広田修「オフィスの死骸」、金子忠政「森の道」(「オオカミ」32、2018年02月発行)
広田修「オフィスの死骸」を読みながら、考えるのは「動詞」のことである。
「死骸」という名詞がある。「死」というのは「事実」だが、その「証拠」のようなものは、なかなか実感できない。「死骸」が「死」を証明する「証拠」ということになるかもしれない。
「死」の動詞は「死ぬ」。しかし、この作品には「死ぬ」という動詞は出てこない。「死んでいる」という形で出てくる。「死」という状態になって、そこに「ある」。「死ぬ」という「動き」はない。
言い換えると「死ぬ」という動きの「定義」がないままに、「死」だけが書かれている。「死」も「死ぬ」も、だれもが知っていると広田は思っているのかもしれないが、私はいちども「死ぬ」ということを体験していないので、「死ぬ」がわからない。
「死」というものは、何度か見てきているが、見てきてはいるけれど、「わかっている」とは言えない。「死」を見るだけでは「死ぬ」はわからない。「死骸」を見るだけでは、「死ぬ」がわからない。
これは逆に言うと、ここに書かれている「生きる」もわからない。「生きる」が書かれているかどうか、わからない。
「死んでいる」は「死んだまま」にかわる。「まま」には「かわらない」という動詞がある。「つづく」という動詞も含まれるだろう。肯定としての「かわらない」「つづく」が「死」なのか。でも「死ぬ」ということは、「かわる」ことであり、「つづかない」ことだねえ。
「死ぬ」という動詞は書かれていないなあ。
動詞がないと、「肉体」に迫ってこないなあ。
*
金子忠政「森の道」もまた「死」を書いている。
森の中の道は動物の「死骸」で満ちている。車で「轢かれる」。そのとき「死ぬ」。「死ぬ」前に、「身構える」「立ち止まる」「振り回される」「右往左往する」「逃げ惑う」「横切る」というような「動詞」がある。それは「生きる」ものの「動き」だ。「生きる」を奪われることが「死ぬ」と間接的に語られる。
「死んだあと」、では、どう「生きる」か。つまり、「いのち」は、どうつづくか。
「反り返る」「硬直する」「こわばる」。そうすることで「躓かせる」。「轢かれた」ものたちは「受け身」のまま終わるのではない。「死んだまま」ではない。「躓かせる」ことで「死」を知らせる。
ここでは「生きる」と「死ぬ」、「生」と「死」がからみあって動いている。切り離せないものとして「世界」をつくっている。
書き出しの、
というのは、この「生きる」と「死ぬ」のことを指しているわけではないのだが、「予言」のように詩をひっぱっている。「耳」のかわりに「いのち」と読んでみる。「いのち」を「あらゆるひとつにする」。「いのち」とは「生きる」と「死ぬ」が切り離せないまま動くものである。「死ぬ」ことによって、それは「生きる」と固く結びついていた、「ひとつのものであった」ということがわかる。
さて、ひとは(金子は)、どんなふうにして「躓く」か。
ここからがハイライトである。
「死ぬ」は「生きる」姿として反逆してくる。「生きる」ものの姿を「思い出す」ということが「死ぬ」を体験することである、と言えるかもしれない。「生きる」を克明に描くことが「死ぬ」という「動詞」をとらえることだと金子は考えている。
ここには「肉体」で追認できる「動詞」がある。それは「生きる」をさらに生々しくえぐりだしている。
もう少し詩はつづくのだが、それは「オオカミ」で読んでください。
*
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広田修「オフィスの死骸」を読みながら、考えるのは「動詞」のことである。
人のいない事務所では
書類から何から死骸のようだ
我々もみな死骸として
書類という死骸と
戯れているに過ぎない
事務所ではすべてが死んでいる
「死骸」という名詞がある。「死」というのは「事実」だが、その「証拠」のようなものは、なかなか実感できない。「死骸」が「死」を証明する「証拠」ということになるかもしれない。
「死」の動詞は「死ぬ」。しかし、この作品には「死ぬ」という動詞は出てこない。「死んでいる」という形で出てくる。「死」という状態になって、そこに「ある」。「死ぬ」という「動き」はない。
