詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ファティ・アキン監督「女は二度決断する」(★★★)

2018-05-05 09:35:32 | 映画
監督 ファティ・アキン 出演 ダイアン・クルーガー

 見ていて楽しい映画ではない。特に裁判のシーンが厳しい。裁判というのは、「事件」を「ことば」で点検しなおす作業である。
 爆弾テロによって、夫と子どもが犠牲になった。それだけでも残された妻(主人公)にとってはつらい。「ことば」はそれだけで十分である。しかし、裁判では、そうはいかない。子どもがどんな状態で死んだか。細部が描写される。肉眼は一瞬で全体をつかみとる。ことばは細部を積み重ねながら全体を完成させる。そこには「持続」というものがある。「時間」が、ある。「時間」が「一瞬」ではなく、何度も往復する。最初に聞いたことばが、次に聞くことばのなかでよみがえり、それが増殖する。
 何と言えばいいのだろう。イギリスはシェークスピアの国、ことばの国である。しかしまたドイツもことばの国である。ただし、そのことばは「劇(シェークスピア)」のように何人もの違いを描き出すためにあるのではなく、一人の「人格」を確固とするためにある。「ドイツ哲学」ということばがあるが、これだな。「人格」を構築するのである。「人格」が「哲学」そのものとして動く。
 ダイアン・クルーガーは、夫と子どもを奪われた犠牲者であると単純化されない。ドラッグ依存症であるかどうかはわからないが、ドラッグをつかっている。そのことも裁判で問われる。ダイアン・クルーガーの「ことば(目撃証言)」は信頼できるのか。これは「人格」が信頼できるか、「ことばの運動」が「哲学」として信頼に耐えうるかということである。
 「ことばの運動」は、どこまでも「整合性」が問われる。爆弾をつくったと思われる現場には、「犯人」と指摘された人間以外の指紋があった。その、だれかわからない人間が「犯人」である可能性もある。「ことば」はそれを否定できない。「論理」はそれを否定できない。だから、「犯人」と思われる人間は「無罪」になる。
 さて。
 この、「不条理」としか言いようのない「現実」を、主人公はどう乗り越えることができるのか。
 ダイアン・クルーガーは、裁判で証言した男の「ことば」が事実かどうか、それを確かめにギリシャまで行く。そして「ことば」が嘘であったとつきとめる。だが、それをもう一度「ことば」として証明しなければならない。控訴して、もう一度、「裁判」の場で、「ことば」を動かさなければならない。
 だが、「ことば」はいつでも「真実」に寄り添うわけではない。
 それに、ダイアン・クルーガーは「裁判のことば」を求めているのではない。「他人のことば」を求めているのではない。そういうものは、もう、聞きたくない。自分自身のことば、「自分の哲学」を完成させたいだけである。
 で、というか、しかし、というか。
 このとき最後の「決断」を促すのは、やっぱり「ことば」なのだ。
 ある日の海辺。親子で楽しく過ごしている。ダイアン・クルーガーは日焼けオイル(日焼け止めオイル?)を塗ったばかりである。(これは、ダイアン・クルーガーの「タトゥー」と遠い伏線になっている。「外面/内面」という問題を提起している。)でも、子どもが「こっちへきて」と海の中から呼んでいる。夫も、そこにいる。「こっちへきて」。それは「遠い声」であり、同時に「非常に近い声」でもある。ダイアン・クルーガーの「肉体」のなかから聞こえる「声/ことば」である。
 ダイアン・クルーガーは、その「ことば」に身を任せる。

 こういうことが、ドイツではじまり、ギリシャで終わる。雨のドイツ。太陽の光の降りそそぐギリシャ。
 ギリシャはまた「哲学」の国である。ことばの国である。
 ソクラテスは自分のことばにこだわったが、最後は他人の「ことば(判決)」に従った。「ことば」が「ことば」であることを守り通した。
 ダイアン・クルーガーは「他人のことば」ではなく、「自分のことば(肉親のことば)」を「生きる」。
 ソクラテスの生き方も、ダイアン・クルーガーの生き方も、ふつうのひとにはできない。「ことば」と自分のいのちを完全に向き合わせることはできない。
 いろいろ考えさせられる。
 ダイアン・クルーガーは「ことば」(小説)でしかできないようなことを、「肉体」で具現化している。まさに「体当たり」の演技である。それは壮絶だが、壮絶だからこそ、何とも気が重くなる。分厚い「ドイツ哲学(書)」をつきつけられている感じだ。ドイツではじまり、ギリシャへ帰り、そこで「結論」を出すという、ドイツ人の「哲学史」そのものを見ている感じだなあ。



 補足。
 「ことば」の問題、「だれのことばか」は冒頭から問われている。車にはねられそうになったダイアン・クルーガーは、車に罵声を浴びせる。同じように子どもも悪態をつく。ダイアン・クルーガーは、「それはだれのことば?(だれから習った?」と問いかけている。
 家宅捜索でドラッグが見つかったとき、ダイアン・クルーガーは「自分でつかった」と答える。母親は「なぜ、夫のものだと言わなかったのか」とあとで問い詰めている。
 「ことば」なしに人間は考えられない。「ことば」で何を考えるか。「ことば」を発するとき、そこに何が「生まれている」のか。
 「ことば」が「生んでいる」ものが「自分」であるかどうか、「自分」が「自分」であるためには、何が必要なのか。
 そこから見直すことが求められる映画かもしれない。
(2018年05月03日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン5)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

そして、私たちは愛に帰る [DVD]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする