ぱくきょんみ「ひかり」、季村敏夫「外出」(「河口から」4、2018年05月15日発行)
ぱくきょんみ「ひかり」には、「わたし」と「あなた」が登場する。その関係はよくわからない。けれども、次の部分は非常に「肉体」に迫ってくる。
この「打楽器」は素手で打つ打楽器なのだろう。でも、ぱくは「打つ/叩く」とは書かずに「ふれる」という動詞をつかっている。叩いているのだが、それは「触れる」なのだ。そして、その「触れる」は「ひとの皮膚」に触れたときのことを思い出させる。
この「思い出す」を「共鳴する」という動詞で言いなおす。
「共鳴」の「共」のなかに「あなた」と「わたし」がいる。二人がいてはじめて「共」が成り立つ。響きあう。この「共鳴」をさらに「鼓動する」と言いなおしている。それは「太鼓(打楽器)」の「皮」の震え、動きというよりも、私には心臓の「鼓動」のように感じられる。「内部」ということばが「心臓の鼓動」を感じさせる。「たなごころ」の「こころ」も心臓へとつながる。
「打楽器」の「内部」にある「心臓」が、「打楽器」の「外部(皮)」に触れる「たなごころ」に合わせるように「鼓動を打つ」。手が太鼓の皮を叩くから音が出るのではなく、太鼓の内部の「心臓」が「鼓動して」、それが手のリズムを誘い出すとも読める。
「共鳴する」ときに、「うなずく」というのもいいなあ。ことばはいらない。「触れる」だけですべてがわかり、わかったという合図として「うなずく」。無言である。無言は「心臓の鼓動」をはっきりつたえる。ことばにすると、ことばのなかに「鼓動」はかき消されてしまうかもしれない。無言でうなずくからこそ、鼓動が聞こえる。
「相聞」である。
私は「風の丘を越えて」のラストシーンを思い出してしまう。パンソリの歌い手である盲目の姉、太鼓の叩き手である弟。太鼓の音に合わせて、姉が歌う。弟は身分を明かしていないのだが、姉には弟だとわかる。太鼓の「音」が、姉の「心臓」の「鼓動」と重なり、それが弟の「鼓動」と「共鳴する」。
「わたし」と「あなた」は何らかの事情があって、別れてしまった。しかし、いま、再び出会うことで、あの別れを思い出し、別れる前の「いっしょ」にいたことを思い出し、「鼓動」が重なり合う。
わからないけれど、いま、「共鳴している」。「きょうめいする」ことが「ひとである」ということなのだ。その確かさが美しい。「共鳴」は、また次のように言いなおされる。
「ことば」は必要がない。「鼓動」がすべてを語る。「鼓動」とは「生きている」ことである。生きて、再び出会うならば、それがすべてなのだ。「ひかりのありかで かならず 会うでしょう」とぱくは書いているが、そのとき「わたし」と「あなた」は、むしろ「ひかり」を生み出すのだと思う。「ひかり」になるのだと思う。
*
季村敏夫「外出」も、やはりわからない。けれど、
「絞り出された」という動詞の形に、ぐいと胸をつかまれる。直前の「出ていって」は「出て行く」。人間が、出て行く。だが、声は「出て行かない」。「出て行きたくない」。それが強制的に「出される」のである。これは、声を出すまいとこらえてもこらえても、声が出てしまうということを、声を「主語」にして言いなおしているのかもしれない。「肉体」の内部に激しい拮抗があり、その拮抗がことばを短くし、脈絡がわかりにくくなっている。しかし、詩は「脈絡」ではなく、むしろリズムと音の響きだから、わからないけれども感動してしまう。
この慟哭のあとで、ひとは生まれ変わる。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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「詩はどこにあるか」4月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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ぱくきょんみ「ひかり」には、「わたし」と「あなた」が登場する。その関係はよくわからない。けれども、次の部分は非常に「肉体」に迫ってくる。
打楽器の皮はひとの皮膚よりも厚く
ひとの たなごころにふれてから 共鳴する
どぅん どぅん どぅんと 鼓動して
うなずいて 皮の内部は 震え伝える
この「打楽器」は素手で打つ打楽器なのだろう。でも、ぱくは「打つ/叩く」とは書かずに「ふれる」という動詞をつかっている。叩いているのだが、それは「触れる」なのだ。そして、その「触れる」は「ひとの皮膚」に触れたときのことを思い出させる。
この「思い出す」を「共鳴する」という動詞で言いなおす。
「共鳴」の「共」のなかに「あなた」と「わたし」がいる。二人がいてはじめて「共」が成り立つ。響きあう。この「共鳴」をさらに「鼓動する」と言いなおしている。それは「太鼓(打楽器)」の「皮」の震え、動きというよりも、私には心臓の「鼓動」のように感じられる。「内部」ということばが「心臓の鼓動」を感じさせる。「たなごころ」の「こころ」も心臓へとつながる。
「打楽器」の「内部」にある「心臓」が、「打楽器」の「外部(皮)」に触れる「たなごころ」に合わせるように「鼓動を打つ」。手が太鼓の皮を叩くから音が出るのではなく、太鼓の内部の「心臓」が「鼓動して」、それが手のリズムを誘い出すとも読める。
「共鳴する」ときに、「うなずく」というのもいいなあ。ことばはいらない。「触れる」だけですべてがわかり、わかったという合図として「うなずく」。無言である。無言は「心臓の鼓動」をはっきりつたえる。ことばにすると、ことばのなかに「鼓動」はかき消されてしまうかもしれない。無言でうなずくからこそ、鼓動が聞こえる。
「相聞」である。
私は「風の丘を越えて」のラストシーンを思い出してしまう。パンソリの歌い手である盲目の姉、太鼓の叩き手である弟。太鼓の音に合わせて、姉が歌う。弟は身分を明かしていないのだが、姉には弟だとわかる。太鼓の「音」が、姉の「心臓」の「鼓動」と重なり、それが弟の「鼓動」と「共鳴する」。
「わたし」と「あなた」は何らかの事情があって、別れてしまった。しかし、いま、再び出会うことで、あの別れを思い出し、別れる前の「いっしょ」にいたことを思い出し、「鼓動」が重なり合う。
響きは ひとであったものたちを 巡るのか
そして ひとであるものたちを 鼓舞して
消えるのか
わからないけれど、いま、「共鳴している」。「きょうめいする」ことが「ひとである」ということなのだ。その確かさが美しい。「共鳴」は、また次のように言いなおされる。
わたしと あなたは
ひかりのありかで かならず 会うでしょう
ことばがなくても 語り得ることでしょう
「ことば」は必要がない。「鼓動」がすべてを語る。「鼓動」とは「生きている」ことである。生きて、再び出会うならば、それがすべてなのだ。「ひかりのありかで かならず 会うでしょう」とぱくは書いているが、そのとき「わたし」と「あなた」は、むしろ「ひかり」を生み出すのだと思う。「ひかり」になるのだと思う。
*
季村敏夫「外出」も、やはりわからない。けれど、
息をひきとる数分前
出ていって
声が絞り出された
「絞り出された」という動詞の形に、ぐいと胸をつかまれる。直前の「出ていって」は「出て行く」。人間が、出て行く。だが、声は「出て行かない」。「出て行きたくない」。それが強制的に「出される」のである。これは、声を出すまいとこらえてもこらえても、声が出てしまうということを、声を「主語」にして言いなおしているのかもしれない。「肉体」の内部に激しい拮抗があり、その拮抗がことばを短くし、脈絡がわかりにくくなっている。しかし、詩は「脈絡」ではなく、むしろリズムと音の響きだから、わからないけれども感動してしまう。
この慟哭のあとで、ひとは生まれ変わる。
たちきられ
拒絶され初めて
これまでと違ったさえずり
違うそよぎ
だれなのか
別人になったひとが誘う
あかるい外に連れ出された
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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