詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山下修子「花は何処」

2018-05-11 12:05:32 | 詩(雑誌・同人誌)
山下修子「花は何処」(「飛脚」20、2018年04月25日発行)

 山下修子「花は何処」は、国有留保地をめぐる詩。「戦時をになう医療施設と兵站基地」をつくろうとしている。山下は、それに反対している。
 その中ほど(後半だが)。

計画に並行して実施された 植生調査では
貴重な品種があって 移植されたという
オハイオの森を擬した 二次林ながら
アカショウビンが飛来し
オオタカの餌場にもなっていた
レッドデータブックの絶滅危惧種が
自生していても 不思議ではなかろう

「おまえら--」と発する人も
「戦争なんかやめろ」と 意思表示する私たちも
保留地にあった植物の 名前すら知らない

 こんなところに感心していたら、山下から「主旨が違う」と言われるかもしれないが、私はこの部分が好きだなあ。
 「名前すら知らない」。ここに感動した。感動というか、はっと気づかされた。「知らない」という「動詞」をきちんとつかっている。
 「知らない」は直接的には、「植物の名前」を知らないということだが、ほかにも「知らない」ことはたくさんある。
 「おまえら」と山下らに罵声を浴びせるひとは、「山下の名前」を知らない。罵声にめげずに意思表示する山下らは、「罵声を浴びせるひとの名前」を知らない。さらには、そこに医療施設が完成したとき、その「施設に入るひとの名前」も知らない。そこで「死んでいくひと名前」も知らない。
 「名前を知らない」は「存在を知らない」に通じる。
 そして、その「知らない」の向こう側には、「戦場で起きていることも知らない」がつながっている。「戦争が起きたらどうなるか知らない」もつながっている。
 「知らない」ことばかりが、世界にあふれている。「知らない」ことを、どうやって「実感」に変えていくか。「知っている」に変えていくか。これは、むずかしい。
 むしろ逆に考えるのがいいのかもしれない。
 「知らない」ということのすばらしさを共有する方がいい。「戦争で何が起きているか知らない」「医療施設にだれが運ばれてきたのか知らない」。その「知らない」にはふたつの、あり方がある。「起きているのに知らない」と、「起こさないことによって、それを知り得ない」という方法。これは、「知らない」ではなく、そういうことが起きないようにするということでもある。
 「知らない」というのは、「ない」があるために、否定的な意味になりがちだが、肯定に変えることもできるはずだ。
 そういうことを、山下は訴えているのだと思う。

水ぬるむ季節をまえに
移植され 保護された植物はどこかで
小さな花でも 咲かせているだろうか

 できるなら、移植されず、保護されず、ただあるがままの「知らない」がいいなあ。雑草を、だれにも見向きもされない花という呼び方があるが、いいじゃないだろうか。だれに知られる必要があるだろうか。「知られない」ままでいい。生きているのがいちばんいい。「知らない人間(無名)」になるために、山下はプラカードをかかげているのだと思う。「御霊」になって、知られるなんて、いやだよ、という声が聞こえる。「御霊」になる前に、「プラカードをかかげていた山下」という具合に、「名前」が「登録される(知られる)」というのも、いやだね。しかし、そういう状況へ、一歩一歩近づいているね。こわいのは、そうやって「知られてしまう(登録されてしまう)」と、何と言えばいいのか、逆に「存在」は抹殺される。「名前がある」から尊重されるではなく、「名前」ごと消され、永久に知られなくなるということが起きるんだけれどね。

 「知る/知られる」という動詞を動かすだけで、いろいろなことが、みえてくる。動詞は必ず動かしてみないといけない。動詞と一緒に、自分の肉体を動かして確かめないといけない。



 


*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


「詩はどこにあるか」4月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか4月号注文


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977




問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


おだいりさまとおひなさまからの手紙
クリエーター情報なし
文芸社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

だれに報告?

2018-05-11 09:27:23 | 自民党憲法改正草案を読む
だれに報告?
             自民党憲法改正草案を読む/番外213(情報の読み方)

 2018年05月11日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

柳瀬氏「加計と3回面会」/参考人招致 「首相案件」は否定/14日集中審議

 という見出し。
 10日の国会審議のことが書かれている。記事のなかに非常に気になる部分がある。

柳瀬氏は面会を通じて計画を把握したと説明したが、「加計学園の件で総理に報告したことも指示を受けたことも一切ない」と強調した。

 これに対して、野党はどう追及したのか。私はテレビを見ていないので知らないが、共産党の志井でさえ、こんなことしか言っていない。

首相の指示は一切なかった、報告もしなかったと言い続けているが、およそ考えられない。(記者会見で)(読売新聞・4面)

 「考えられない」というだけでは、批判にならない。追及にならない。
 では、「だれに報告したのか」となぜ問いをつづけないのか。
 3回も加計学園関係者に会っているのに、もし、柳瀬がだれにも報告しなかったのだとしたら、理由は何だろうか。どうなるだろうか。
 理由として考えられるのは、「面会」が無意味なものである、ということ。しかし、もし「無意味」なら、なぜ3回も会う必要があるか。3回も会って伝えなければならないことがあった、と考えるしかない。
 だいたい3回も会わないと「計画を把握」したことにならないのだとしたら、その計画は何だったのだ。3回会って、あれこれ指示を与え、やっと「まともな計画」にしかならないようなものだったということになる。「まともな計画にする」ために3回も会うということは、加計学園のことしか考えていなということだろう。
 そして、これからがもっと重要だが。
 3回も会っているのに、それをだれにも報告しないというのであれば、「加計学園問題」は「柳瀬案件」にならないか。柳瀬の「意向」を周囲が忖度し、それによって政治が動くということにならないか。
 「首相案件」以上に問題にすべきことである。「権力」は柳瀬が握っていることになる。ふつうの国民がすぐに名前も言えない人が「権力」を動かしていることになる。(いま、首相秘書官を努めているのはだれ? という問いに何人が正確に答えられるだろうか。)これが「民主主義国家」の姿なのか。

 柳瀬は、これまで愛媛県、今治市関係者には会った記憶がないと言っているが、加計学園関係者に会ったことはないとは言っていないという論理を展開している(問われていないから答えなかったという論理を展開している)が、この「論理」を問題の発言に重ね合わせると、どうなるか。

 安倍から指示はあったか、安倍に報告したか、と問われたから「ない」と答えた。しかし、菅からは指示を受けた。報告した。あるいは、他の関係者から指示を受けた。報告した、ということはありうる。問われていなから、答えないだけで嘘はついていないという論理を許すことにならないか。

 もう一度、書こう。
 もし柳瀬が、安倍の指示を受けていない、安倍には報告していなというのなら、柳瀬はどんな「権限」で加計学園関係者に会ったのか。愛媛県、今治市の関係者に会ったのか。そして、そのとき何を言ったのか。何のために、言ったのか。柳瀬の「独断」で「加計学園問題」を処理していいのか。
 そうなのだとしたら、あらゆる「案件」は首相秘書官の意向のままということにならないか。首相も知らない、まわりのだれも知らない。首相秘書官だけが、政策がどう実現していくかを知っているということになってしまう。

 「だれに報告したのか」さえ、問うことができないというのは野党の怠慢である。質問能力が著しく低下している。
 マスコミも同じだろう。
 他紙はまだ読んでいないが、マスコミのどれかが、「では、柳瀬はだれに報告したのか、だれにも報告しないのはなぜか」という論理で批判を書いているだろうか。それができないとしたら、マスコミも失格である。権力の暴走をチェックしていることにはならない。


憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする