柏木勇一「ゴドーの月」(「詩の鍵穴」2、2018年06月01日発行)
柏木勇一「ゴドーの月」は、ベケットの戯曲を上演したときのことを書いている。
「曲者」は「神」「退屈」「不条理」と言いなおされる。このときの助詞「は」は「分かっている」である。「分かっている/分かる」が「曲者」を次々に別の「名詞」に転換していく。それはさらに「議論」「時間」と言いなおされる。
私は、こういう「名詞」の置き換えには、関心がない。「動詞」の方に関心がある。「(聞き)飽きる」「くたびれる」「もつれる」という「動詞」の方が「曲者」を具体的にあらわしていると読む。
「曲者」相手では「くたびれる」「もつれる」。これは、ともに相手がそうなるではなく、私が「飽きる」「くたびれる」「もつれる」である。
でも、何もできない。いや、ひとつだけできることがある。「待つ」ということ。「呆れ」「くたびれ」ながら、肉体の中に「もつれる」ものを抱えながら、「待つ」のだ。
そこに「破れる」が唐突にやってくる。「破れる」は「待つ」の対極、突然の変化であり、ゴドーの芝居で言えば「来た」のだ。何が「来た」か。それは人によって違う。柏木の場合は「月の光」だったということ。
それを「これ」と呼んでいる。
ここが、この詩の中でいちばん美しい。「これだ」と叫ぶときの「これ」。「これ」としか言いようのないもの。その前に「月の光」という名詞があるが、それでは何かを行ったことにはならない。「断定」してしまっては、「破れる」が固定化されてしまう。
でも、柏木は、「これ」を「月」とさらに言いなおしている。
この言い直しは、私には納得できない。「これだ ゴドーはこれでいい」と、「これ」としか呼べないものなのだ。せっかく「これ」と「名前以前」を指し示すところまでたどりつきながら、「月」という既成のことばに戻ってしまっては、見つけたものが見えなくなる。
角材を「組む」、塔を「作る」、裸電球を「添える」、それを「掲げる」。ひとつひとつの「動詞」と一緒に「肉体」が動く。「肉体」で裸電球を「月」に変える。「想像力」とは「肉体」の動きである。だから「消えない」。「肉体」のなかの、「動いた記憶(動くことで覚えたこと)」は、いつまでも残る。
自転車に乗れる人間、泳げる人間は、いくつになっても自転車に乗れるし、泳げる。「肉体」のなかから「肉体の動き」は消えない。「永遠」というものがあるとすれば、「肉体の動き」そのものである。
「ゴドーを待ちながら」、「肉体」はどう動くか。「永遠」は「肉体」にどう刻み込まれるか。
「永遠」なんて、曲者のことばだが、そう呼ぶとき、「ベケットは曲者だ」の「曲者」が、ふいに甦るだろう。
最終行は「詩」になりすぎている。「いつまでも」と「いくつもの」で十分だ。「嫉妬する」という「動詞」は「名詞派生」の動詞。動詞に見えるが、それは「神」「退屈」「不条理」と同じように、名詞だ。「名詞」は他人に(読んだ人に)まかせて、「動詞」としての「肉体」をことばのなかに置き直すことが詩を生むということだと私は考えている。
「ジャコメッティの蜘蛛」という作品は、
という美しい行ではじまる。「訪れる」「識別できる(識別する)」ということばが「動詞」として目につくが、私の「肉体」が反応するのは「やっと」という「副詞」だ。「やっと」のなかには「動詞」を揺さぶるものがある。「動詞以前の動詞(未生の動詞)」がある。それは「待つ」に通じる。
この「未生の動詞」をつぎつぎに言い直しながら、この詩は「待つ」ということばが引き寄せる「文学」へたどりついていく。
この終わり方も「文学的」すぎるかなあ。でも、「文学」を生きるのが柏木のことばの生き方なのだろう。「暮らし(日常)」のなかでことばを動かしたものは、なんとなく、嘘っぽい。表面的だ。「肉体」が動いている感じがしない。「文学(芸術)」のなかで「肉体」を動かす詩人なのだろう。
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柏木勇一「ゴドーの月」は、ベケットの戯曲を上演したときのことを書いている。
田舎道。一本の木。夕暮れ。
冒頭たったこれだけのト書き
暗い稽古場で語り合った
ベケットは曲者だ 分かっている
ゴドーは神か退屈か不条理か 聞き飽きた
議論もくたびれ 時間もつかれ
破れたカーテンの隙間から月の光
これだ ゴドーは月でいい
「曲者」は「神」「退屈」「不条理」と言いなおされる。このときの助詞「は」は「分かっている」である。「分かっている/分かる」が「曲者」を次々に別の「名詞」に転換していく。それはさらに「議論」「時間」と言いなおされる。
