詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤森重紀「雪の夜がたり」

2018-05-24 09:58:45 | 詩(雑誌・同人誌)
藤森重紀「雪の夜がたり」(「構図」6、2018年04月30日発行)

 藤森重紀「雪の夜がたり」に「方言」が出てくる。

独り言をいうと箪笥の取っ手が
かたかた鳴りますけれども
あれはまんつ媼(かあ)さまの合図でありまして
余震なんかじゃござりやせん
話しかけると
ちゃんと応えるから
独りこでいるとは思えんのです
とぜんこでないと 皆さまにいうたび
けなりごぜを焼かれておりやんす

 「とぜん」は先日読んだ白鳥信也「とぜん」(「モーアシビ」34、2018年01月15日発行)(https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/9dafd7dd64d6758cb8f5c2b3732e7e3a)にも出てきた。いまもつかわれているのだ。
 「とぜん=徒然」かどうかは断定できないけれど、「つれづれ」に似た感覚だろう。藤森は「退屈」と註釈をつけているが。
 「けなりごせ」には「嫉妬」と註釈をつけている。「けなるい」ということばは西脇もつかっている。私の田舎(富山)でもつかった。「嫉妬」というほど強くはない。「うらやましい」「あれがほしいなあ」というくらいの感じだが。
 こういうことばを読むと、ことばは「意味」ではなく「人間関係」なんだなあ、という気持ちがしてくる。人間がいて、その間でことばが行き交う。「意味」は定義する必要はない。「定義」のように厳密ではなく、ただ「関係」をその場でつないでみせるもの。
 で。
 そこから前半部分を読み直す。

独り言をいうと箪笥の取っ手が
かたかた鳴りますけれども
あれはまんつ媼さまの合図でありまして

 そうか、「ことば」とは「合図」なのか、と思うのだ。ほかの人にはわからなくてもい。ふたりで(?)決めた方法で、何かを相手に知らせる。そこにはかならず「相手」がいる。「相手がいる」ということが、「ことば」の大前提なのだ。そして、相手に知らせることのいちばん重要なものは、「私はここにいる」だろう。相手に対して、ここにいるのは私だ、と告げる。「居場所」を告げる。
 だから二連目。

今晩のように
ぼたぼたと雪が積もった夜は
あの夫(ひと)が玄関で
長靴についた雪をどたどたと足踏みして
落としたもんです
どたどたと

 これは雪国で暮らした人ならだれでも体験したことがあるだろう。長靴についた雪を玄関で落としている音が聞こえる、ということは。このときの「どたどた」は「ことば」になっていないが「ただいま」なのだ。「肉体」を動かして、「音」を出す。それがそのまま「ただいま」になっている。「肉体」がそこに「いる(あの)」を知らせる。ここから、関係がはじまる。
 さらに三連目。

早池峰おろしが止んだ夕(ばんげ)は
氷柱が木琴のような音こして落ちるんでしが
地震ではなりまっせん
あれは死んだ孫のほうが
とぜんこでとぜんこで
いっせいに揺らして遊ぶのであります
ほんとにめごこい おぼこでござりゃんした

 氷柱が落ちる音は、氷柱を落とす音。音があるとき、そこに「ひと」がいる。それを「聞く」。「聞こえる」時、そこに人がいる。
 「聞く」というのは、不思議な距離だ。
 ここには、人と人との「距離」のあり方が書かれていると言ってもいい。
 そして、その「距離」には「暮らし」というか、その「土地」のすべてがつながっている。方言は「土地」を呼び寄せ、その「土地」に人間を立たせてくれる。「土地」に立って、「私はここにいる」と呼びかけあう。
 「独り」であっても「土地」に立てば、「土地」が相手をつれてきてくれる。この、ゆるやかな「強さ」を感じながら「とぜん」とするのは心が安らぐなあ。


*

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谷内 修三
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「森友文書」

2018-05-24 08:57:58 | 自民党憲法改正草案を読む
「森友文書」
             自民党憲法改正草案を読む/番外214(情報の読み方)

 「森友文書」が公開された。新聞に報道されているのは、その一部である。どこにポイントがあると判断したか、その判断によって、どの「一部」に焦点を当てるかがきまる。2018年05月24日の読売新聞(西部版・14版)は三面に、こういう見出し。

