シモーヌ・ド・ボーヴォワール『モスクワの誤解』(井上たか子訳)(人文書院、2018年03月25日発行)
ボーヴォワールは、私の考えでは、二十世紀最大の思想家である。理由は簡単である。彼女のことばだけが「現実」になった。マルクスも毛沢東も世界に影響を与えたが、「現実」にはならなかった。ボーヴォワールの「男女は平等である」という主張は、世界で「現実」として動いている。もっとも、日本は例外かもしれない。安倍政権に近い人物は、強姦をしようが、セクハラをしようが、政権が擁護し、それが堂々とまかりとおっている。日本だけは「男尊女卑」を頑なに守り、さらにそれを強化しようとしている。
この小説の主人公は、老いを迎えた夫婦(といっても、いまから見ると老いの入り口に近づいたという感じだが)。彼らはモスクワへ旅行する。そこで小さな行き違いが起きる。けれどもなんとか「若い」する。これがストーリーである。
でも、ストーリーは、私の場合、結局忘れてしまう。
いちばん印象に残っているのは、次のことば。
これは月を見て、さらに月によりそう星を見て主人公(女)が思うことでである。月夜に歩くと、月はいつでもついてくるが、それと同じようにことばもついてくる。ことばは、いつでも「人間」から離れない。
もっとも、これは「自分のことば」ではなく、かつて読んだことばのことを書いているのだが、私は、主人公自身のことばと思って読む。
全体は、こうなっている。(44ページ)
ことばは「喉元に甦ってくる」。考え(頭)を刺戟するだけではなく、「肉体」そのものを刺戟する。「言葉が(略)何世紀も昔へと彼女を結びつけた」は「言葉が(略)何世紀も昔へと彼女の肉体を結びつけた」である。それは「彼女の肉体が何世紀も昔へと彼女を結びついた」である。いま、ここにある「肉体」が、遠く離れたものと結びつき、それを自覚した瞬間に「再生」がはじまる。「再生」とは「永遠」のことである。
これは『オーカッサンとニコレット』に書かれていることばではなく、そこに書かれていたことばの刺戟によって動いた「ニコルのことば」である。「ニコルのことば」がニコルを動かしていく。ことばが動くとき、ニコルの肉体(思想)そのものが動く。
「言葉は、いつも自分と一緒についてくる。」は、そんな具合にして、「肉体化」されている。言い換えると、ボーヴォワールは、いつでも思想(肉体)をことばにしているということである。「肉体(思想)」は、ことばとなって、彼女を突き動かす。ことばは、いつでも彼女の「肉体」を突き破って、「思想」そのものになる。
「老い」とは何か。こう書かれている。
「イメージ」とはあいまいなことばである。「ニコルは自分自身のイメージを四十歳で止めていた」とは「肉体」を「四十歳」と判断していたということである。その「肉体」をマーシャに重ねようとすると重ならない。反撃される。違うものが見えてくる。「自分自身」だけに重ねているときは気づかないのだ。
この契機が、「ニコルの腕を取った」ということ。「腕を取られた(肉体を支えられた)」という実際の「肉体の動き」(動詞)そのものが、二つの「肉体」(マーシャとニコルの肉体)を分けてしまう。「腕を取る」とき、その「肉体」はつながるのだが、つながりながら(つながるということによって)、いっそう深い断絶(切断)が生まれる。
ことばが生まれる瞬間、それが動いていく瞬間をボーヴォワールは、確実にことばにする。「言葉は、いつも自分と一緒についてくる」のである。この「瞬間」を確実にとらえ、それを拡大していく。ボーヴォワールのことばには、そういう力がある。
「思想」には見えないかもしれないが、次の部分にも、私は思わず傍線を引いてしまった。
