詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬々敬久監督「楽園」と平山秀幸監督「閉鎖病棟 それぞれの朝」

2019-11-10 20:02:13 | 映画
瀬々敬久監督「楽園」(★★★)
監督 瀬々敬久 出演 綾野剛、杉咲花、佐藤浩市
平山秀幸監督「閉鎖病棟 それぞれの朝」(★★★)
監督 平山秀幸 出演 笑福亭鶴瓶、綾野剛、小松菜奈

 瀬々敬久監督「楽園」、平山秀幸監督「閉鎖病棟 それぞれの朝」を見たが、すっきりしない。日本の映画に綾野剛が出ているせいか、どうも一本の映画に見えてしまう。根岸季衣も二本の映画に出ていた。そういうことも影響しているかもしれない。やっている「役どころ」が似ていて、ちょっと気持ち悪い。綾野剛、根岸季衣は、こういう人間と思われているのか、ということが前面に出てくる。ほかの役者もそうだが、「存在感」というよりは、「定型」を利用している。新しい人間を見ているという気がしないのである。
 「楽園」は、少女がクローバーで花の冠をつくったあと田んぼ(?)のなかの道を歩くシーンのカメラの移動の感じが妙に宙に浮いたような気持ち悪さがあって、出だしとしてはおもしろいのだが、そういう不気味な感じが持続しない。
 佐藤浩市が「村八分」にあう感じが、いかにも「限界集落」で起きそうな出来事で興味深いといえば興味深いが、これを利用してラストシーンへ持っていくのは、「安易」という感じがする。綾野剛の受けている差別とは別のものなのに、それをいっしょにしてしまうのは「強引」というより、ストーリーを分かりやすくするための「安易」な展開としかいえない。これが「楽園」のいちばんいやなところかなあ。
 佐藤浩市の物語だけを、もっとていねいに描けばおもしろい作品になったと思う。中年男が村八分にあう物語では、だれも見るひとはいないと思ったのかもしれないけれど。しかし、それならそれで、佐藤浩市の物語を省略した方がよかったのではないか。
 綾野剛と佐藤浩市を重ねること(通わせること)で、現代の抱える問題を押し広げたつもりなのかもしれないが、私はこういう重ね合わせは、どうも納得ができない。
 「閉鎖病棟」もある意味では、人間の重ね合わせである。ひとりでいるときは突破できなかった「壁」というか、自分自身の生き方が、他人に触れること(他人の悲しみと自分を重ね合わせること)によって、「自立」へ向かって動き出す。感動的といえば感動的なのだけれど、ちょっと「感動的すぎる」。つまり、作為を感じてしまう。
 で。
 私は田中裕子が出演する「ひとよ」を見ようか、見まいか、迷ってしまった。三本の映画に共通するのは「殺人」なのだが、殺人は経験したことがないだけに、殺したいという気持ちを役者と共有できるかどうかが問題なのだが、私は、どうも苦手だなあ。血が飛び散ったり、悲惨な殺人シーンは笑いだしてしまうほど好きなのだけれど。あれは現実には見ることのないシーンを見る興奮だな。「未知との遭遇」で宇宙船が山を越えながらひっくりかえるシーンのような。「殺人」も、私の予想できないような「動機」で起きるのなら、それは見応え(?)があるのかもしれないが、たいていは「殺してしまうのは、やっぱりやりすぎでは?」と思ってしまうからねえ。

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即位の礼のパレード

2019-11-10 17:28:34 | 自民党憲法改正草案を読む
即位の礼のパレード。
私は見る気もしないし、見てもいないのだが。
言いたいことはある。

平成の天皇は、安倍によって強制生前退位させられた。
ひとによっては、天皇が自主的に生前退位したと言っている。
どちらにしろ、これは今までになかったことである。

今までになかったことが起きたなら、それからつづくことがらが今までと同じであっていいはずがない。
変えないといけない。
即位の日をいつにするか、元号をどうするか。
そういうことは国会できちんと議論して決めないといけない。
国会にはそういうことを議論する時間的余裕はあった。
けれどそれをしなかった。

きのうの夜(?)、大がかりな行事とか、きょうのパレードとか。
そういうことも国会で議論しないといけない。

なぜ議論しないのか。
これは、「平成の天皇は、安倍によって強制生前退位させられた」ということの証拠の一つになるのだが、安倍が天皇制を安倍の宣伝に利用するためである。
安倍だけが天皇を自由にあやつる。
天皇をあやつって、安倍が望む天皇と国民との関係をつくりだす。
天皇を「象徴」ではなく「元首」にしてしまう。しかし、「元首」といっても「国政に関する権能は有しない」。つまり「お飾り」である。
「天皇」を「お飾り」にしておいて、「天皇」から「国政に関する権能」を委託された「元首代理」が「首相」であるという位置づけを国民にすりこむ。
そういうことをするためである。

