詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アリ・アッバシル監督「ボーダー 二つの世界」(★★★)

2019-11-03 21:24:17 | 映画
アリ・アッバシル監督「ボーダー 二つの世界」(★★★)

監督 アリ・アッバシ 出演 エバ・メランデル、エーロ・ミロノフ

 私は最近の「特殊メイク」にどうもなじめない。多くは「そっくりさん」にするためのものだが、この映画では主役の二人を「そっくりさん」にしている。しかも、それは「醜い」そっくりさんである。「醜い」は隠された「異形」をも含んでいる。それは「ことば」で表現された後、「映像」でも一瞬だけ具体的に提示される。こういうやり方も、私にはなじめない。
 映画は、やっぱり「俳優」を見るものだと思う。日常では絶対に見ることのできないアップされた顔、肉体を見ることで、自分の肉体のなかにある「可能性」みたいなものを刺戟される。映画を見て、美男・美女になれるわけではないが、見終わると「主役」になった気持ちになる、というのが映画のおもしろさ。芝居(舞台)だと、「アップ」がないから、「のめり込む」という感じにはならない。
 この映画では、では、そういう「のめり込み」を誘うシーンがないかというと、そうでもない。セックスシーンが、なかなかの「力演」である。でも、これはねえ。セックスシーンというのは、だいたい人にみせるものではない。どんなに工夫しても「無様」というか「醜い」ものを含んでいる。(「帰郷」のジェーン・フォンダのエクスタシーが、私の見たセックスシーンではいちばん美しい。絶対的な美しさで輝いているが……)そして、その「醜さ」に何か「欲望」の本質を教えられた気がするのである。そうか、欲望にかられるときは、「美醜」の区別がつかなくなるのか。「美醜」という判断基準とは違うものによって人間は動くのか、と。
 で。
 実は、これがこの映画のテーマか、とも思う。「美醜」の判断基準とは違うものによって動くだけではなく、いつも信じている「判断基準」そのものとは違うものによって人間は動くことがある。「判断基準」は「顕在化」しているもののほかにも、ある。「顕在化している判断基準」を消して、まだ「判断基準」のない世界へと踏み込んで行く。
 わかった上で(そう解釈した上で)言うのだが、やっぱり「醜さ」を強調した「特殊メイク」はいやだなあ。
 この映画では「判断基準の逸脱」とどう向き合うかが、とても丁寧に描かれている。「幼児ポルノ」の摘発シーンなど、アメリカ映画なら、捜査官がパッと踏み込んで逮捕、あるいは証拠を突きつけて逮捕があっと言う間なのに、この映画では捜査そのものが慎重だし、取り調べもとても穏やかだ。あ、北欧の「人権感覚」は、ここまで徹底しているのか、と教えられる。女性主人公が、認知症で施設に入っている父親と口論するシーン、看護師が間に入って口論をやめさせるシーンなども、非常に落ち着いている。「判断基準」をひとが逸脱したとき、それをどう復元するかという問題が、逸脱した人が逸脱に気づき、自己修正していくのを待つ。決して、「正常な判断基準」へもどることを強制するわけではない。
 こういうことを踏まえて、映画は、社会の「判断基準」を逸脱した女性主人公がどんなふうにして「自己」を発見し(つまり自己のアイデンティティに気づき)、いまある「判断基準」を乗り越える姿(新しい生き方の基準を自分自身で選び取る)かを描いている点は、感動的といえば感動的なのだが。
 これが「特殊メイク」をつかわずに、「素顔」で演じられていたらどんなにすばらしいだろうと思う。「ふつう」のなかにこそ「判断基準」の強い「罠」のようなものがあるのだから、と思わずにはいられない。

 (2019年11月03日、KBCシネマ2)
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小柳玲子「握り飯」

2019-11-03 09:54:46 | 詩(雑誌・同人誌)
小柳玲子「握り飯」(「みらいらん」4、2019年07月15日発行)

 小柳玲子はどんな詩人なのか。思い出せそうで、思い出せない。私は、こいう言い方(分類の仕方?)は顰蹙を買うだろうと承知で書くのだが、「おばさんの詩」が好きである。代表は、そうだなあ、長嶋南子か。年齢は知らないから、ほんとうは「おばさん」ではなく「お嬢さん」集団なのかもしれないが、私の意識の中で「おばさん詩人」というものがいて、そのひとたちの詩の感想を「おばさんパレード」というタイトルで一冊にしてみたいという夢がある。その「おばさんパレード」から、実は、小柳は抜け落ちていた。どんなふうにかというと……「おばさま詩」という感じで。高橋順子も、どちらかといえば「おばさま詩」。
 そういう目で見ると、小柳玲子「握り飯」は、「おばさま詩」から「おばさん詩」へ動き始めた感じがする。いや、「おばさん詩」を書こうとしたが、やっぱり「おばさま詩」になってしまったという感じか。

