山野さやさや | |
三井 喬子 | |
思潮社 |
三井喬子『山野さやさや』(思潮社、2019年06月30日発行)
三井喬子『山野さやさや』に「爪」という作品がある。
爪は骨ではない。
爪は骨ではないが、
たわむれに浄い水の裾をつまんで持ちあげると
渚や瀬や滝は声を放ち、
この書き出しを読んで、何か書きたいと思ったが、何を書きたいと思っていたのか忘れた。たぶん、何か書きたいと思っただけなのだ。何かは、私の中では、まだ具体的になっていなかった。
「うすやみの中には」まで読み進んで、その二連目。
失語症のうすやみの中には
とり残された寂しい意味が生息していて
液化した悪意として
柔らかに
人の心を窒息させる。
ふと、思い出すのだ。「爪」という詩を。
「意味」を、その「意味」をあらわすことば、「概念」ではないことばで書くのが詩ではないだろうか、と。
「うすやみの中には」には「意味」ということばがしっかりと書かれている。「悪意」ということばのなかにも「意味」が含まれている。「意味」は「意識」かもしれない。そして、「意味」というのは、たいていの場合、「余分」なものである。つまり、「意味」は誰もが持っていることなので(自分の暮らしを生きているので)、「他人の意味」なんかにかかわりたくない。
失語症のうすやみの中には
とり残された寂しいが生息していて
液化して
柔らかに
人の心を窒息させる。
たとえば、「意味」「悪意」というこばを削除して、こう書き直したらどうなるか。三井が「意味」について何を考えているか、何を「意味」と予防としているかわからなくなるが、わからなくなった分だけ、読者の中に「意味」が動き始めないだろうか。
詩は「意味」ではない。ことばが「もの」として「意味」を隠したまま動く、ことばが「無意味」になる(意味を拒絶する)ときに、詩は突然あらわれ、隠された「意味」をむき出しにするのではないか。
その瞬間に似た、何か「拒絶する力」というものが、
爪は骨ではない。
という一行に含まれている。もちろん「爪は骨ではない。」自明のことだが、その自明をわざわざことばにすると、ことばが「もの」のようにエッジをもって出現してくる。ことばは「知っている」ことしか語れないものなのだ。自明のことをことばにすると、ことばが「もの」に帰っていく。つまり、そんなことは知っている、意味がない、無意味だ、という具合に「無意味」が出現する。そこに、何か、私の「書きたい」という欲望を引き起こすものがあったのだ。
でも、なぜ、それをすぐに忘れてしまったのか。
「爪」のつづきを読んでいく。そうすると、こんな具合に「意味」に出会う。
爪は骨ではない、
爪は骨ではないから
オオバコを敷かずヤブガラシをまとわないが
産出される意味は疼き、
私は、その「意味」に出会うことで、急に気持ちが冷めてしまったのだ。「産出される意味」という「意味だらけ」のことばに出会って、「もの」が消えていくと感じたのだ。「爪」も「骨」もなくなり、「〇〇は××ではない」という「構文」だけが浮かび上がるように感じ、まあ、書かなくてもいいか、と思った。「何か書きたい」と思ったのは、勘違いだったのだと、瞬間的に自分に言い聞かせたのだと思う。
それなのに、
失語症のうすやみの中には
とり残された寂しい意味が生息していて
という行を読み、ふっと、「あ、これは書いておかなければ」と思ったのは、「そうか、三井の書きたいのは意味なのか」と気づいたからだ。
「意味」とは何か。三井は「うすやみの中には」で、こう定義する。
うすやみの中で
瞳だけであなたに出会った
求めて手を差し出すと
触れてくる形のない違和、
……意味だ。
これは即座に、
いいえ 意味という無残な遺品なのかもしれない
と 青いあなたを揺すった
揺すってみた うながされて。
と否定される。ここには「〇〇は××(意味)である、いや、〇〇は××ではない」が屈折した形で書かれている。
「違和が意味である」と定義され、「意味」は「無残な遺品」と否定される。
屈折するのは、対象(〇〇や××)が「生」ではなく「死」だからだ。「生きて動くもの」は、その動きによってつねに「もの」でありながら「もの」ではない。「死んで動かないもの」は「もの」ではなく「死」である。--これは、説明しなおさなければ「意味」にならないのだが、「意味」にしたくないので、このままにしておく。
「意味」はさらにもう一度、定義しなおされる。
言葉をなくしたやみの中
流れる川に 藻 まつわり
青いあなたに揺らぎを与えて
関係性を削ぎ取っていく
「意味」は「言葉」であり、「言葉」は「関係性」である。
そうであるなら逆に言いなおせば、「言葉」から「関係性」を「削ぎ取った」ら「もの」が詩として出現するということになる。
「生」が、他人には「死」にみえるかもしれないが、三井だけが知っている「生」、語り継ぎたい「生」が出現する。
爪は骨ではない。
この一行が「詩」として屹立するのは、そういうことなのだ。
「老いたる女神」のなかに、こんな三行がある。
否!
と言う
それは言葉ではなく……。
三井は、詩を、そう定義している。
*
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