「天皇」は、たんに「家系」を古くまでたどれるというだけの人間である。
しかも、その「家系」にしろ、もし「平家物語」が正しいとするならば、天皇は幼いまま(つまり、だれかと性交して男子を妊娠、出産させるということのないまま)、安倍の出身地近くの海で死んでいる。つまり、そこから「脇」へずれた家系になっている。それ以外にも、いろいろと「脇道」へずれているかもしれない。
「南北朝時代」という、どっちが天皇かわからない時代もあった。(私が知らないだけなのだろうけれど。)
さらに、「側室」もたくさんいるらしい。男子ではなく女子を産んだ側室、あるいはあとから生まれた男子(まさかひとり男子が生まれればいいというわけでもいなだろう。平家物語の例があるくらいだから)はどうなったのか。側室のその後も含めて、「闇」の部分がたくさんある。
そういう人間を、いったい何のために尊敬しなければならないのか。
これだけ「男女平等意識」が進んだ時代に、どうしてそういうことに対して疑問の声がおきないのか、不思議でならない。

「天皇制」は、安倍の「家長制度」を復活させたいという野望のために利用されているにすぎない。
「天皇制」は国民統合の象徴ではなく、「家長制度」の象徴である。
そして「家長」がすべてを支配するというのは、「独裁」を目指している安倍の姿そのものなのである。
日本という国の「家長」になって日本国民を支配する。
そのために「天皇制」を利用する。
その「洗脳」作戦とも言うべきものが一連の「即位」がらみの儀式である。

そういうことに利用される「天皇家」というのは、あまりにもあわれである。
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谷元益男『展』

2019-11-10 12:06:01 | 詩集
谷元益男『展』(ふたば工房、2019年09月10日発行)

 谷元益男『展』について、私は何を書けるだろうか。
 「馬鍬」という詩がある。「馬鍬」には「まんが」というルビがあるが「うま+くわ」がつまった「方言」だと思う。古い発音が地方には残っている。「菓子」を「くわし」と言う人がいることを思い浮かべると「くわ」と「か」の関係が想像できると思う。そして、このことからもわかるように、谷元の詩には「古い」時間、古い地方の時間が描かれている。

田起こしの
土塊をなくすため
牛に牽かせた馬鍬を
一面にあてる
鍬が通ったところには泥水が溜まり
血のりのように白くひかっている

 「白くひかっている」という描写が強い。泥水の黒が光を反射すると、その反射はより白くなる。
 とても美しい春の風景である。
 とても美しいのだが、私はとても奇妙な気持ちになる。
 谷元はこの風景をどんな気持ちで書いたのか。「声」が聞こえてこない。田起こしをする人、牛といっしょに生きているのか。いまはそういう田園風景は存在しないだろうから、きっと思い出しているのだが、それを思い出すとき、どう思い出しているのか。楽しいのか、つらいのか。田の仕事は楽しいのか、つらいのか。
 「血のり」という比喩に、ひっかかるのだ。
 「血」はいのちのみなもと。田んぼのなかに生きているものが、耕されることで噴き出してくる。ふつう、「血のり」というと「死」につながるイメージがあるが、ここでは逆にいのちの復活として「血」がつかわれているのだが、私の「語感」ではちぐはぐに感じられる。
 この詩は、こうつづいてゆく。

牛は悦び後脚を跳ねるが
あの体にも血は満ちている

 「血のり」という比喩は、牛の「体にも血は満ちている」と呼応している。そしてそれは「悦び」と結びついている。つまり「生命の輝き」の象徴としてつかわれているのだが、私はどうしても落ち着かない。
 私には、「血のり」という比喩が先にあったのではなく、牛の体にも血が満ちているということばを引き出すために作為的に呼び出された比喩のように感じられる。なんとなく「むり」が感じられる。「むり」というのは「嘘」ということである。
 この「嘘」の感じは、詩全体をおおってしまう。
 すでに書いたことの繰り返しになるが、こういう風景は、いまの日本では見ることができない。どこかで、繰り返されているかもしれないが、その場合は明確な「意図」があっての田仕事というとになる。だれでもが見ることのできるものではない。なぜ、いま存在しないものを書くのか。存在しないものを書くとすれば、その「意図」はなんなのか。「声」が聞こえない。
 いや、「血のり」ということばのなかに、「声」につながるものがあるのだが、それがよくわからない。「血」によって「いのち」を表現するという「作為」の方が目立ってしまって、「いのち」の力が響いてこない。
 こういうことは「感覚」の問題であって、私とは違う意見の人もいると思うけれど。