私は、こういう「名詞」の置き換えには、関心がない。「動詞」の方に関心がある。「(聞き)飽きる」「くたびれる」「もつれる」という「動詞」の方が「曲者」を具体的にあらわしていると読む。
「曲者」相手では「くたびれる」「もつれる」。これは、ともに相手がそうなるではなく、私が「飽きる」「くたびれる」「もつれる」である。
でも、何もできない。いや、ひとつだけできることがある。「待つ」ということ。「呆れ」「くたびれ」ながら、肉体の中に「もつれる」ものを抱えながら、「待つ」のだ。
そこに「破れる」が唐突にやってくる。「破れる」は「待つ」の対極、突然の変化であり、ゴドーの芝居で言えば「来た」のだ。何が「来た」か。それは人によって違う。柏木の場合は「月の光」だったということ。
それを「これ」と呼んでいる。
ここが、この詩の中でいちばん美しい。「これだ」と叫ぶときの「これ」。「これ」としか言いようのないもの。その前に「月の光」という名詞があるが、それでは何かを行ったことにはならない。「断定」してしまっては、「破れる」が固定化されてしまう。
でも、柏木は、「これ」を「月」とさらに言いなおしている。
この言い直しは、私には納得できない。「これだ ゴドーはこれでいい」と、「これ」としか呼べないものなのだ。せっかく「これ」と「名前以前」を指し示すところまでたどりつきながら、「月」という既成のことばに戻ってしまっては、見つけたものが見えなくなる。
沈黙。太陽が沈み、月がのぼる。
杉の角材を組んで塔を作って裸電球を添え
ガタゴトとアッパーホリゾントに掲げた
五十年以上も前のこれがおれたちのゴドー
すぐに消える映像ではない
角材を「組む」、塔を「作る」、裸電球を「添える」、それを「掲げる」。ひとつひとつの「動詞」と一緒に「肉体」が動く。「肉体」で裸電球を「月」に変える。「想像力」とは「肉体」の動きである。だから「消えない」。「肉体」のなかの、「動いた記憶(動くことで覚えたこと)」は、いつまでも残る。
自転車に乗れる人間、泳げる人間は、いくつになっても自転車に乗れるし、泳げる。「肉体」のなかから「肉体の動き」は消えない。「永遠」というものがあるとすれば、「肉体の動き」そのものである。
「ゴドーを待ちながら」、「肉体」はどう動くか。「永遠」は「肉体」にどう刻み込まれるか。
「永遠」なんて、曲者のことばだが、そう呼ぶとき、「ベケットは曲者だ」の「曲者」が、ふいに甦るだろう。
月は永遠だから いつまでも待てる
待とうよ いつまでも
月に嫉妬しながら空を見たいくつもの夜
最終行は「詩」になりすぎている。「いつまでも」と「いくつもの」で十分だ。「嫉妬する」という「動詞」は「名詞派生」の動詞。動詞に見えるが、それは「神」「退屈」「不条理」と同じように、名詞だ。「名詞」は他人に(読んだ人に)まかせて、「動詞」としての「肉体」をことばのなかに置き直すことが詩を生むということだと私は考えている。
「ジャコメッティの蜘蛛」という作品は、
陽光が訪れてやっと識別できる 蜘蛛の糸
という美しい行ではじまる。「訪れる」「識別できる(識別する)」ということばが「動詞」として目につくが、私の「肉体」が反応するのは「やっと」という「副詞」だ。「やっと」のなかには「動詞」を揺さぶるものがある。「動詞以前の動詞(未生の動詞)」がある。それは「待つ」に通じる。
この「未生の動詞」をつぎつぎに言い直しながら、この詩は「待つ」ということばが引き寄せる「文学」へたどりついていく。
鼻筋の彫りの深いしわに蜘蛛が
笑うジャコメッティ
サミュエル・ベケットとチェスに興じた
この終わり方も「文学的」すぎるかなあ。でも、「文学」を生きるのが柏木のことばの生き方なのだろう。「暮らし(日常)」のなかでことばを動かしたものは、なんとなく、嘘っぽい。表面的だ。「肉体」が動いている感じがしない。「文学(芸術)」のなかで「肉体」を動かす詩人なのだろう。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」4月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか4月号注文
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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