詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルカ・グァダニーノ監督「君の名前で僕を呼んで」(★★★)

2018-05-10 01:07:27 | 映画
監督ルカ・グァダニーノ 出演 アーミー・ハマー、ティモシー・シャラメ

 北イタリアが舞台。青年と少年の恋愛を描いているのだが、北イタリアというのが、微妙だなあ。ギリシャ時代の彫刻が出てくる。そのギリシャ彫刻の魅力について「腹に贅肉がついていない」というようなことを語らせたりしているから、同性愛の遠因(?)をギリシャに求めているのだと思う。でも、舞台は、ギリシャから遠い北イタリア。
 ここに不思議な「距離感」がある。直接つながっていない、強い交渉があるわけではない、という感じがしない。でも、つながりがないわけではない。イタリアでも南部の方、シチリアあたりだとまた違った感じになるのだろうなあ。
 映画の見どころは、少年(ティモシー・シャラメ)の描き方。音楽や文学に造詣が深く、感性が非常に繊細。趣味で「編曲」をしたりしている。その少年がギリシャ彫刻そのままの青年(アーミー・ハマー)に惹かれていく。どう感情を伝えていいのかわからないのだけれど、「わからない」ことを武器に青年に迫っていく。
 「ぼくには秘密がある」「秘密はそのままにしておいた方がいい」「言わなくても、何が秘密かわかるだろう」という具合に。
 このときの「婉曲的」というか、不思議な「距離感」がおもしろい。少年は「編曲」でみがいた感覚を、「ことば」にも応用しているのかもしれない。「編曲(アレンジ)」のなかに「本質」をしのびこませる、あるいは隠す。
 青年は、こういうことが苦手だ。というか、「直接的」(編曲されていないもの)の方が好きである。少年がギターで演奏した曲が好き。でも、バッハをあれこれ「編曲」したものは好きではない、という具合に。
 「編曲」というのは、やっぱり「距離感」というものを含んでいるしれない。「音楽」だけでなく、「ことば」においても。
 そして、これは、やっぱり北イタリアとギリシャの距離感とどこか重なる。青年がアメリカ人、少年がイタリア人という「距離感」もある。青年と少年という「距離感」もある。
 「距離感」と同時にというか、「距離感」があるからこそなのか、その「距離」を少年は「衝動」で渡り切ろうとする。「ぼくには秘密がある」と言ってしまうのも「衝動」である。青年の方は「衝動」を抑えられるが、少年は抑えられない。「衝動」を生きているがゆえに、少年は青年に恋しながら、少女ともセックスをする。「距離」をそのままにしない、「距離」を乗り越えるという力がある。そこにバッハの原曲のような、ストレートな強さがある。
 ストレートな伸びやかさと、編曲の技巧。ふたつが交錯する。編曲の技巧を捨て去って、ストレートな欲望(よろこび)を発見していく過程を少年は具体化しているとも言えるかなあ。
 うーん。でも、どうも映画にのめりこめない。
 私が青年でも少年でもない、もう年をとった人間だからだろうか。
 私が映画を見た日は水曜日(レディースデイ)だったせいか、ほとんどが女性客だった。女性は、この映画の「だれ」に感情移入してみているのだろうか。想像するに、「少年」を「少女」としてみつめ、「少女」になって感情移入しているのではないのか。ふと出会ったひとに恋をして、身悶えする。その苦悩。純粋な苦悩へのあこがれを、いつまでも抱いていられるのが女性なのかもしれないとも思った。
 自分の中に「純粋」がまだある、と信じるのは、私なんかは、もう「めんどうくさい」と感じてしまうのだけれど。だから、ラストシーンで少年が暖炉の火をみつめる長い長いシーンは、「あ、こんなに集中して演技ができるなんて、ものすごいなあ。天才だなあ」と思ってしまう。ストーリーよりも、「演技力」の方に見とれてしまって、それがいちばんの印象になってしまう。
         (2018年05月09日、KBCシネマ2)


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