「ゆっくり沈んでいく」の「ゆっくり」が「思想」である。「夕陽が沈んでいく」そのスピードを「ゆっくり」とことばにする。するとニコルの「肉体」も「ゆっくり」動く。「愛しい星よ、われは見る/月もそなたを引き寄する」とことば言ってみるとき、ニコルの「肉体」は「月」と「星」の関係(そこで起きている運動)に引き寄せられるだけではなく、「月」になって「星」を引き寄せ、「星」になって「月」に引き寄せられる。ことばのなかで、月と星とニコルが見分けがつかなくなるように、いま「ニコルの肉体」は「夕陽」と見分けがつかない。
こういう「融合」が美しい。
この小説の「ニコル」がボーヴォワールなら、もうひとりの主人公「アンドレ」はサルトルだろう。彼の思想(ボーヴォワールから見た思想/肉体)も書かれている。端的なのが34ページのことば。
「過去」と「未来」が強く結びついて、「現在」を否定する。
ボーヴォワールが「いま」を肯定し、そこから「肉体(思想/ことば)」を動かすのに対し、サルトルは「現在」を否定するために「過去」と「未来」を発見する。それはともに「現在」に潜んでいるのだが、それを「発見」し、「現在」を否定するために動かすという「矛盾(不機嫌)」を生きるのがサルトルである。ボーヴォワールの「再生」とはまったく違う。
*
いま、自分の本棚を見渡して残念なのは、ボーヴォワール全集がないことだ。買いそびれた。本は、あとからは手に入らない。古本で全集(一揃い)をもっている書店をご存じの方は、教えてください。
ボーヴォワールは、私の考えでは、二十世紀最大の思想家である。理由は簡単である。彼女のことばだけが「現実」になった。マルクスも毛沢東も世界に影響を与えたが、「現実」にはならなかった。ボーヴォワールの「男女は平等である」という主張は、世界で「現実」として動いている。もっとも、日本は例外かもしれない。安倍政権に近い人物は、強姦をしようが、セクハラをしようが、政権が擁護し、それが堂々とまかりとおっている。日本だけは「男尊女卑」を頑なに守り、さらにそれを強化しようとしている。
この小説の主人公は、老いを迎えた夫婦(といっても、いまから見ると老いの入り口に近づいたという感じだが)。彼らはモスクワへ旅行する。そこで小さな行き違いが起きる。けれどもなんとか「若い」する。これがストーリーである。
でも、ストーリーは、私の場合、結局忘れてしまう。
いちばん印象に残っているのは、次のことば。
言葉は、いつも自分と一緒についてくる。
これは月を見て、さらに月によりそう星を見て主人公(女)が思うことでである。月夜に歩くと、月はいつでもついてくるが、それと同じようにことばもついてくる。ことばは、いつでも「人間」から離れない。
もっとも、これは「自分のことば」ではなく、かつて読んだことばのことを書いているのだが、私は、主人公自身のことばと思って読む。
全体は、こうなっている。(44ページ)
空には月が、そしていつも忠実に寄り添っている小さな星とともに輝いていた。ニコルは『オーカッサンとニコレット』のなかの美しい詩句を口ずさんだ。「愛しい星よ、われは見る/月もそなたを引き寄する」これこそ、文学の美点だわと彼女は思った。言葉は、いつも自分と一緒についてくる。イメージは色あせ、形を変え、消えていく。でも言葉は、昔それが書かれた時のままに、彼女の喉元に甦ってくる。それらの言葉は、星がまさしく今夜と同じように輝いていた何世紀も昔へと彼女を結びつけた。そして、この再生、この恒久性は、彼女に永遠の印象を与えた。
ことばは「喉元に甦ってくる」。考え(頭)を刺戟するだけではなく、「肉体」そのものを刺戟する。「言葉が(略)何世紀も昔へと彼女を結びつけた」は「言葉が(略)何世紀も昔へと彼女の肉体を結びつけた」である。それは「彼女の肉体が何世紀も昔へと彼女を結びついた」である。いま、ここにある「肉体」が、遠く離れたものと結びつき、それを自覚した瞬間に「再生」がはじまる。「再生」とは「永遠」のことである。
これは『オーカッサンとニコレット』に書かれていることばではなく、そこに書かれていたことばの刺戟によって動いた「ニコルのことば」である。「ニコルのことば」がニコルを動かしていく。ことばが動くとき、ニコルの肉体(思想)そのものが動く。