値引き要求 執拗に/森友土地交渉 生々しく/籠池被告妻 コースター投げつけ「嘘つき」

 記事部分で、安倍昭恵の秘書が2015年11月10日、12日に「国有地取引の優遇措置について財務省に問い合わせをしている」と書いている。そういうことがあったけれど、取引は正当におこなわれた、というのがこれまでの政府の説明。読売新聞は、政府の説明が正当であったということを前提にして、籠池夫婦の「執拗さ」と「乱暴さ」に焦点をあてている。

 ここで、疑問。

 もし、「森友文書」が安倍の主張の正当性を裏付けるもの、安倍夫婦の「意向」をまったく反映しないという証拠になり、かつ籠池夫婦の不当性(?)を裏付けるものであるなら、佐川は(あるいは財務省は)、なぜ「廃棄した」と言って、その存在を隠し続けたのか。
 「無罪証明」という視点から見つめてみよう。
 「森友文書」が安倍夫婦の「無罪」を証明するものだとしたら、それを破棄するというのは安倍夫婦にとって「不利」である。破棄するのではなく、どこかに残っていないか、必死になって探すのがふつうではないだろうか。
 つまり、「土地取引の交渉文書」を克明に読めば、安倍夫婦の働きかけがあったとしても(働きかけは昭恵の秘書がかってにやったことだとしても)、その交渉は実を結んでいない、つまり交渉に影響を与えていないということを証明するのなら、安倍が先頭に立って「交渉文書が残っていないか、探し出せ」と命令するのではないだろうか。
 自分自身にひきつけて考えてみるといい。
 何かの犯罪に関与していると疑われたとする。しかし、自分にはアリバイがある。その事件には関与していない。なぜなら私はその日、映画館で映画を見ていた。そうであるなら、そのときの映画の半券がどこかに残っていないか必死になって探す。あの日履いていたズボンのポケットにないか。手帳の挟んでないか。今朝出したごみのなかにまじっていないか。回収がまだだといいなあ、調べてみないと。ときには、「ごみ箱の中に半券があったのかもしれないのに、勝手に捨てるな」と夫婦喧嘩だってやらかしかねない。エトセトラ。

 安倍も財務省も、佐川も、「安倍夫婦のアリバイ」として「森友文書」を活用しようとはしていなかった。それは、どこかに「問題」があると認識していたからだろう。安倍がよく口にする「一点の曇りもない」ものなら、「一点の曇りもない」ことの証拠になるはずの文書を破棄する、破棄したということを受け入れるはずがない。
 いまになって「文書」が出てきた。そこには安倍の主張を裏付けることが書かれている、というのはおかしい。だいたい、ほんとうに安倍の主張を裏付けるものなら、その部分が見つかったときに、真っ先にそれを「公開」しているだろう。わざわざ 900ページの文書の中に埋もれさせる必要はない。ほかの部分は隠しても、読売新聞が三面で報道している部分は、率先して公開するのではないか。

 どんなときでも、ひとは、自分にとって「有利」になるものを捨てたりはしない。
 森友学園の土地取引が「不当」なものである、と判断されたとき、困るのはだれだろうか。交渉にあたった職員ではないか。職員は、なんとかして自分の「正当性」を証明するために、この交渉は私の独断ではないという「証拠」を残そうとするに違いない。価格が問題になったとき、その交渉の記録は自分の「無罪証明」になる(有利になる)と思い、記録を残すだろう。私は与えられた仕事を適正に処理した、という「証拠」を残すだろう。
 愛媛県職員が柳瀬と会ったときの「名刺」を、日付を記入して保存していたのは、それが彼の「アリバイ」だったからである。仕事をきちんとした、という証拠、報告書は勝手に書いたのではなく、柳瀬と会って、それを踏まえて書いたという「証拠」になるから残す。柳瀬が愛媛県職員の名刺を残していないのは、それが柳瀬にとっての「アリバイ」にはならないからだ。

 ことばは、ことばだけを取り上げるのではなく、「行動」と結びつけてとらえなおす必要がある。ことばに矛盾がないかだけではなく、行動に矛盾がないか、それを見つめないといけない。
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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