詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

沖田修一監督「モリのいる場所」(★★★)

2018-05-23 20:25:27 | 映画
沖田修一監督「モリのいる場所」(★★★)

監督 沖田修一 出演 山崎努、樹木希林、林与一

 画家なのに、絵を描くシーンがない。これはおもしろくない。せめて、現実の風景に重ねるようにして「絵」を紹介してほしかったなあ。熊谷守一のファンなら、絵を思い出せるはず、ということかもしれないけれど、不親切だなあ。
 山崎努がじーっと蟻を見つめる。虫を見つめる。草花を見つめる。そのときは、「絵」を描かない。蟻や虫や草花、猫を覚えているのか。形と色を、頭の中に叩き込んでいるのか。そうではないだろうなあ。蟻や草花になっているのだ。
 とてもおもしろいエピソードがある。熊谷守一の庭には「池」がある。川でとってきた魚を話すために池を作った。池の水は土に吸い込まれていく。それでは魚が死んでしまう。どうするか。毎日毎日、池を掘り続ける。井戸掘りのように「水脈」にであうまで掘り下げていく。やっと水の減らないことろにまでたどりつく。15年かかったそうだ。これはたんに池を掘ったということではない。熊谷は池になったのだ。
 これと同じように、熊谷は、そこに生きているいのちを守ることで、そのいのちそのもるになる。蟻やカマキリや猫の絵を書いているのではなく、絵の中で熊谷は蟻やカマキリや猫になっている。そうなるまでに何十年とかかっているということだ。
 これを象徴的に語るのが、蟻を見つめるシーン。地面に顔をつけて蟻を見ている。そしてカメラマンに向かって、「蟻は左側の前から二本目の足から動かして歩く」と説明する。これは「見える」ということではなく、蟻になって動くから、それがわかるのである。カメラマンは、わからない。カメラマンの助手も「速くてわからない」と言う。これは、「見ようとする」から見えないのだ。蟻になってしまえば、蟻として動くしかない。どこかへ行くにはどの足から動かすかは、とても重要だ。
 似たシーンに、草に対して「いつ生えてきたのか」、落ちている石に対して「どこからやってきたのか」と問いかけるシーンがある。「生まれる」「やってくる」。それは「動き」である。何もかもが動いている。動くことが生きるということだ。熊谷は「絵」のなかで「絵に描かれたもの」を生きている。生まれ変わっている。
 映画の冒頭、昭和天皇(?)が、熊谷の絵を子どもの絵と勘違いする。このことも、熊谷は「絵として生まれている」ということを証明する。天皇の素朴な感想は、意外と熊谷の絵の本質をつかんでいる。「絵として生まれてきた」ばかりなのである。その「絵」は「生まれたての赤ん坊」なのである。その絵は、見るひとの視線の中で、育っていく。そういう絵なのだ。
 そういう意味では、絵を描く前の時間は、「絵になる(絵として生まれ変わる)」時間を描いていることになり、それはそのまま「絵の制作過程」と読んでもいいものなのだが、これは、なかなかつらい。
 絵ではなく、「文字」を書くシーンがあるが、このときも筆に墨をつけるところまでは見せるが、実際の筆の動きは見せない。これはこれで「工夫」なのかもしれないが、はぐらかされた感じになる。
         (2018年05月23日、KBCシネマ1)


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