「言葉は、いつも自分と一緒についてくる。」は、そんな具合にして、「肉体化」されている。言い換えると、ボーヴォワールは、いつでも思想(肉体)をことばにしているということである。「肉体(思想)」は、ことばとなって、彼女を突き動かす。ことばは、いつでも彼女の「肉体」を突き破って、「思想」そのものになる。
「老い」とは何か。こう書かれている。
活発で、陽気で、機転がきくこと、それが若いということだ。つまり老年の宿命は、惰性、不機嫌、耄碌ということになる。(略)マーシャは「あなたは若い」といったけれど、ニコルの腕を取ったではないか。実際のところ、モスクワに来て以来、ニコルがこんなに強く自分の歳を感じるのは、マーシャのせいだった。ニコルは自分自身のイメージを四十歳で止めていたことに気づかされた。(63ページ)
「イメージ」とはあいまいなことばである。「ニコルは自分自身のイメージを四十歳で止めていた」とは「肉体」を「四十歳」と判断していたということである。その「肉体」をマーシャに重ねようとすると重ならない。反撃される。違うものが見えてくる。「自分自身」だけに重ねているときは気づかないのだ。
この契機が、「ニコルの腕を取った」ということ。「腕を取られた(肉体を支えられた)」という実際の「肉体の動き」(動詞)そのものが、二つの「肉体」(マーシャとニコルの肉体)を分けてしまう。「腕を取る」とき、その「肉体」はつながるのだが、つながりながら(つながるということによって)、いっそう深い断絶(切断)が生まれる。
ことばが生まれる瞬間、それが動いていく瞬間をボーヴォワールは、確実にことばにする。「言葉は、いつも自分と一緒についてくる」のである。この「瞬間」を確実にとらえ、それを拡大していく。ボーヴォワールのことばには、そういう力がある。
「思想」には見えないかもしれないが、次の部分にも、私は思わず傍線を引いてしまった。
ニコルはほんとうは少しへとへとだった。けれども、通りすぎていく景色が疲れを忘れさせてくれた。工大で、穏やかな田園が、ゆっくり沈んでいく夕陽の光でやわらかな色合いに染まっていた。(40ページ)
「ゆっくり沈んでいく」の「ゆっくり」が「思想」である。「夕陽が沈んでいく」そのスピードを「ゆっくり」とことばにする。するとニコルの「肉体」も「ゆっくり」動く。「愛しい星よ、われは見る/月もそなたを引き寄する」とことば言ってみるとき、ニコルの「肉体」は「月」と「星」の関係(そこで起きている運動)に引き寄せられるだけではなく、「月」になって「星」を引き寄せ、「星」になって「月」に引き寄せられる。ことばのなかで、月と星とニコルが見分けがつかなくなるように、いま「ニコルの肉体」は「夕陽」と見分けがつかない。
こういう「融合」が美しい。
この小説の「ニコル」がボーヴォワールなら、もうひとりの主人公「アンドレ」はサルトルだろう。彼の思想(ボーヴォワールから見た思想/肉体)も書かれている。端的なのが34ページのことば。
その日は来なかったし、来ないだろう。
「過去」と「未来」が強く結びついて、「現在」を否定する。
ボーヴォワールが「いま」を肯定し、そこから「肉体(思想/ことば)」を動かすのに対し、サルトルは「現在」を否定するために「過去」と「未来」を発見する。それはともに「現在」に潜んでいるのだが、それを「発見」し、「現在」を否定するために動かすという「矛盾(不機嫌)」を生きるのがサルトルである。ボーヴォワールの「再生」とはまったく違う。
*
いま、自分の本棚を見渡して残念なのは、ボーヴォワール全集がないことだ。買いそびれた。本は、あとからは手に入らない。古本で全集(一揃い)をもっている書店をご存じの方は、教えてください。
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