詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

加藤治郎『Confusion 』

2018-05-09 14:57:19 | 詩集
加藤治郎『Confusion 』(現代歌人シリーズ21)(書肆侃侃房、2018年05月12日発行)

 加藤治郎『Confusion 』は「いぬのせなか座」がレイアウト(装幀)をしている。私は、このレイアウトが嫌い。
 「ことば」をどうとらえるか。私にとっては「ことば」は音。「耳」で聞いた「肉声」しかおぼえられない。まわりにいる誰かが「声」に出す。(しゃべる。)それを聞いて、はじめて私の「肉体」のなかに入ってくる。「目」で見ても、よくわからない。私は小学校にはいるまで「文字」を知らなかった。入学する前の日、「名前くらいかけないといかん」というので、名前の書き方を教えてもらった。それまでは「音」しかなかった。こういう体験があって、そこから抜けきれない。
 『Confusion 』の文字のならべ方(書き方)はさまざま。説明するより、実際に見てもらうしかないのだが、そういうレイアウトにすることで、ことばは、どう変わるのか。もし変わるのだとして、それを「変えた」のは加藤なのか、「いぬのせなか座」なのか。「変える」ときに、加藤はどう関わったのか。「変えた」あと、加藤はさらにそれを「変えようとした」のか。「共同作業」がおこなわれたのか。
 ぜんぜん、わからない。というよりも、そういう「めんどう」なことを、私は考えることができない。だから、私は、「レイアウト」を無視して、もう一度「ことば」をならべなおす。
 こんな具合に。

ごごごごとまたしちしちと鳴くゆえに旅行鞄の中の歯ブラシ

 単純に、一行にしてしまう。
 鞄のなかで歯ブラシが音を立てる。列車(?)の振動が鞄に伝わり、そのなかの歯ブラシがケースにぶつかり音を立てる。それが「ごごごご」「しちしち」と聞こえるのは、加藤が歌人であり、「五・七」という意識があるからだろう。いま感じていることを短歌にしたい、五七五七七ということばにしたいという思いが、聞こえてくる音を「ご」と「しち」に変えるのだ。
 「五」だけではなく「七」という意識のぶつかりあい。そこに「また」ということばが入り込む。この「また」がこの一首のなかでは、「ことば」としていちばん強烈に迫ってくる。「正直」がある、と私は感じる。
 「また」とはなにか。「五」とは別に「七」、「五」のほかに「七」。違うものを結びつける。しかもそれは対等の関係である。別個のものを対等にする、という動きが「また」のなかに含まれている。「また」を「動詞」としてつかみなおすと、この歌の場合は、「ご(五)」と「しち(七)」という別の音、別の意味を対立するものではなく、同等のものとしてむすびつけるということになる。
 この別個のものを「対等」として「結びつける」は、ここには「主語」としては書かれていないが、「私」という存在と、「旅行鞄」「歯ブラシ」をも対等なものとして結びつけるということへつながっていく。
 「私」は書かれていないが、「私」はいる。その「私」を代弁するのが、「旅行鞄」か「歯ブラシ」か。それは読む人によって違うだろうが、ここに書かれていない「私」がいることについては、読者のだれもが疑わないだろう。
 さらに、私は、こんなことも考える。
 この歌のなかに使われている「動詞」は「鳴く」。「鳴く」の主語は何か。「歯ブラシ」だろう。「歯ブラシが鳴く」。もちろん歯ブラシは鳴かない。「鳴く」は「比喩」である。このとき、では主語は何なのか。「鳴く」が比喩なら、主語の「歯ブラシ」も「比喩」になるだろう。「歯ブラシ」は何の比喩なのか。
 「鳴く」を「声を出す」という動詞としてつかみなおす。「声を出す」ものは、この歌に書かれているか。書かれていない。しかし、先に読んだように、ここには書かれていない「私」がいる。そうすると、「鳴く」のほんとうの主語は、その書かれていない「私」であると考えられないか。
 「歯ブラシ」になって、「旅」の振動のなかで、揺れている。「肉体」が何かにぶつかる。「ことば」が動き出しそうだ。歌人の習性として、そのことばを「五七調」にととのえたい。そんな無意識が「ごごごご」「しちしち」という「音」になって動き始める。
 私は、そんなふうに読む。

蜂蜜のような匂いにつつまれてあしたの雨のまんなかにいる

 この歌では、表記のおもしろさ、表記の中にも「音」があると感じた。後半のひらがなつづきのなかに「雨」という漢字が一個はさまれている。それこそ「まんなか」に「雨」という文字がある。そうすると、そこだけ「ひらがな」とは違った「漢字の音」が聞こえる。
 「まんなかにいる」は前半の「つつまれて」を言いなおしたもの。「つつまれる」は「まんなか」になること。
 「あした」は「朝」という漢字(意味)かもしれない。けれど、私は「明日」と読む。「蜂蜜」の明るさが「明日」の明るさに通じる。「明日の雨の真ん中にいる」という言い方は、学校文法では許されないが、「蜂蜜のような匂い」の「ような」をこの歌の基本と考えれば、一首全体が「比喩」になる。だから「明日の雨の真ん中にいる」と「現在形」で言い切っても問題はない。「いるだろう」と未来形にしなくても、「比喩」の「現在」として、ことば動く。

 いろいろ感想を書きたい歌がある。けれど、やめる。
 こういうレイアウトの主張につきあえるほど、私の視力はよくない。
 
 


*

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