言い換えると「死ぬ」という動きの「定義」がないままに、「死」だけが書かれている。「死」も「死ぬ」も、だれもが知っていると広田は思っているのかもしれないが、私はいちども「死ぬ」ということを体験していないので、「死ぬ」がわからない。
「死」というものは、何度か見てきているが、見てきてはいるけれど、「わかっている」とは言えない。「死」を見るだけでは「死ぬ」はわからない。「死骸」を見るだけでは、「死ぬ」がわからない。
これは逆に言うと、ここに書かれている「生きる」もわからない。「生きる」が書かれているかどうか、わからない。
どんなに事務所が明るく活気に満ちていても
やはりすべてが死んでいるのだ
この私も同僚たちも
書類もパソコンもみな
百年前から死んだままだ
「死んでいる」は「死んだまま」にかわる。「まま」には「かわらない」という動詞がある。「つづく」という動詞も含まれるだろう。肯定としての「かわらない」「つづく」が「死」なのか。でも「死ぬ」ということは、「かわる」ことであり、「つづかない」ことだねえ。
「死ぬ」という動詞は書かれていないなあ。
動詞がないと、「肉体」に迫ってこないなあ。
*
金子忠政「森の道」もまた「死」を書いている。
耳をあらゆるひとつにする、世界が終わったあとのようなしずけさを求めてここにきた。なのに、夜の森はすさまじい喧騒に満ちている。轢かれたうえにさらに轢かれた八月、そして三月、こちらを一瞬きっと見つめて身構え、立ち止まってしまう、真昼の猫は、ヘッドライトに振り回されて右往左往し、のろのろ逃げ惑ったあげくの、夜中の狸は、先頭にいて全速ですばやく横切ろうとする、明け方の猿は、路上でヴイブラートして反り返り硬直しかけ、しなやかで、強靱に、こうして、こわばる。ほふられるきさまらは躓かせるために道はある、という。
森の中の道は動物の「死骸」で満ちている。車で「轢かれる」。そのとき「死ぬ」。「死ぬ」前に、「身構える」「立ち止まる」「振り回される」「右往左往する」「逃げ惑う」「横切る」というような「動詞」がある。それは「生きる」ものの「動き」だ。「生きる」を奪われることが「死ぬ」と間接的に語られる。
「死んだあと」、では、どう「生きる」か。つまり、「いのち」は、どうつづくか。
「反り返る」「硬直する」「こわばる」。そうすることで「躓かせる」。「轢かれた」ものたちは「受け身」のまま終わるのではない。「死んだまま」ではない。「躓かせる」ことで「死」を知らせる。
ここでは「生きる」と「死ぬ」、「生」と「死」がからみあって動いている。切り離せないものとして「世界」をつくっている。
書き出しの、
耳をあらゆるひとつにする、世界が終わったあとのようなしずけさ
というのは、この「生きる」と「死ぬ」のことを指しているわけではないのだが、「予言」のように詩をひっぱっている。「耳」のかわりに「いのち」と読んでみる。「いのち」を「あらゆるひとつにする」。「いのち」とは「生きる」と「死ぬ」が切り離せないまま動くものである。「死ぬ」ことによって、それは「生きる」と固く結びついていた、「ひとつのものであった」ということがわかる。
さて、ひとは(金子は)、どんなふうにして「躓く」か。
ここからがハイライトである。
雄蟷螂のように頭をバリッ、と殺られ、路上を転がり振り向きざま、にたりとして、くっ、と吐いた。ゆっくり這っていって、無口な蝸牛のように激しく、虚ろな眼のまま愛し合うように、猥らにみぶるいした。
「死ぬ」は「生きる」姿として反逆してくる。「生きる」ものの姿を「思い出す」ということが「死ぬ」を体験することである、と言えるかもしれない。「生きる」を克明に描くことが「死ぬ」という「動詞」をとらえることだと金子は考えている。
ここには「肉体」で追認できる「動詞」がある。それは「生きる」をさらに生々しくえぐりだしている。
もう少し詩はつづくのだが、それは「オオカミ」で読んでください。
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評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」4月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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