詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(16)

2019-11-14 10:00:20 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (その灰いろの蔓にはなにも残つていない)

一粒の葡萄の実もなく
一枚の枯れ葉もついていない

 これを嵯峨は、次のように言いなおす。

しかしそれはなんと静かなことだろう

 実も葉もない。けれど「静かさ」がある。「静かなこと」がある。詩はここで完結してもいいと思うが、嵯峨はさらにことばをつづけ、こんなふうに言いなおす。

どこかにぼくの知らない価値があるようだ

 「静かなこと」は「価値」である。それまでつかわれてこなかった「ある」という動詞が、それを「念押し」している。わかりやすくなったが、つまらなくなった、とも言える。









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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桜を見る会中止

2019-11-14 09:40:50 | 自民党憲法改正草案を読む
桜を見る会中止
             自民党憲法改正草案を読む/番外302(情報の読み方)

 2019年11月14日の読売新聞(西部版・14版)1面に。

「桜を見る会」中止/来年度 招待基準見直しへ/政府発表

 という見出し。安倍の後援会関係者が 850人招待されていたことが問題化したための措置だが、記事のふたつの部分に注目した。(番号は、私がつけた。)

①首相は同日、「私の判断で中止することにした」と首相官邸で記者団に語った。

②菅氏は「長年の慣行」として、内閣官房が招待者を取りまとめる際、首相官邸や与党に対して招待者の推薦依頼を行っていたことも明らかにした。

 ①は「決断」が安倍の判断-あることを強調している。これは言いなおすと、「安倍には責任はない。部下がやった不始末だから、トップである安倍が部下を叱って責任をとらせることにした」という意味を含んでいる。
 では、だれに責任を取らせるか。安倍事務所の名簿作成者か。そうではない。そういうことをすれば、責任問題は安倍に波及するおそれがある。
 だれが責任をとることになるのかを説明しているのが②である。

 ②は、安倍事務所が勝手に 850人の招待したわけではない。つまり、安倍には責任がないと言おうとしている。あくまでも「内閣官房」(長官は菅である)が、「招待者の推薦依頼」をしてきたから、それに応じて推薦者名簿を提出しただけである、と言おうとしている。 850人の名簿を提出したが、 850人招待しろと言ったわけではない。 850人の招待を決めたのは「内閣官房(の職員)」である。そう言いたいわけである。安倍は名簿にはまったく関与していない。さらに招待者の選別には安倍事務所は関わっていない。最終的な名簿をつくったのは「内閣官房(の職員)」であり、安倍事務所は関係がない。そう言いたいのだ。
 こんなばかな「しりぬぐい」をさせられるのでは「内閣官房」(長官)もたまったものではないだろうけれど、菅は菅で平気である。
 ふつうは、責任が「内閣官房」にあるのなら、その長官である菅が責任をとらなければらない(と私は思う)が、森友学園の土地取り引きをめぐる騒動では麻生は責任をとらなかったから、今度も菅が責任をとるのではなく、内閣官房の「職員」に責任を押しつけるだろう。 850人をそのまま招待者名簿に加えたのは(名簿づくりの実務をしたのは)職員であって菅ではないからだ。「適正な名簿をつくるよう指導することで官房長官としての責任をまっとうする」と言い逃れるつもりなのだ。
 桜を見る会を終始したのは安倍の「手柄」、適正な招待者名簿をつくるように指導した(基準を見直すように指導した)のは菅の「手柄」ということになる。

 こういう「責任転嫁」の仕方と、だれを「手柄」を立てた人間にするかという処理の方法は、つい最近では「民間英語試験」問題でも起きた。
 萩生田自身が、民間英語試験を推進しようとしていたのに、その推進の最後の「後押し」のつもりで出たテレビで「身の丈」発言をしてしまった。お金持ちは「身の丈」にあわせて何度でも受験できるから、とてもいい制度ですよ、と言いたかったのだと思うが、萩生田のことばのつかい方が間違っていたために、「身の丈」の正しいつかい方をするふつうの国民から「貧乏人を排除するものだ」と批判された。この批判をかわすために、「文部省の職員の仕事に不備があった。万全なシステムができていない。だからトップの萩生田の「中止(延期)」を決めた。「中止」は萩生田の「手柄」である。
 同じように、今回の「中止」も安倍の「手柄」である。安倍は「私の判断」を強調している。安倍(事務所)の行為が問題なのに、問題のありかをごまかしている。

 この問題は、しかし、そういう「責任転嫁(職員に責任を押しつける)」だけではない。
 ①は「首相官邸で記者団に語った」と明記している。安倍は安倍の判断を、まず「国会」で語ったのではない。国会で語り、国会審議の後、記者団の質問にも答えたというのではない。
 ②も「記者会見」の場での発言である。国会で議論を経た後、記者会見があったわけではない。
 国会が軽視されている。そして、その国会軽視(国会無視)に記者会見が利用されている。
 「桜を見る会」の問題は、国会で明らかになった。まず国会で国民の代表である議員の前で、どうするかを語るのが先だろう。
 それをしないのは、国会の追及をかわすためである。予算委員会で追及されたら、「すでに記者会見で発表したように、来年の桜を見る会は中止することにした」で、疑惑を封じるつもりなのだ。
 私はいつも疑問に思うのだが、こういうとき記者のだれかが「なぜ、国会の場で発表せずに、記者会見なのか」と質問しないのだろう。(質問しているが、報道されないだけなのか。)安倍や菅の国会無視に記者が加担してしまっていいのか。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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