詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エルマンノ・オルミ監督が死んだ。でも、ミネクは生きている。

2018-05-08 19:38:08 | 詩集
エルマンノ・オルミ監督が死んだ。
「木靴の樹」は、わたしのいちばん好きな作品。
ミネクの一家が農園を追われて去っていくシーンで、私は「ミネク、幸せになれよ」と祈ってしまう。
映画なのに。
思い出しただけでも、祈ってしまう。

初めて見たのは40年ほど前。
そのまま成長していれば、ミネクも中年。50歳前くらい。
幸せな家庭をもっているだろうか。
何をして働いてるだろうか。
そんなふうに想像してしまう。

「私は幸せに生きている」というミネクの声が聞けたら、どんなにいいだろう。
幸せに生きているミネクにあって、「ああ、よかったね」と声をかけたい。
幸せなミネクに会えるなら、そのためにならイタリアのあちこちを訪ね歩きたい。

映画なのにね、時代が違うのにね。
そんなふうに思ってしまう。

ミネク「水のなかには生き物がいっぱいいるんだ」
父「知ってるよ、魚だろう」
ミネク「もっとちっちゃいんだ」
父「見えないよ」
という会話とか、
両親がノートに書き込まれた文字を見て、
「これはエルだな」といったり、
初めて学校へ行く前の夜、ミネクがお風呂にはいる。
それを見た弟が「ぼくもお風呂はいりたい」と言ったりとか。
神父「ミネクを学校にやりなさい」
両親「学校は遠くて通えない」
神父「子どもは、そういうことは平気だ」とか。
学校へ行くとき、ひとり中庭を横切るときの光とか。
学校から飛び出すとき、石を踏んで木靴が割れるシーン。
割れた木靴を靴下でしばって歩くシーン。
書き出すときりがない。
次々に思い出してしまう。

「ミネク、絶対、幸せで生きていてください」と、やっぱり祈る。
監督の冥福を祈るというよりも。



下のurlはリバイバルを見たときの感想。


https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/e720a83f24bfe1357b67ea431eb3d8b8

木靴の樹 Blu-ray
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川浩二『わたしの胸は反響する』

2018-05-08 12:00:46 | 詩集

北川浩二『わたしの胸は反響する』(私家版、2018年05月04日発行)

 北川浩二『わたしの胸は反響する』。「悲しみ」という作品で立ち止まった。

悲しみをみせられて
あなたの悲しみは
それですかと
この世でふたりきりになってきく
あなたの悲しみはそれですか
それから
朝となく 夜となく
あなたと一問一答をして
だれにも気づかれないあいだに
長い長い時間を夢のように過ごした

 悲しみをみせられて、「あなたの悲しみはそれですか」と聞くというのは、何だか奇妙だが、その奇妙さに惹きつけられる。単に聞くのではなく「この世でふたりきりになって」聞く。その「ふたりきりになる」という「動き」が「聞く」と強く関係している。
 「ふたりきりになってきく」というのは、「ふたりきりになったから」聞く(他人を排除して、秘密として聞く)ということなのか。そうではなく、「聞く」という動詞が動いて、「ふたりきりにした」のかもしれない。「聞く」ことで「ふたりきりになった」。「ふたりきり」が先にあるのではなく、「聞く」という動詞が「ふたりきり」を生み出した。
 「あなたの悲しみはそれですか」は、疑問ではなく、瞬間的な理解、理解できることへの驚きが生み出したことばだろう。「それを知っている」ことに驚いた。それが「わたし(書かれていない主語)」のものであるかのように「知っている」。他人のものに思えない。そのために、思わず声に出してしまった。
 「あなた」と「わたし」が「ひとり」になった。だから「わたし」は書かれることはない。「ふたりきり」ということばのなかに、「わたし」はいるようで、いない。「独立」しては存在していない。
 そういうことは「だれも気づかない」。それが「悲しみ」であり、またひそかな「夢」である。「喜び」である。
 「一問一答」ということばが出てくるが、問うことも答えることもないかもしれない。問うとしたら「あなたの悲しみはそれですか」という問いだけだろう。

 詩集のタイトルになっていることばは「名前」という作品の中にある。

名前を呼ばれて
返事をするときのあの胸騒ぎ
とても不思議だった
これがわたしの名前
と知っているだけでは足りない
知って
なおかつ何か思ってくれていなければいけない
きいてみたい
どうして思ってくれたの?

わたしは呼ばれて
返事をする
返事をするたびに
わたしの胸は反響する
どうして思ってくれたの?
一体
どうして思ってくれたの?

 この詩は「悲しみ」と「対」になっている。
 この詩には「あなた」という主語は書かれずに、「わたし」のみが書かれる。そして、この詩では「聞く」という動詞は「あなた」に向かっては動かない。「わたしの胸」に向かって発せられる。「一問一答」ではなく、「自問自答」。でも「自問自答」するとき、「わたしの胸」に浮かんでくるのは「わたし」ではなく「あなた」である。
 この詩でも、「あなた」と「わたし」は「ふたりきり」であり、同時に「ひとり」になっている。
 「一体」ということばを、北川は「副詞」としてつかっているが、「一体である」という具合に、「名詞」が隠れている。

 どの作品も、ある種の「反復」があり、それがなんとなく私には「短歌(和歌)」のように聞こえる。
 静かに、そこにある、という感じの詩集だ。


*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


「詩はどこにあるか」4月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか4月号注文


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977




問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


パイロットボートの深夜行
北川 浩二
ポエトリージャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする