詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

閣議決定?

2018-05-18 19:44:29 | 自民党憲法改正草案を読む
閣議決定?
             自民党憲法改正草案を読む/番外211(情報の読み方)

毎日新聞(デジタル版)(2018年5月18日 11時33分)に、次の記事が掲載されている。

 政府「セクハラ罪」存在せず 答弁書を閣議決定
 政府は18日、「現行法令において『セクハラ罪』という罪は存在しない」との答弁書を閣議決定した。財務省の福田淳一前事務次官のセクハラ問題を巡り、麻生太郎副総理兼財務相が「『セクハラ罪』という罪はない」と繰り返し発言したことに批判が相次いでおり、逢坂誠二氏(立憲民主党)が質問主意書で見解をただした。
 答弁書は、セクハラの定義について、職場や職場外での「他の者を不快にさせる性的な言動」と人事院規則が定めているとし、「これらの行為をセクハラとして処罰する旨を規定した刑罰法令は存在しない」とした。
 一方、逢坂氏が「セクハラが強制わいせつなどの犯罪行為に該当することがあるのでは」と問うたことに対し、答弁書は「その場合に成立するのは強制わいせつなどの罪であり、『セクハラ罪』ではない」とした。【野口武則】


はずかしい。

セクハラの被害を受けた人をどう救済するか。
それを考えるのが国家の仕事。
「セクハラ罪」がないのなら、「セクハラ罪」をつくる。
それが国会議員の仕事。

「いじめ罪」とか「女性差別罪」「派遣社員差別罪」もないだろう。
ないから、そうしてもいいということにはならない。

小学生の詭弁にも劣る。

毎日新聞(西部版)は夕刊の一面で書いていたが、他紙は見当たらなかった。
「ばかばかしい」話と切り捨てるのではなく、「ばかばかしさ」のなかに、とんでもない罪が隠されていることをマスコミは指摘しないといけない。

安倍内閣は、内閣をあげて、セクハラ被害者を二重に傷つけている。
国会の仕事を放棄している。
法律を制定するのは、国会であって、内閣ではない、と開き直るかもしれないが。
この問題を追及できないマスコミは、完全に死んでいる。



 一連の「セクハラ報道」で問題なのは、麻生発言への対応(批判)の弱さである。麻生は「セクハラ罪はない」という主張のほかに、「はめられたという意見もある」と言っている。
 女性がセクハラ被害(さらに悪質な、強姦などの性的被害)を受けた場合、しばしば「女性の方も悪い(性的欲望を誘うような服装をしていた、とか)」という批判が浴びせられる。
 女性にそうした批判を浴びせるのなら、「はめられた男性の方も悪い」という批判が起きてもいいはずである。たとえ性的な誘いを受けても、それを拒めばすむだけである。男性が性的な誘いにのる場合は「はめられた」、女性が性的な誘いにのる場合は「女性の方が悪い」というのは、「男は悪くない、悪いのはいつでも女である」という男尊女卑の見方である。

 安倍は問題が起きるたびに、「私は指示していない」というが、こういうときこそ「指示力(指導力)」を発揮しないといけない。
 女性がセクハラ被害で苦しんでいる。被害者を救済するために、すぐにセクハラ被害者を救済するための法律、セクハラ行為をした人間を罰する法律をつくりべきである、と主張し、法制定へむけて指導力を発揮しないといけない。
 こういうことを「忖度」に任せていてはいけない。

 それとも、安倍は政権維持のために麻生に頼りきっている。ここで麻生批判につながる動きをすれば安倍が困る。だからこの問題については「無言」を貫こうという「忖度」が働くことを期待しているのか。

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緊急お知らせ

2018-05-18 11:55:39 | 自民党憲法改正草案を読む
緊急お知らせ「不思議なクニの憲法2018」と意見交換会

松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」と、中央区9条の会「terra café kenpou」を主催している後藤富和弁護士を囲んで意見交換会を開きます。

日時 2018年5月20日(日曜日)13時(上映時間1時間51分)
場所 福岡市立中央市民センター視聴覚室
料金 1000円(当日券なし、定員70人)
主催 「不思議なクニの憲法2018」を見る会
(意見交換会は、上映後30分-1時間を予定しています)

2017年5月の安倍首相の「改憲発言」からやがて1年になります。
自民党の「改憲案」も発表になりました。
皆様と一緒に、憲法について考え、語り合う機会になればと願っています。

中央区9条の会「terra café kenpou」の詳細は下記のリンクをクリックしてください。
毎週火曜日19時-21時、福岡市中央区天神の高円寺門徒会館で開催されています。
http://ohashilo.jp/lawyer/goto/active/terra-cafe-kenpou/
https://www.facebook.com/tyuou9/

映画「不思議なクニの憲法」の公式サイトは
http://fushigina.jp/
です。

問い合わせ、申し込みは谷内(やち)
yachisyuso@gmail.com
090・4776・1279




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崔勝鎬『氷の自叙伝』

2018-05-18 11:53:58 | 詩集
崔勝鎬『氷の自叙伝』(韓成禮編訳)(韓国現代詩人シリーズ②)(思潮社、2013年07月01日出版)

 崔勝鎬『氷の自叙伝』には怒りと愉悦が同居している。
 「午後の土佐衛門」という詩。韓国にも「土佐衛門」という言い方があるのかどうか、私は知らない。「語源」を考えると、韓国では、こうは言わないだろうと思う。日本では、もう、こういう表現は見かけなくなった。溺死し、膨れ上がった死体。

