愛敬浩一自選詩集『真昼に』(詩的現代叢書35)(書肆山住、2019年04月01日発行)
愛敬浩一自選詩集『真昼に』は、1982年から1999年に書かれた作品群。ここ20年のものは含まれていない。その、少し古い詩を読みながら、もしかするとこの作品群は「おじさん詩」と呼べるものかもしれない、と思った。
「長まる」という作品がある。
「ことば」がある。その「ことば」を「頭」ではなく「肉体」で受け止め、「肉体」をことばになじませる。そのとき、たぶん主客が逆転する。「肉体」の動きをことばが受け止め、肉体にあわせて「意味」が生まれる。
この呼吸が、きっと私が「おばさん詩」と感じているものに通じる。
「ことば」なんて、「肉体」にあわせて、かってに変えていけばいいのである。「ことば」の「意味」を「肉体」で具体化できるなら、その「ことば」はほんもののことばである。
それ以外のことは、まあ、どうでもいい。
そして、こういうとき「ことば」とは「口語」なのである。口から出てくることば。「呼吸(息づかい)」をもった響き。「ことば」がはっきりわからなくても、そのなかに少しでもわかるものが含まれていれば、それを手がかりに「肉体」はことばのもっている「感情(人間がつたえたいと思っているもの)」を間違いなくつかみとる。
「長(い)」はわかる。「……(し)て」もわかる。「下さい」は、これは丁寧な言い方だ。何か親切で言ってくれているということがわかる。こういう「肉体」の理解は、たとえ間違っていても、だれも困らない。そういう「余裕」がある。間違っていたら間違っていたで、ただ笑うだけだ。
実際に体を「長くのばして/横たわる」という意味ではなく、「くつろいでください」「ゆっくりしてください」くらいのことかもしれないが、そうであればなおのこそ、体を長くのばして横たわると、逆に、とても歓迎されるだろう。まるで自分の家のようにくつろいでくれている、と。
この「実演する」が大事なのだ。
「実演する」と、「実演」が「肉体」で共有される。「肉体」が通い合うのである。「肉体」が通い合うのは、人間と人間だけではない。「家(の造り)」とも通い合う。そういうことがあって、ことばが「湯気」のように立ちこめる。充満する。「ことば」が「肉体」になって「空間」を埋めるのだ。
この、「抽象」にならない「湯気」という比喩、「立ち籠める」という比喩もいいなあ。ものごとを整理しない。むしろあいまいにする。つまり、ちょっとくらい間違えても大したことはない、という安心感。「抽象的な比喩(外国の現代思想に出てきそうな観念後)」だと、その「意味」を少し間違えただけで、だれかがきっと「それは違う」「何も知らないやつに語る資格はない」というようなめんどうくさい批判が飛んでくるでしょ? 「無知なやつはだまっていろ」というヒエラルキーが世界を区切っていくでしょ? 「湯気」の比喩では、そういうことは絶対に起きない。「湯気もうもうの風呂で裸のつきあいという感じだなあ。ゆったりするなあ」と感想を書いて、それが愛敬の思っていたことと違っていたって、別にどうということはない。
このあと途中、ちょっと学校の先生みたいに「知識」のひけらかしがあるが、その「知識」にしたって「中学校の文法」くらいの感じ。間違えたって、話せます、はい。で、そこが「おばさん」ではなく「おじさん」なんだろうけれど。
でも、まあ、いいさ。きっと愛敬は「国語の先生」なんだろう。ついつい「地」が出たというところ。「地」を出して平気なのも「おばさん」っぽい。
「とめた」は漢字で書くと違った文字になるが、声にすれば同じ。そこからあいまいなきいうか自在な(自分勝手な)リズムも生まれてくる。
その一方で、「漢字」(文字)が違うし、「音」も違うのだけれど、なんとなく「なまった」感じで耳にとめれば入れ替わってしまうことばもある。
「長まる」「眺める」。ふたつのことばが交錯する。そのとき「肉体」は「長まって」「眺める」を「実演する」。のんびり「眺める」には「長まる」のがいちばん。突っ立っていては疲れるからね。こういう「だらしなさ」を引き寄せるのも「おばさん」だなあ。「気取ったおじさん」なら「悠然」というだろうけれど、そういう清潔さは、私には嘘っぽく感じられる。やっぱりことばの調子(リズム)に身をまかせる「おばさんのだらしなさ(わがまま)」、間違えた「強さ(わがまま)」がいいんだよなあ、と思う。
*
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愛敬浩一自選詩集『真昼に』は、1982年から1999年に書かれた作品群。ここ20年のものは含まれていない。その、少し古い詩を読みながら、もしかするとこの作品群は「おじさん詩」と呼べるものかもしれない、と思った。
「長まる」という作品がある。
そこに
長まって下さい
秋田の人がそういった
イントネーションがむずかしい
同じ職場の
池田光雄さんが
耳にとめた それを
実演している
わかりますか
もちろんわかります
〈からだを長くのばして
横たわる〉
家の造りも
しっかりして
