アリ・アッバシル監督「ボーダー 二つの世界」(★★★)
監督 アリ・アッバシ 出演 エバ・メランデル、エーロ・ミロノフ
私は最近の「特殊メイク」にどうもなじめない。多くは「そっくりさん」にするためのものだが、この映画では主役の二人を「そっくりさん」にしている。しかも、それは「醜い」そっくりさんである。「醜い」は隠された「異形」をも含んでいる。それは「ことば」で表現された後、「映像」でも一瞬だけ具体的に提示される。こういうやり方も、私にはなじめない。
映画は、やっぱり「俳優」を見るものだと思う。日常では絶対に見ることのできないアップされた顔、肉体を見ることで、自分の肉体のなかにある「可能性」みたいなものを刺戟される。映画を見て、美男・美女になれるわけではないが、見終わると「主役」になった気持ちになる、というのが映画のおもしろさ。芝居(舞台)だと、「アップ」がないから、「のめり込む」という感じにはならない。
この映画では、では、そういう「のめり込み」を誘うシーンがないかというと、そうでもない。セックスシーンが、なかなかの「力演」である。でも、これはねえ。セックスシーンというのは、だいたい人にみせるものではない。どんなに工夫しても「無様」というか「醜い」ものを含んでいる。(「帰郷」のジェーン・フォンダのエクスタシーが、私の見たセックスシーンではいちばん美しい。絶対的な美しさで輝いているが……)そして、その「醜さ」に何か「欲望」の本質を教えられた気がするのである。そうか、欲望にかられるときは、「美醜」の区別がつかなくなるのか。「美醜」という判断基準とは違うものによって人間は動くのか、と。
で。
実は、これがこの映画のテーマか、とも思う。「美醜」の判断基準とは違うものによって動くだけではなく、いつも信じている「判断基準」そのものとは違うものによって人間は動くことがある。「判断基準」は「顕在化」しているもののほかにも、ある。「顕在化している判断基準」を消して、まだ「判断基準」のない世界へと踏み込んで行く。
わかった上で(そう解釈した上で)言うのだが、やっぱり「醜さ」を強調した「特殊メイク」はいやだなあ。
この映画では「判断基準の逸脱」とどう向き合うかが、とても丁寧に描かれている。「幼児ポルノ」の摘発シーンなど、アメリカ映画なら、捜査官がパッと踏み込んで逮捕、あるいは証拠を突きつけて逮捕があっと言う間なのに、この映画では捜査そのものが慎重だし、取り調べもとても穏やかだ。あ、北欧の「人権感覚」は、ここまで徹底しているのか、と教えられる。女性主人公が、認知症で施設に入っている父親と口論するシーン、看護師が間に入って口論をやめさせるシーンなども、非常に落ち着いている。「判断基準」をひとが逸脱したとき、それをどう復元するかという問題が、逸脱した人が逸脱に気づき、自己修正していくのを待つ。決して、「正常な判断基準」へもどることを強制するわけではない。
こういうことを踏まえて、映画は、社会の「判断基準」を逸脱した女性主人公がどんなふうにして「自己」を発見し(つまり自己のアイデンティティに気づき)、いまある「判断基準」を乗り越える姿(新しい生き方の基準を自分自身で選び取る)かを描いている点は、感動的といえば感動的なのだが。
これが「特殊メイク」をつかわずに、「素顔」で演じられていたらどんなにすばらしいだろうと思う。「ふつう」のなかにこそ「判断基準」の強い「罠」のようなものがあるのだから、と思わずにはいられない。
(2019年11月03日、KBCシネマ2)
監督 アリ・アッバシ 出演 エバ・メランデル、エーロ・ミロノフ
私は最近の「特殊メイク」にどうもなじめない。多くは「そっくりさん」にするためのものだが、この映画では主役の二人を「そっくりさん」にしている。しかも、それは「醜い」そっくりさんである。「醜い」は隠された「異形」をも含んでいる。それは「ことば」で表現された後、「映像」でも一瞬だけ具体的に提示される。こういうやり方も、私にはなじめない。
映画は、やっぱり「俳優」を見るものだと思う。日常では絶対に見ることのできないアップされた顔、肉体を見ることで、自分の肉体のなかにある「可能性」みたいなものを刺戟される。映画を見て、美男・美女になれるわけではないが、見終わると「主役」になった気持ちになる、というのが映画のおもしろさ。芝居(舞台)だと、「アップ」がないから、「のめり込む」という感じにはならない。
この映画では、では、そういう「のめり込み」を誘うシーンがないかというと、そうでもない。セックスシーンが、なかなかの「力演」である。でも、これはねえ。セックスシーンというのは、だいたい人にみせるものではない。どんなに工夫しても「無様」というか「醜い」ものを含んでいる。(「帰郷」のジェーン・フォンダのエクスタシーが、私の見たセックスシーンではいちばん美しい。絶対的な美しさで輝いているが……)そして、その「醜さ」に何か「欲望」の本質を教えられた気がするのである。そうか、欲望にかられるときは、「美醜」の区別がつかなくなるのか。「美醜」という判断基準とは違うものによって人間は動くのか、と。
で。
実は、これがこの映画のテーマか、とも思う。「美醜」の判断基準とは違うものによって動くだけではなく、いつも信じている「判断基準」そのものとは違うものによって人間は動くことがある。「判断基準」は「顕在化」しているもののほかにも、ある。「顕在化している判断基準」を消して、まだ「判断基準」のない世界へと踏み込んで行く。
わかった上で(そう解釈した上で)言うのだが、やっぱり「醜さ」を強調した「特殊メイク」はいやだなあ。
この映画では「判断基準の逸脱」とどう向き合うかが、とても丁寧に描かれている。「幼児ポルノ」の摘発シーンなど、アメリカ映画なら、捜査官がパッと踏み込んで逮捕、あるいは証拠を突きつけて逮捕があっと言う間なのに、この映画では捜査そのものが慎重だし、取り調べもとても穏やかだ。あ、北欧の「人権感覚」は、ここまで徹底しているのか、と教えられる。女性主人公が、認知症で施設に入っている父親と口論するシーン、看護師が間に入って口論をやめさせるシーンなども、非常に落ち着いている。「判断基準」をひとが逸脱したとき、それをどう復元するかという問題が、逸脱した人が逸脱に気づき、自己修正していくのを待つ。決して、「正常な判断基準」へもどることを強制するわけではない。
こういうことを踏まえて、映画は、社会の「判断基準」を逸脱した女性主人公がどんなふうにして「自己」を発見し(つまり自己のアイデンティティに気づき)、いまある「判断基準」を乗り越える姿(新しい生き方の基準を自分自身で選び取る)かを描いている点は、感動的といえば感動的なのだが。
これが「特殊メイク」をつかわずに、「素顔」で演じられていたらどんなにすばらしいだろうと思う。「ふつう」のなかにこそ「判断基準」の強い「罠」のようなものがあるのだから、と思わずにはいられない。
(2019年11月03日、KBCシネマ2)