 どうにも好きになれないのだが、それでも、いや、それだからこそなのかもしれないが、最後の連がいいなあ、と思う。

鉄の櫛は土を
やわらかくするが
おとこの自在さを奪っている
牛が感ずるのは
ほんの少し
息が遠くなるほどに
何もない田を
思う ことだ

 田んぼが耕されると、人間はだんだん歩きにくくなる。その歩きにくい歩みは、牛にも伝わる。牛は、自分のしている仕事を思い、またいっしょに働いているおとこのことも思う。そのあと、牛が、いっしょに働いている男をほっぽりだして、違うことを感じる。そう想像している部分がとても気持ちがいい。
 ここには「声」がある。
 谷元が「永遠」を思い浮かべる「声」だ。牛になって発する「声」だ。
 一連目の風景は、たぶん谷元が子どものときに見た風景だろう。しかし、最後の連で牛が見る風景は、「生きている時間」を越える。人間が初めて牛をつかって田を耕すということをはじめた古代の時間だ。牛は、そうやって生きてきた。牛は、田を耕すだけのために飼われているのではなく、やがて食べられる存在なのだが、食べられるまでの間、農耕の手伝いをしている。牛にしてみれば何のために生きているのかわからないということになるかもしれないが、そういう時間があるのだ。
 そういうことは、人間にもあるかもしれない。
 「そういうこと」とはどういうことか。それはいえない。「そういうこと」としか。それが「感じる」ということ。
 ここに不思議な「共感」がある。
 少年は直感としてそれをつかんでいる。ここには谷元が思い出している昔の風景ではなく、昔の谷元少年がそのまま生きているのだ。



 谷元益男『展』について、私は何を書けるだろうか--と私がきょうの感想を書き始めたとき、いや、きのう北岡武司の詩の感想を書いたとき、「おじさん詩」というのは「青年のまま年を取った男の詩」のことだ思い、そのつづきとして谷元のことばの特徴について書こうと思っていたのだが、一日たつと考えは変わってしまう。それで違うことを書いたのだが、少しだけきのう思ったことを思い出しながら追加しておく。
 「底」という作品。

声も届かぬ壺の内側
その底に 落ちて行く
長い日を刻んで
滴って 水のない器を抱える
棚のなかで
うごく ものは
月しか
ない

 この清潔さ。いまもある風景かもしれないが、かつて少年のときに見た風景にあわせていまをととのえなおしていくことばの運動。
 「馬鍬」も少年のときに見た風景を、大人になって、あらためてことばでととのえなおしている作品だといえる。そこには自分のことばを、清潔なまま保ちたいという欲望があるのかもしれない。谷元は「青年のまま年を取った男」というよりも、「少年」のまま年をとった男かもしれない。ボーイソプラノのままの「声」を出そうとするのだが、ときどき「大人の地声」がまざってしまう。
 純粋な声(透明な声)にだけ耳を傾けて聞き取るようにすれば、美しい詩集ということになるだろう。少年のときにみた風景を美しいことばとして残すというよりも、「少年の声を残したい」という欲望の詩集として読むべきかもしれない。

 でも、なんだか怖くないですか? 少年の声を残すために、それを取り戻そうとするというのは--という感想は余分なのだけれど、余分だとわかっていても私は書いてしまう。










*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(12)

2019-11-10 10:27:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
川ぎしの歌

* (ぼくのなかに)

ぼくのなかに
ぼくのなかにどこまでも長く突き出ている堤防

 「ぼくのなかに」が二度繰り返されている。「ぼくのなかに」、その堤防があることを確認している。その堤防は

朝やけの大淀川

 といっしょになって存在している。嵯峨にとっては「大淀川」と「堤防」は分離できないひとつの風景である。
 「ふるさと」というのは、その土地を離れることによって「ふるさと」になる。そこには「愛」と同時に「否定」がある。この「否定」を嵯峨は「反抗」と呼んでいる。
 詩は、こうつづく。

そのすべてをしずかに消そう
目まぐるしい愛にむかつて
反抗の歌をながくながくふるわせよう
それからそのピアニシモに最後の憩いをもとめよう

 矛盾に満ちた行である。「しずかに」「ピアニシモ」「ふるわせる」ということばが、その行を結びつけている。それは消しても消しても消えない静かさであり、ピアニシモである。それが嵯峨にとっての「ふるさと」である。

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