ことばが湯気のように
立ち籠めている
「ことば」がある。その「ことば」を「頭」ではなく「肉体」で受け止め、「肉体」をことばになじませる。そのとき、たぶん主客が逆転する。「肉体」の動きをことばが受け止め、肉体にあわせて「意味」が生まれる。
この呼吸が、きっと私が「おばさん詩」と感じているものに通じる。
「ことば」なんて、「肉体」にあわせて、かってに変えていけばいいのである。「ことば」の「意味」を「肉体」で具体化できるなら、その「ことば」はほんもののことばである。
それ以外のことは、まあ、どうでもいい。
そして、こういうとき「ことば」とは「口語」なのである。口から出てくることば。「呼吸(息づかい)」をもった響き。「ことば」がはっきりわからなくても、そのなかに少しでもわかるものが含まれていれば、それを手がかりに「肉体」はことばのもっている「感情(人間がつたえたいと思っているもの)」を間違いなくつかみとる。
長まって下さい
「長(い)」はわかる。「……(し)て」もわかる。「下さい」は、これは丁寧な言い方だ。何か親切で言ってくれているということがわかる。こういう「肉体」の理解は、たとえ間違っていても、だれも困らない。そういう「余裕」がある。間違っていたら間違っていたで、ただ笑うだけだ。
実際に体を「長くのばして/横たわる」という意味ではなく、「くつろいでください」「ゆっくりしてください」くらいのことかもしれないが、そうであればなおのこそ、体を長くのばして横たわると、逆に、とても歓迎されるだろう。まるで自分の家のようにくつろいでくれている、と。
実演している
この「実演する」が大事なのだ。
「実演する」と、「実演」が「肉体」で共有される。「肉体」が通い合うのである。「肉体」が通い合うのは、人間と人間だけではない。「家(の造り)」とも通い合う。そういうことがあって、ことばが「湯気」のように立ちこめる。充満する。「ことば」が「肉体」になって「空間」を埋めるのだ。
この、「抽象」にならない「湯気」という比喩、「立ち籠める」という比喩もいいなあ。ものごとを整理しない。むしろあいまいにする。つまり、ちょっとくらい間違えても大したことはない、という安心感。「抽象的な比喩(外国の現代思想に出てきそうな観念後)」だと、その「意味」を少し間違えただけで、だれかがきっと「それは違う」「何も知らないやつに語る資格はない」というようなめんどうくさい批判が飛んでくるでしょ? 「無知なやつはだまっていろ」というヒエラルキーが世界を区切っていくでしょ? 「湯気」の比喩では、そういうことは絶対に起きない。「湯気もうもうの風呂で裸のつきあいという感じだなあ。ゆったりするなあ」と感想を書いて、それが愛敬の思っていたことと違っていたって、別にどうということはない。
このあと途中、ちょっと学校の先生みたいに「知識」のひけらかしがあるが、その「知識」にしたって「中学校の文法」くらいの感じ。間違えたって、話せます、はい。で、そこが「おばさん」ではなく「おじさん」なんだろうけれど。
でも、まあ、いいさ。きっと愛敬は「国語の先生」なんだろう。ついつい「地」が出たというところ。「地」を出して平気なのも「おばさん」っぽい。
ああ 秋田で
今も生きている
泡立つ
口を出た
生の
ことば
を耳にとめる
今夜のお宿は何処でしょう
とめたことばに
とめてもらう
「とめた」は漢字で書くと違った文字になるが、声にすれば同じ。そこからあいまいなきいうか自在な(自分勝手な)リズムも生まれてくる。
その一方で、「漢字」(文字)が違うし、「音」も違うのだけれど、なんとなく「なまった」感じで耳にとめれば入れ替わってしまうことばもある。
秋田
まだ秋ではないが
遠く秋が見える
眺めると
田んぼが広がっているのがみえるではないか
ひかって
池のようだ
いくつあるか
羊を数えるように
長まるのにいい場所だが
遠い
「長まる」「眺める」。ふたつのことばが交錯する。そのとき「肉体」は「長まって」「眺める」を「実演する」。のんびり「眺める」には「長まる」のがいちばん。突っ立っていては疲れるからね。こういう「だらしなさ」を引き寄せるのも「おばさん」だなあ。「気取ったおじさん」なら「悠然」というだろうけれど、そういう清潔さは、私には嘘っぽく感じられる。やっぱりことばの調子(リズム)に身をまかせる「おばさんのだらしなさ(わがまま)」、間違えた「強さ(わがまま)」がいいんだよなあ、と思う。
*
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「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
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*
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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