曇った

の中で何日か
ネクタイをしたまま
深い眠りに落ちていった模様だ
ワイシャツに泥水が入った

 「曇った」と「入った」という動詞が印象に残る。「透明ではない」を「曇った」と言う。「濁った」に比べると、濁りながらも内部が見える、「半透明」に近い水の様子を「曇る」と呼んでいる。この動詞のなかには、「中が見える(窺い知れる)」という動きが隠れている。「隠す」のだけれど、完全に隠すわけではなく、なんとなく様子が窺い知れる。
 これが「入る」という動詞と微妙に交錯する。「入る」は「中に入る」である。
 死体は泥水(どんよりと曇った水)の中にいた。その「泥水」の「泥」がワイシャツの「中」に入る。「泥」がワイシャツに吸収された分だけ「泥水」は透明に近づく。ワイシャツが「泥」を吸い込んだために、死体が見えるようになった、という具合にも読める。 「何日か」ということばが、そういう「時間」の変化をリアルにする。このときの「泥水」の非情(人間の情けなど気にしない)な動きが、物理的で、透明だ。それが人間の情をいっそう揺さぶる。
 ここには「怒り」が隠れている。自然(物理)への、「抵抗」のようなものだ。非情に対して動く「情」がある。

老いたタニシの殻のような目、
締まりなく開いた口が
あの世の微笑みを流して
革ベルトは太った腹部を力いっぱい締めている
勃起は終わった
勃起による彷徨、焦燥、息切れ、そして
空しさも終わりになった

 ここでは「流す」という動詞がおもしろい。「流す」といっても死体が自ら「流す」わけではない。それは「流れてくる」のだ。「あの世」から流れてくる。「あの世」で微笑んでいる。その微笑みが「流れてくる」。それが表面に浮かんでいる。
 この「流す/流れる」は「入る」という動きとは逆方向である。泥水の泥はワイシャツ(男の所有物)に侵入した。微笑みは、男の内部(あるいは、内部を超えた「あの世」)から「流れ出た」。周囲の水が「流す/流れる」を誘っているのだが、そこにある水はむしろ「流れず」、停滞している。そのことも微笑みが「流れ/出る」を強くする。「流れ」は水の中に存在するのではなく、死んだ男の中に存在する。男によって「動詞」となっている。
 この男からあふれ出すもの、その力が、「勃起」を呼び起こす。「力いっぱい」は勃起を修飾するわけではないが、「革ベルト」を通り越して勃起をあからさまにする。あからさまにしながら、勃起自体は存在しない。終わった。そして、その終わりが、逆に性の愉悦を思い起こさせる。「彷徨、焦燥、息切れ」「空しさ」が激しく動き回る。動詞ではなく、名詞を連ねることで、運動を加速させる。飛躍させる。凝縮させる。名詞と動詞の「つかいわけ」がとてもいい。
 男の愉悦(人間の愉悦)は、たぶん、だれにでも経験がある。だから、詩は、それを名詞で素早く書いたあと、こう転換する。

鼻面についたタニシの子が見える
両腕は垂れている
思いがけなくタダでたくさんの食べ物に出会ったように
ヒトデ、タガメ、ゲンゴロウ、ミズスマシたちが
午後の土佐衛門に寄り集まった
彼らは足を動かす
彼らは小さな口でかみちぎろうと努力する
何時になったのだろうか
タニシの子が
鼻の穴の中に入っていく

 自然を生きる生き物たちの祝祭が繰り広げられる。「勃起(セックス)」は描かれていないが、いのちの生々しい動きが、非情であり、それが美しい。人間の死を無視して、どこまでも豊かに広がっていく。「寄り集まる」ことによって、祝祭が拡大する(広がる。)。そういう矛盾を含んだ動きが一気につかみとられている。
 その最後。
 ここに「入る」という動詞が再びあらわれる。動詞が循環する。循環といっても、ただおなじところを回るのではない。生々しく、強くなっている。
 (ヒトデ、というのは何だろうか。私は海の生き物と思っているので、違和感がある。訳語の間違いか。)



 「ヒトデ」もそうだが(「土佐衛門」という表現にも疑問が残る)、ときどき「訳」がどうにもわからないときがある。
 「とぼけ」の後半。

昨日は目の前で大便をする猫が
私を正面から眺めながら最後まで大便をするのを見て
昨日は猫まで私を馬鹿者扱いするのかと思った
偉大なる恥ずかしさは消えた、図々しさが
ビニールと痰と唾といっしょに随所で光っている

しかし荘厳な宇宙を成してからも
創造主は創造の恥ずかしさのため隠れているが
その方まで図々しくなれば
全宇宙が痰と唾の固まりになる

 「昨日は猫まで私を馬鹿者扱いするのかと思った」の「するのかと思った」だけがゴシックになっている。理由がわからない。「昨日は」「昨日は」と繰り返されているのは、ここでは効果的ではないように思う。「昨日は」「思った」が、いまは思っていないということなのか。
 最終連の「その方」というのもつかみにくい。「偉大なる恥ずかしさ」を「創造の恥ずかしさ」と言いなおしているとすれば、「その方(かた)」は「創造主」を指していることになる。「方(かた)」に敬意を込めているのか。敬意をこめながら、「全宇宙が痰と唾の固まりになる」という世界を思い描くのか。
 もっと別の「訳語」がありそうな気がする。


*

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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

氷の自叙伝―崔勝鎬詩集 (韓国現代詩人シリーズ)
崔 勝鎬
思潮社
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