されるものになるだろうか。ならないだろう。それは「わたし(橋本)」だけのものだから。他人には共有できないものだから。
このあと、詩は、クライマックスというのが、もうひとつの「強いことば」を生み出す。
東京の空を、十月の薄い雲が覆い隠して、こ
ぼれた日差しが長屋を埃っぽく映し出す。男
の裸は肉がたくさんついて、ナイフで切り取
り炙ってやりたい。わたしの上で腰をふって、
苦しそうな顔が、板塀に吸い込まれる。これ
が真実なら、きっとあれも真実だ。
「これ」とは男が「わたしの上で腰をふって、苦しそうな顔」をしてるということだ。「あれ」とは「わたしの性器(ここ)」の内部で動いていることばにできないこと、まだ名づけられていないこと、である。
「ここ」も「あれ」も「わたし(橋本)」には何のことかわかる。それは自分の「肉体」そのものだからだ。だが、それは「正しい名前(他人と共有できることば)」にはならない。共有できる「正しい名前」にしてしまえば、きっと「肉体」が「それは違う」というだろう。「ここ」「あれ」と呼ぶしかない。
「あれ」と「遠く」をさすことばがつかわれているのは、それが「いま」はじめてあらわれてきたもの、まだ完全に自分のものとしてはつかみきれていない「恐れ」のようなものが、そう呼ばせるのだろう。うまれたばかりのことばなのだ。
ことばにならないからこそ、そこに「正直」が動いている。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」4月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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