詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アクタン・アリム・クバト監督「馬を放つ」(★★★★+★)

2018-05-17 08:57:39 | 映画
アクタン・アリム・クバト監督「馬を放つ」(★★★★+★)

監督 アクタン・アリム・クバト 出演 アクタン・アリム・クバト

 私は田舎に育った。空と山と田んぼがあるだけである。馬は、私の暮らしにはなかった。馬を飼っていて、馬車で荷物を運ぶ仕事をする人が近くにひとりいたが、私の日常ではなかった。だから、この映画に描かれいる「神話」が直接的に「肉体」に迫ってくるわけではないが、空と山と草原しかないという自然はぐいと迫ってくる。ふいに、こういうところで「生きたい」という欲望が動く。最初に「世界」だと認識したものを突きつけられた気持ちになる。「肉体」が無防備に、裸になる。
 どの「土地」にも「神話」がある。それは語られることもあれば、語られないこともある。私の田舎では語られなかった。だから、それは自分の「肉体」をさらけだして、「世界」とひとつになって「感じる」しかないものなのだが、私は木に「神話」を感じた。どの木もただ、そこに生えている。大きい木もあれば小さい木もある。これから育つ木である。「木はどこでも育つ(大きくなる)」というのが私の「肉体」が感じ取った「神話」である。木になりたいという「気持ち」が私の「肉体」のなかにある。そういうこともあって、最近はただ空があり、山があり、平地があるという風景に非常に強くひかれる。

 映画とは関係がないこと書いている気がするが、もう少し。
 そういうところで育ったので、私は「ことば」というものを幼いときは意識しなかった。小学校に入る前の日に、父親に「名前くらい書けないといけない」というので、名前だけ「ひらがな」をならった。それは、私にとっては、たいへんな衝撃だった。だから、いまでもこのことを覚えてい。それから学校で、「教科書(本)」をもらい、「ことば」というものがあることに驚いた。それまで私は「ことば」というものを知らなかった。「声」は聞いていたが「ことば」とは感じなかった。「声」が何かを伝えるのであって、「ことば」で世界ができているとは思っていなかった。(こういうことは、もちろん、「いま」振り返って思うことであって、小学校に入学したときは、そんなことは思わなかった。「文字(ことば)」が読めるようになると、知らないものが目の前にあらわれてきた。それまでは知らないものなんかなかった。)

 で、ここから、私の映画の感想ははじまるのだが。
 主人公には子どもがいる。妻がことばを話せないために、子どもの「ことば」がなかなか発達しない。父親の話をとても楽しそうに聞くが、子どもは話さない。もしかしたら、子どもも障碍をもっているのではないか。そういう不安もある。
 この「自分のことば(声)」をもたない子どもというのが、なぜか、私には小学校に入る前の自分の「肉体」に見えてくる。私は自分の名前を書く前に、どんなことばを話したかまったく覚えていない。腹が減ったとか、ごはんが食べたいと言った記憶もない。覚えているのは、藁であんだ「火鉢」のようなところに座ったままおしこめられて泣いていたこと。「火鉢」の部分は「おもり」になっているのか、どっちへ転んでも起き上がりこぼしのように起き上がってしまう。泣いて泣いて泣いていた。そのとき「世界」は、やっぱり空と山と田んぼだった。木が見えていた。けれども、それはひとつひとつを「区別」して見るものではなくて、全部が「ひとつ」になっていた。「自我」もないし、「他我」もない。「文字」を覚え、「ことば」を覚えてからも、それは「ことば」というよりも空、山、木、田んぼというものだったかもしれない。木の一本一本に「名前」があるわけではないが、私は、昔はどの木も全部区別ができたと思う。写真を見せられれば、これはどの家の柿の木とか、これはどこそこの山の杉とか、それがわかったと思う。
 この「ことば」をもっているのかどうかわからない子ども(話せるかどうかわからない子ども)に、父親は一生懸命、キルギスの「神話」を語る。「馬は人間の翼だ」という「神話」。人間を自由にするのが馬だ。父親自身は、馬を「放つ」(自由にする)ために、馬泥棒をする。そして、一晩中、馬を乗り回す。馬に乗りながら、手を広げ、空を飛んでいる気分を味わう。「馬は人間の翼だ」ということばを「肉体」で確かめる。こんなふうに人間を解放してくれる馬を食べるなんて、主人公には納得できない。馬とともに生きた時代、遊牧民として自由に暮らしたい。血が、そう騒いでいる。馬を乗り回すときだけ、その血は静かになる。
 「ことば」を話さない子どもにとって、「ことば」は「馬」である。子どもが「ことば」を話せれば、子どもは「自由」を手にすることができる。「自由」とは「世界」に出て行くことである。「世界」と交わることである。

 でも、これは、あとから考えたこと。映画を見ていたときは、そこまでは考えていなかった。

 最期の方、村を追放された主人公が、つかまえられた馬(野生の馬?)を解放する。トラックから馬が飛び下り、野を駆ける。主人公は、「馬泥棒」(ほんとうは盗んではいない、自分ものにするのではなく、馬を「放つ」だけであるのだが)として、追われる。川を逃げるとき、隠れるところがないので、撃たれてしまう。
 このシーンを子どもは目撃しているのではないが、それに重なるようにして「父ちゃん」とはじめて明確な声を出す。「ことば」を話す。
 この瞬間に、私は涙があふれた。突然、それはやってきた。まさか涙が出るようなシーンがあるとは思っていなかったのだが、主人公が自分のいのちを投げ出して子どもに「ことば(声)」を与えた、という「神話」がそのとき完成し、それに驚いたのだ。
 馬が、そのむかし、キルギスの人に「翼」を与えたように、馬が人間の翼になったように、「ことば(声)」は子どもの「翼」になる。子どもに「翼」を与えるために、父は身を投げ出して「神話」を完成させた。「ことば(神話)」は子どもに引き継がれていく。最後の馬に乗って平原を駆ける男は、父が最後に見る「夢」ではなく、子どもの将来の姿を暗示している。
         (2018年05月16日、KBCシネマ1)


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