部屋に入ると
彼がいる
あの人だ と思ったが
誰だったか
ちょっと思い出せない
   まあいいや 誰にしてもそう変わりゃしない
「おにぎり食べるけど欲しい」と聞くと
「いらない」と言った
そうかそうか あんたはもう要らない人だったっけ
よかった
見るまでもなく
握り飯は一個しかないのだ
なんとなくほっとして食べ始める

 私は、こういう感覚が好きだ。「あの人」はもう死んでいないのだろう。でも思い出す。思い出して、ちょっと声をかけてみるが、そうだ、いないんだったと思うのだが、その「確認の手立て」が「握り飯は一個」の「一個」なのだ。この生活感覚がいいなあ。そして、いないんだ、と納得した後「ほっとして」というのがとてもいい。なぜ、ほっとした? 二人で食べていたときは「ぼくは、そっちのおに握り飯の方がいい」とかなんとか、どうでもいいことで「争い」があったからだ。「争い」というまでもないけれど、ちょっとしためんどうくささ、ちょっとした我慢のようなもの、譲歩のようなもの。そういうことを、もうしなくてもいい。だから「ほっとする」。そして「ほっとした」あと、こんどは納得できないものが押し寄せてくる。「寂しさ」という感情が。
 それが二連目で書かれるのだけれど、二連目に行くまでの「おばさんぶり」が私は好きだ。
 問題の二連目。

西側のガラス窓に寄りかかって
あの人は私を見ている
あの人は少し笑っているようでもあったが
東側の入り口近くにいる私には
はっきりしない
「きょうは一日 どうだった」と私は聞いたが
答えはなかった
それはあたりまえなんだ
彼はどこにもいないのだし
私はただ誰でもない人でもいいので
喋ってみたかったのだ
そうやって夜は深くなっていくのだった

 ずいぶんと「礼儀正しく」なってしまう。と、書くのは失礼なことなのかもしれないけれど、この「礼儀正しさ」は少しおもしろくない。一連目の「まあいいや」という乱暴さ、「肉体のむき出し」感がないと、「しんみり」してしまう。
 いや、しんみりしたことを書いているのだから、これでいいのだが。
 そうはわかっていても、やっぱり「おばさん」の暴力が私は好きなのだ。
 この「しんみり」感なら、たぶん、妻をなくした男も書いてしまう。「西側」と「東側」の対比、「ガラス窓」と「入り口」の対比は、それが事実であるとしても、あまりにも「明確」過ぎて「具体性」が見えない。「現実」のもっている「濁り」が見えない。こういう書き方は、ちょっと男っぽい。(私には、表現・認識の男女差の感覚がまだまだ残っているので、どうしてもそう感じてしまう。)小柳が書いている「明確な具体性」が「不明瞭な生々しさ」にかわると「おばさん詩」になる。
 私の勝手な「分類」だけれどね。

 なぜ「おばさん詩」にこだわるかというと、男には「おっさん詩」というものがないからだ。(おばさんの対極は、おじさんではおっさんだと私は思っている。)細田傳造が「おっさん詩」を書けるかなあと思うけれど、男はどうしても「おじさん詩」になってしまう。あるいはさらに気取って「おじさま詩」か。男は、どこかで「ことばの可能性」を半分以上捨ててしまっている。そのことを気づかせてくれるのが「おばさん詩」なのだ。だからこそ、「おばさん」にはパレード(デモ行進でもいいが)して、ことばの世界を変えてもらいたいなあと私は願っている。
 自分にできないことは、他人に頼むのである、私は。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(5)

2019-11-03 08:47:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (一茎の白い花は)

一茎の白い花は
少しばかりぼくの手に似ている
この手でいつも一つの窓を開いた

 「一輪の」ではなく「一茎の」。この焦点の当て方がおもしろい。二行目の「手」が「茎」のなかに隠されている。「花」が比喩なのではなく、「茎」が比喩として働いている。しかも「一茎の」を追いかけるようにし「花」があらわれる。「花」は「開く」という動詞を隠している。ふたつの隠された存在と動詞が結びついて三行目になる。
 この三行で、私は、この詩は完結していると思う。
 けれど、嵯峨は、この詩をさらに押し広げていく。「花」と「手」は別の世界を開いて行く。私は、それを引用しない。「意味」はわかるが、「意味」が強すぎて、最初の三行で動かされたものが消えてしまう感じがするからだ。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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